15 ヘレナ・ブラックウッドの冷たい視線
古代ルーン文字学のゼミ室が半壊した「事故」は、ゼフィルス教官とリアムの迅速な隠蔽工作により、「実験中の魔力炉の暴発」として処理された。
幸い、負傷者はゼロ。
唯一の被害は、ゼミ室の床と天井、そしてゼフィルス教官の始末書が増えたことくらいだ。
だが、アリア・ローゼンの心に残った爪痕は、そう簡単には修復されなかった。
「……はぁ」
放課後の寮。
アリアは、自室のベッドに座り込み、自分の手のひらを見つめていた。
あの日、あの黒い種に触れた瞬間の感覚が、未だに指先に残っている。
吸い尽くされるような渇望。
そして、自分の意思を無視して溢れ出した、黄金の奔流。
「怖かった……」
もし、リアムが来てくれなかったら。
もし、彼が私の力を受け止めてくれなかったら。
私は、あの部屋ごと吹き飛んでいたかもしれない。あるいは、あの水晶の木に取り込まれて、人ではない「何か」になっていたかもしれない。
「にゃあ」
枕元で、クロノが心配そうに鳴いた。
「……大丈夫だよ、クロノ。魔力は、だいぶ戻ったから」
アリアは黒猫の頭を撫でた。
クロノ——大魔法使いクロノスは、あの事件の後、珍しく真剣な顔で言った。
『アリアよ。お前の「器」が広がり始めておる。成長痛のようなものだが……急激すぎる。しばらくは、魔力の使用を控えよ』
「控えるって言っても……」
アリアはため息をついた。
自分から使おうとしているわけではない。
向こうから——世界の方から、アリアの魔力を引きずり出そうとしてくるのだ。
まるで、何かの「鍵」を開けさせようとするかのように。
コンコン。
ドアがノックされた。
「アリアちゃん? 入っていい?」
メアリの声だ。
アリアは、慌てて暗い顔を隠し、努めて明るい声を出した。
「うん、いいよ!」
ドアが開き、メアリが入ってきた。
手には、参考書とノートを持っている。
「ごめんね、休んでるところ。……明日の魔法薬学のテスト、ここがどうしても分からなくて」
「ううん、全然大丈夫。どれどれ?」
いつもの日常。
アリアは、メアリの隣に座り、教科書を広げた。
メアリは、アリアにとって唯一の、何の裏表もない「普通の友達」だ。
魔力のことも、スパイ疑惑も、古代文明も関係ない。
ただ、一緒に勉強して、お茶を飲んで、笑い合える存在。
アリアにとって、彼女との時間は、リアムとの共有時間とはまた違った意味での、かけがえのない「救い」だった。
「……ねえ、アリアちゃん」
不意に、メアリがペンを止めた。
「ん? どうしたの?」
「……最近、変な感じがしない?」
「え?」
アリアはドキリとした。
変な感じ、というのは、自分の魔力のことだろうか?
「なんかね……視線を感じるの」
メアリは、不安そうに肩をさすった。
「教室でも、廊下でも。……誰かに、じっと見られているような。でも、振り向くと誰もいないの」
「視線……?」
「うん。それに、時々……頭が痛くなって、記憶がぼんやりすることがあるの。気づいたら、全然違う場所に立ってたりして……」
アリアの背筋が凍った。
記憶の欠落。原因不明の頭痛。
それは、クロノから教わった「精神干渉」の初期症状に似ている。
「メアリちゃん、それ、いつから?」
「えっと……。学園祭の後くらいからかな」
「……医務室には?」
「行ったけど、『疲労とストレスですね』って、薬をもらっただけ。……私、疲れてるのかなぁ」
メアリは、力なく笑った。
アリアは、メアリの手を握りしめた。
その手は、ひどく冷たかった。
「……今日は、もう勉強はやめて、休もう? 私、ハーブティー淹れるね。よく眠れるやつ」
「うん……。ありがとう、アリアちゃん」
アリアは、キッチンへ向かいながら、強い不安に襲われていた。
(ただの疲れならいいけど……)
(もし、誰かがメアリちゃんに……?)
アリアの脳裏に、学園祭で暴れた「泥の巨人」と、それを操っていた「見えない悪意」の存在がよぎった。
もし、その悪意が、まだ学園内に残っていて。
そして、アリアの一番大切な友人を、標的に定めているとしたら。
(……守らなきゃ)
アリアは、ポットのお湯を注ぎながら、強く誓った。
リアムが私を守ってくれるように。
私も、メアリちゃんを守るんだ。
その日の深夜。
王立マグノリア魔法学園の敷地外れにある、放棄された旧礼拝堂。
朽ち果てた祭壇の前に、一つの人影があった。
ゆらり、と蝋燭の炎が揺れる。
照らし出されたのは、美しいが、生気のない青白い顔をした女。
かつてこの学園で教鞭をとっていた、ヘレナ・ブラックウッドその人だった。
「……順調ね」
彼女は、手元の水晶玉を愛おしそうに撫でた。
水晶の中には、眠っているメアリ・スミスの顔が映し出されている。
そして、その映像の周囲には、蜘蛛の巣のような複雑な魔法陣が幾重にも張り巡らされていた。
「素質があるわ、この子」
ヘレナは、くつくつと笑った。
「魔力は平凡。精神力も弱い。……でも、『依存心』と『劣等感』が強い。つけ込む隙間だらけの、最高の操り人形だわ」
ヘレナの研究テーマは、「呪い」と「精神支配」。
彼女は知っていた。
強固な精神を持つ人間を操るのは難しい。だが、心に小さな「穴」が開いている人間ならば、そこから呪いを流し込み、意のままに操ることは造作もないと。
メアリ・スミス。
パン屋の娘。
A組というエリート集団の中で、唯一の「普通」の少女。
彼女は、アリア・ローゼンの親友という立場にありながら、心の奥底で、アリアの圧倒的な才能と、リアム・アークライトとの特別な関係に対し、無自覚な「羨望」と「疎外感」を抱いていた。
「アリアちゃんは、すごいね」
「アリアちゃんは、特別だね」
「それに比べて、私は……」
その、本人さえ気づいていない小さな暗い感情の種。
ヘレナは、そこを見逃さなかった。
彼女は、遠隔魔術でその種に水をやり、肥料を与え、じっくりと育て上げてきたのだ。
「さあ、仕上げよ」
ヘレナは、懐から小瓶を取り出した。
中には、ドロリとした黒い液体が入っている。
「泥の巨人」の核から抽出した、高濃度の呪いのエッセンス。
「これを飲み干せば、あなたの自我は消え失せ、私の忠実な下僕となる。……そして、あのアリア・ローゼンを、絶望の底へと突き落とすのよ」
ヘレナは、水晶玉に向かって、呪文を詠唱し始めた。
遠く離れた女子寮の一室で、眠るメアリの枕元に、見えない黒い影が忍び寄る。
翌日。
アリアは、朝からメアリの様子がおかしいことに気づいていた。
「おはよう、メアリちゃん」
「……おはよう、アリアちゃん」
挨拶は返ってくる。笑顔もいつも通りだ。
でも、何かが違う。
目が、笑っていない。
瞳の奥に、薄い霧がかかったように、焦点がわずかにズレている気がする。
「昨日はよく眠れた?」
「うん。ぐっすり。……夢を見た気がするけど、忘れちゃった」
メアリは、ぼんやりと答えた。
授業中も、メアリは上の空だった。
ノートを取る手は動いているが、黒板を見ているようで、何も見ていない。
休み時間になると、ふらりと教室を出て行こうとする。
「メアリちゃん、どこ行くの?」
アリアが声をかけると、メアリはビクッとして振り返った。
「え? あ、トイレ……。すぐ戻るね」
そう言って走り去る背中に、アリアは得体の知れない不安を感じた。
放課後。
アリアは、意を決してリアムに相談することにした。
図書委員の活動時間、地下修復室にて。
「……スミス嬢の様子が?」
リアムは、修復の手を止めて、アリアを見た。
「はい。……なんだか、おかしいんです。目が虚ろで、時々、独り言を言ってて……」
「独り言?」
「はい。『呼ばれてる』とか、『行かなきゃ』とか……」
リアムの表情が険しくなった。
「……それは、精神干渉の典型的な兆候だ」
「やっぱり……!」
アリアは顔を青くした。
「どうしよう、リアムさん。メアリちゃんが……!」
「落ち着け、ローゼン」
リアムは、アリアの肩に手を置いた。
「まだ、初期段階かもしれない。完全に支配される前なら、解呪が可能だ。……君の『光』なら、な」
「私の……」
「ああ。シルフィを救ったあの力なら、精神に巣食う呪いも払えるはずだ」
リアムは、アリアを信頼してくれている。
その事実に、アリアは少しだけ勇気づけられた。
「はい。……やってみます。今日、寮に帰ったら、メアリちゃんに話して……」
その時。
アリアのポケットの中で、通信用の魔道具(メアリとペアで持っている安物のお守り)が、ジリジリと熱を持った。
これは、緊急の呼び出し信号だ。
「メアリちゃん!?」
アリアは、慌てて魔道具を取り出した。
微かな音声が聞こえてくる。
『……アリア……ちゃん……』
『……たす……けて……』
『……こないで……にげて……』
ノイズ混じりの、悲痛な声。
そして、ガシャンという何かが割れる音と共に、通信は途絶えた。
「メアリちゃん!!」
アリアは叫んだ。
「場所は!? どこだ!」
リアムが問う。
アリアは、魔力感知を全開にした。
メアリの持つお守りには、アリアの魔力が込めてある。その微弱な光を辿る。
「……学園の、北側。……旧校舎の方です!」
「旧校舎? まさか、君たちの温室か?」
「わかりません! でも、行かなきゃ!」
アリアは、修復室を飛び出した。
リアムも、すぐに後に続く。
「待てローゼン! 一人で行くな! 私も行く!」
二人は、夕闇が迫る学園を疾走した。
嫌な予感が、胸の中で警鐘を鳴らし続けていた。
(メアリちゃん、無事でいて! お願い!)
旧校舎エリアに入ると、空気の質が変わった。
重く、湿った、澱んだ空気。
そして、微かに漂う、甘ったるい腐臭。
これは、学園祭の時の「泥の巨人」と同じ匂いだ。
「……結界が張られている」
リアムが、走りながら言った。
「認識阻害と、音響遮断。……かなり高度な術式だ。私の結界に近い構成をしている」
「え?」
「恐らく、アークライト家の術式を知る者が関与している。……やはり、ヘレナか」
二人は、アリアたちの「秘密の温室」の前までたどり着いた。
温室は、いつものように静かに佇んでいた。
だが、その扉は半開きになっており、中からは、異様な紫色の光が漏れ出していた。
「メアリちゃん!」
アリアは、ためらわずに温室の中へ飛び込んだ。
そこには。
変わり果てた温室の姿があった。
アリアたちが丹精込めて育てたハーブたちは、すべて枯れ果て、黒く炭化していた。
その代わりに、床からは毒々しい色の蔦植物が生い茂り、温室全体を侵食している。
そして、その中央。
枯れたラベンダーの山の真ん中に、メアリ・スミスが立っていた。
「メアリちゃん……?」
アリアが声をかけると、メアリはゆっくりと振り返った。
「……」
その瞳には、光がなかった。
白目の部分までが黒く染まり、瞳孔だけが赤く輝いている。
口元には、不気味な笑みが貼り付いていた。
「……ようこそ、アリアちゃん」
メアリの口から出た声は、彼女のものではなかった。
低く、冷たく、そして嘲るような、大人の女の声。
「お待ちしていたわ。……私の可愛い『鍵』」
「……誰?」
アリアは、後ずさりした。
「メアリちゃんを、返して!」
「ふふふ。この子はもう、私のものよ」 メアリは、優雅に腕を広げた。 その手には、禍々しい黒い短剣が握られている。
「アークライトの坊やも一緒ね。好都合だわ。まとめて始末してあげる」
リアムが、アリアの前に躍り出た。
「貴様……ヘレナ・ブラックウッドか!」
「ご名答。久しぶりね、優秀な元生徒さん」
メアリの体を借りて、ヘレナが笑う。
「さあ、始めましょうか。私の『最高傑作』の実験を」
メアリが、短剣を振り上げた。
その瞬間、温室の床から、無数の黒い影が湧き上がった。
それは、学園祭の泥人形のミニチュア版のような、数百体の「呪いの兵隊」たちだった。
「ひっ……!」
アリアは、その数に圧倒された。
「ローゼン! 下がっていろ!」
リアムが叫ぶ。
「私が道を開く! 君はスミス嬢の隙を見て、解呪を……!」
「無駄よ」
ヘレナが嘲笑った。
「この子の心は、もう泥で満たされている。外側から解こうとすれば、この子の精神が崩壊するわよ?」
「……卑怯な!」
「褒め言葉ね」
メアリが、指を鳴らした。
黒い兵隊たちが、一斉にアリアとリアムに襲いかかる。
「くそっ……! 《火壁》ッ!」
リアムが炎の壁を展開し、影たちを焼き払う。
だが、影は次から次へと湧いてくる。キリがない。
「アリアちゃん……たすけて……」
影の群れの向こうから、メアリの微かな本音が聞こえた気がした。
アリアは、涙を拭った。
(泣いてる場合じゃない)
(私が、やらなきゃ)
(私の『光』で、メアリちゃんの中の泥を、全部洗い流すんだ!)
震える足を叱咤し、リアムの背中を守るように立つ。
「リアムさん。……私に、道を」
アリアの声は、静かだが、力強かった。
「私が、メアリちゃんのところまで行きます。……そして、絶対に助けます」
リアムは、アリアを振り返り、ニヤリと笑った。 「……承知した。マイ・レディ」
「行くぞ!!」
リアムの炎が、道を切り開く。
その中を、アリアは光を纏って駆け抜けた。
親友を取り戻すために。
そして、自らの運命に立ち向かうために。
温室のガラスが、魔力の衝撃で砕け散る。 その破片が、月光を浴びてキラキラと輝きながら降り注ぐ中。 アリアとメアリ、二人の少女の、悲しき対決の幕が上がった。




