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風読みの魔女は静かに過ごしたい  作者: おおりく
1-7章 忍び寄る影

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15 ヘレナ・ブラックウッドの冷たい視線

古代ルーン文字学のゼミ室が半壊した「事故」は、ゼフィルス教官とリアムの迅速な隠蔽工作により、「実験中の魔力炉の暴発」として処理された。

幸い、負傷者はゼロ。

唯一の被害は、ゼミ室の床と天井、そしてゼフィルス教官の始末書が増えたことくらいだ。


だが、アリア・ローゼンの心に残った爪痕は、そう簡単には修復されなかった。


「……はぁ」


放課後の寮。

アリアは、自室のベッドに座り込み、自分の手のひらを見つめていた。

あの日、あの黒い種に触れた瞬間の感覚が、未だに指先に残っている。

吸い尽くされるような渇望。

そして、自分の意思を無視して溢れ出した、黄金の奔流。


「怖かった……」


もし、リアムが来てくれなかったら。

もし、彼が私の力を受け止めてくれなかったら。

私は、あの部屋ごと吹き飛んでいたかもしれない。あるいは、あの水晶の木に取り込まれて、人ではない「何か」になっていたかもしれない。


「にゃあ」

枕元で、クロノが心配そうに鳴いた。

「……大丈夫だよ、クロノ。魔力は、だいぶ戻ったから」

アリアは黒猫の頭を撫でた。

クロノ——大魔法使いクロノスは、あの事件の後、珍しく真剣な顔で言った。

『アリアよ。お前の「器」が広がり始めておる。成長痛のようなものだが……急激すぎる。しばらくは、魔力の使用を控えよ』


「控えるって言っても……」

アリアはため息をついた。

自分から使おうとしているわけではない。

向こうから——世界の方から、アリアの魔力を引きずり出そうとしてくるのだ。

まるで、何かの「鍵」を開けさせようとするかのように。


コンコン。

ドアがノックされた。

「アリアちゃん? 入っていい?」

メアリの声だ。

アリアは、慌てて暗い顔を隠し、努めて明るい声を出した。

「うん、いいよ!」


ドアが開き、メアリが入ってきた。

手には、参考書とノートを持っている。

「ごめんね、休んでるところ。……明日の魔法薬学のテスト、ここがどうしても分からなくて」

「ううん、全然大丈夫。どれどれ?」


いつもの日常。

アリアは、メアリの隣に座り、教科書を広げた。

メアリは、アリアにとって唯一の、何の裏表もない「普通の友達」だ。

魔力のことも、スパイ疑惑も、古代文明も関係ない。

ただ、一緒に勉強して、お茶を飲んで、笑い合える存在。

アリアにとって、彼女との時間は、リアムとの共有時間とはまた違った意味での、かけがえのない「救い」だった。


「……ねえ、アリアちゃん」

不意に、メアリがペンを止めた。

「ん? どうしたの?」

「……最近、変な感じがしない?」

「え?」

アリアはドキリとした。

変な感じ、というのは、自分の魔力のことだろうか?


「なんかね……視線を感じるの」

メアリは、不安そうに肩をさすった。

「教室でも、廊下でも。……誰かに、じっと見られているような。でも、振り向くと誰もいないの」

「視線……?」

「うん。それに、時々……頭が痛くなって、記憶がぼんやりすることがあるの。気づいたら、全然違う場所に立ってたりして……」


アリアの背筋が凍った。

記憶の欠落。原因不明の頭痛。

それは、クロノから教わった「精神干渉」の初期症状に似ている。


「メアリちゃん、それ、いつから?」

「えっと……。学園祭の後くらいからかな」

「……医務室には?」

「行ったけど、『疲労とストレスですね』って、薬をもらっただけ。……私、疲れてるのかなぁ」

メアリは、力なく笑った。


アリアは、メアリの手を握りしめた。

その手は、ひどく冷たかった。

「……今日は、もう勉強はやめて、休もう? 私、ハーブティー淹れるね。よく眠れるやつ」

「うん……。ありがとう、アリアちゃん」


アリアは、キッチンへ向かいながら、強い不安に襲われていた。

(ただの疲れならいいけど……)

(もし、誰かがメアリちゃんに……?)


アリアの脳裏に、学園祭で暴れた「泥の巨人」と、それを操っていた「見えない悪意」の存在がよぎった。

もし、その悪意が、まだ学園内に残っていて。

そして、アリアの一番大切な友人を、標的に定めているとしたら。


(……守らなきゃ)

アリアは、ポットのお湯を注ぎながら、強く誓った。

リアムが私を守ってくれるように。

私も、メアリちゃんを守るんだ。


その日の深夜。

王立マグノリア魔法学園の敷地外れにある、放棄された旧礼拝堂。

朽ち果てた祭壇の前に、一つの人影があった。


ゆらり、と蝋燭の炎が揺れる。

照らし出されたのは、美しいが、生気のない青白い顔をした女。

かつてこの学園で教鞭をとっていた、ヘレナ・ブラックウッドその人だった。


「……順調ね」


彼女は、手元の水晶玉を愛おしそうに撫でた。

水晶の中には、眠っているメアリ・スミスの顔が映し出されている。

そして、その映像の周囲には、蜘蛛の巣のような複雑な魔法陣が幾重にも張り巡らされていた。


「素質があるわ、この子」

ヘレナは、くつくつと笑った。

「魔力は平凡。精神力も弱い。……でも、『依存心』と『劣等感』が強い。つけ込む隙間だらけの、最高の操り人形マリオネットだわ」


ヘレナの研究テーマは、「呪い」と「精神支配」。

彼女は知っていた。

強固な精神を持つ人間を操るのは難しい。だが、心に小さな「穴」が開いている人間ならば、そこから呪いを流し込み、意のままに操ることは造作もないと。


メアリ・スミス。

パン屋の娘。

A組というエリート集団の中で、唯一の「普通」の少女。

彼女は、アリア・ローゼンの親友という立場にありながら、心の奥底で、アリアの圧倒的な才能と、リアム・アークライトとの特別な関係に対し、無自覚な「羨望」と「疎外感」を抱いていた。


「アリアちゃんは、すごいね」

「アリアちゃんは、特別だね」

「それに比べて、私は……」


その、本人さえ気づいていない小さな暗い感情の種。

ヘレナは、そこを見逃さなかった。

彼女は、遠隔魔術でその種に水をやり、肥料を与え、じっくりと育て上げてきたのだ。


「さあ、仕上げよ」

ヘレナは、懐から小瓶を取り出した。

中には、ドロリとした黒い液体が入っている。

「泥の巨人」の核から抽出した、高濃度の呪いのエッセンス。


「これを飲み干せば、あなたの自我は消え失せ、私の忠実な下僕となる。……そして、あのアリア・ローゼンを、絶望の底へと突き落とすのよ」


ヘレナは、水晶玉に向かって、呪文を詠唱し始めた。

遠く離れた女子寮の一室で、眠るメアリの枕元に、見えない黒い影が忍び寄る。


翌日。

アリアは、朝からメアリの様子がおかしいことに気づいていた。


「おはよう、メアリちゃん」

「……おはよう、アリアちゃん」


挨拶は返ってくる。笑顔もいつも通りだ。

でも、何かが違う。

目が、笑っていない。

瞳の奥に、薄い霧がかかったように、焦点がわずかにズレている気がする。


「昨日はよく眠れた?」

「うん。ぐっすり。……夢を見た気がするけど、忘れちゃった」

メアリは、ぼんやりと答えた。


授業中も、メアリは上の空だった。

ノートを取る手は動いているが、黒板を見ているようで、何も見ていない。

休み時間になると、ふらりと教室を出て行こうとする。


「メアリちゃん、どこ行くの?」

アリアが声をかけると、メアリはビクッとして振り返った。

「え? あ、トイレ……。すぐ戻るね」

そう言って走り去る背中に、アリアは得体の知れない不安を感じた。


放課後。

アリアは、意を決してリアムに相談することにした。

図書委員の活動時間、地下修復室にて。


「……スミス嬢の様子が?」

リアムは、修復の手を止めて、アリアを見た。

「はい。……なんだか、おかしいんです。目が虚ろで、時々、独り言を言ってて……」

「独り言?」

「はい。『呼ばれてる』とか、『行かなきゃ』とか……」


リアムの表情が険しくなった。

「……それは、精神干渉の典型的な兆候だ」

「やっぱり……!」

アリアは顔を青くした。

「どうしよう、リアムさん。メアリちゃんが……!」


「落ち着け、ローゼン」

リアムは、アリアの肩に手を置いた。

「まだ、初期段階かもしれない。完全に支配される前なら、解呪が可能だ。……君の『光』なら、な」

「私の……」

「ああ。シルフィを救ったあの力なら、精神に巣食う呪いも払えるはずだ」


リアムは、アリアを信頼してくれている。

その事実に、アリアは少しだけ勇気づけられた。

「はい。……やってみます。今日、寮に帰ったら、メアリちゃんに話して……」


その時。

アリアのポケットの中で、通信用の魔道具(メアリとペアで持っている安物のお守り)が、ジリジリと熱を持った。

これは、緊急の呼び出し信号だ。


「メアリちゃん!?」

アリアは、慌てて魔道具を取り出した。

微かな音声が聞こえてくる。


『……アリア……ちゃん……』

『……たす……けて……』

『……こないで……にげて……』


ノイズ混じりの、悲痛な声。

そして、ガシャンという何かが割れる音と共に、通信は途絶えた。


「メアリちゃん!!」

アリアは叫んだ。

「場所は!? どこだ!」

リアムが問う。

アリアは、魔力感知を全開にした。

メアリの持つお守りには、アリアの魔力が込めてある。その微弱な光を辿る。


「……学園の、北側。……旧校舎の方です!」

「旧校舎? まさか、君たちの温室か?」

「わかりません! でも、行かなきゃ!」


アリアは、修復室を飛び出した。

リアムも、すぐに後に続く。

「待てローゼン! 一人で行くな! 私も行く!」


二人は、夕闇が迫る学園を疾走した。

嫌な予感が、胸の中で警鐘を鳴らし続けていた。

(メアリちゃん、無事でいて! お願い!)


旧校舎エリアに入ると、空気の質が変わった。

重く、湿った、澱んだ空気。

そして、微かに漂う、甘ったるい腐臭。

これは、学園祭の時の「泥の巨人」と同じ匂いだ。


「……結界が張られている」

リアムが、走りながら言った。

「認識阻害と、音響遮断。……かなり高度な術式だ。私の結界に近い構成をしている」

「え?」

「恐らく、アークライト家の術式を知る者が関与している。……やはり、ヘレナか」


二人は、アリアたちの「秘密の温室」の前までたどり着いた。

温室は、いつものように静かに佇んでいた。

だが、その扉は半開きになっており、中からは、異様な紫色の光が漏れ出していた。


「メアリちゃん!」

アリアは、ためらわずに温室の中へ飛び込んだ。


そこには。

変わり果てた温室の姿があった。


アリアたちが丹精込めて育てたハーブたちは、すべて枯れ果て、黒く炭化していた。

その代わりに、床からは毒々しい色の蔦植物が生い茂り、温室全体を侵食している。


そして、その中央。

枯れたラベンダーの山の真ん中に、メアリ・スミスが立っていた。


「メアリちゃん……?」


アリアが声をかけると、メアリはゆっくりと振り返った。


「……」


その瞳には、光がなかった。

白目の部分までが黒く染まり、瞳孔だけが赤く輝いている。

口元には、不気味な笑みが貼り付いていた。


「……ようこそ、アリアちゃん」

メアリの口から出た声は、彼女のものではなかった。

低く、冷たく、そして嘲るような、大人の女の声。


「お待ちしていたわ。……私の可愛い『鍵』」


「……誰?」

アリアは、後ずさりした。

「メアリちゃんを、返して!」


「ふふふ。この子はもう、私のものよ」 メアリは、優雅に腕を広げた。 その手には、禍々しい黒い短剣が握られている。


「アークライトの坊やも一緒ね。好都合だわ。まとめて始末してあげる」


リアムが、アリアの前に躍り出た。

「貴様……ヘレナ・ブラックウッドか!」

「ご名答。久しぶりね、優秀な元生徒さん」


メアリの体を借りて、ヘレナが笑う。

「さあ、始めましょうか。私の『最高傑作』の実験を」


メアリが、短剣を振り上げた。

その瞬間、温室の床から、無数の黒い影が湧き上がった。

それは、学園祭の泥人形のミニチュア版のような、数百体の「呪いの兵隊」たちだった。


「ひっ……!」

アリアは、その数に圧倒された。

「ローゼン! 下がっていろ!」

リアムが叫ぶ。

「私が道を開く! 君はスミス嬢の隙を見て、解呪を……!」


「無駄よ」

ヘレナが嘲笑った。

「この子の心は、もう泥で満たされている。外側から解こうとすれば、この子の精神が崩壊するわよ?」


「……卑怯な!」

「褒め言葉ね」


メアリが、指を鳴らした。

黒い兵隊たちが、一斉にアリアとリアムに襲いかかる。


「くそっ……! 《火壁》ッ!」

リアムが炎の壁を展開し、影たちを焼き払う。

だが、影は次から次へと湧いてくる。キリがない。


「アリアちゃん……たすけて……」

影の群れの向こうから、メアリの微かな本音が聞こえた気がした。

アリアは、涙を拭った。


(泣いてる場合じゃない)

(私が、やらなきゃ)

(私の『光』で、メアリちゃんの中の泥を、全部洗い流すんだ!)


震える足を叱咤し、リアムの背中を守るように立つ。


「リアムさん。……私に、道を」

アリアの声は、静かだが、力強かった。

「私が、メアリちゃんのところまで行きます。……そして、絶対に助けます」


リアムは、アリアを振り返り、ニヤリと笑った。 「……承知した。マイ・レディ」


「行くぞ!!」


リアムの炎が、道を切り開く。

その中を、アリアは光を纏って駆け抜けた。

親友を取り戻すために。

そして、自らの運命に立ち向かうために。


温室のガラスが、魔力の衝撃で砕け散る。 その破片が、月光を浴びてキラキラと輝きながら降り注ぐ中。 アリアとメアリ、二人の少女の、悲しき対決の幕が上がった。

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