14 古代ルーン文字学の「覚醒」
その日、アリア・ローゼンは、憂鬱な気分で廊下を歩いていた。
足取りが重い。
向かう先は、第二図書館の奥にある「古代ルーン文字学」のゼミ室。
かつては、アリアにとって学園内で唯一の「安息の地」だった場所だ。
変人のゼフィルス教官と、無口なクラスメイトたち。
埃っぽい空気の中で、誰も戦闘の話をせず、ただ難解な文字(と、家庭菜園の理論)について語り合う、平和な時間。
それが、アリアの救いだった。
けれど、先週の出来事が、その安らぎに亀裂を入れていた。
『石版』。
ゼフィルス教官が持ち込んだ、発掘されたばかりの古代の遺物。
それに触れた瞬間、アリアの頭の中に流れ込んできた、鮮明なイメージと声。
『……我ら……種を蒔く者……』
あの日以来、アリアの感覚は、どこかおかしい。
風の音が、言葉のように聞こえることがある。
土の匂いを嗅ぐだけで、その土地の養分や水脈の流れが、地図のように脳裏に浮かぶ。
自分の内側にある「光」の魔力が、外の世界と勝手に繋がりたがっているような、そんな落ち着かない感覚。
(……行きたくないな)
アリアは、教科書を胸に抱きしめた。
でも、休むわけにはいかない。
休めば、あの心配性のリアム・アークライトが、「何かあったのか」と飛んできて、大騒ぎ(厳重な保護)になりかねないからだ。
(大丈夫。今日は、ただ座って、ニコニコしていればいいんだ)
(触らない。石とか、古文書とか、怪しいものには絶対に触らない)
アリアは自分に言い聞かせ、ゼミ室のドアを開けた。
「やあ! 遅かったじゃないか、アリア君!」
ドアを開けた瞬間、ゼフィルス教官のテンションの高い声が飛んできた。
部屋の中には、すでにノアとエミリーが席に着いている。二人とも、机の上に置かれた「何か」を、困惑した表情で見つめていた。
「先生、こんにちは……。それは?」
アリアは、嫌な予感を覚えながら、机の上の物体を見た。
それは、拳ほどの大きさがある、黒い塊だった。
石のようにも見えるし、枯れた植物の球根のようにも見える。
表面には、びっしりと細かいルーン文字が刻まれているが、風化していてほとんど判読できない。
「ふっふっふ。驚きたまえ」
ゼフィルス教官は、鼻息も荒くその黒い塊を撫でた。
「これはね、王立博物館の倉庫の奥底から見つかった、『分類不能遺物』なんだよ!」
「分類不能……ですか?」
「そう! 魔力鑑定にかけても反応なし。物理的に破壊しようとしても傷一つ付かない。ただの石ころとして数百年放置されていたガラクタさ!」
教官は、なぜか誇らしげだ。
「だが、私はピンときたんだ。この形状、この質感。……これは、間違いなく『種』だ!」
「種?」
おとなしいエミリーが、首を傾げた。
「はい。巨大な、植物の種に見えます」
「だろう!? さすがエミリー君、わかってるね!」
ゼフィルス教官は力説する。
「私の仮説では、これは古代の『世界樹』の化石化した種子だ。だが、ただの化石じゃない。表面のルーン文字を見たまえ。これは『封印』ではなく『保存』の術式だ。つまり、この種は死んでいない。数千年の眠りについているだけなんだよ!」
(……また始まった)
アリアは、内心で苦笑した。
ゼフィルス教官の「植物愛」は、時々暴走する。
ただの石ころを「世界樹の種」だと言い張るなんて、学会で発表したら笑いものだろう。
「そこでだ、諸君!」
教官は、ビシッと生徒たちを指差した。
「今日の課題は、この『種』を目覚めさせることだ!」
「「ええー……」」
ノアとエミリーが、あからさまに嫌そうな顔をした。
「無理ですよ先生。魔力鑑定でも反応がないんでしょう?」
「だからこそだ! 現代の魔術体系では測れない、古代の『アプローチ』が必要なんだ。さあ、順番に魔力を注いでみたまえ。優しく、語りかけるようにだぞ!」
アリアは、部屋の隅へ後ずさった。
(絶対に、やりたくない)
今の自分の状態で、そんな「正体不明の古代遺物」に魔力を注いだら、何が起こるか分からない。
まずは、ノアが指名された。
「……やりますよ」
彼はため息をつきながら、黒い塊に手をかざした。
「《土よ、育め》」
土属性の魔力を流し込む。
……シーン。
何も起きない。塊は、ただの石として沈黙している。
「ほら、やっぱりただの石ですよ」
次はエミリーだ。
「《風よ、運んで》」
風の魔力を送る。
……シーン。
微動だにしない。
「うーむ。やはり、並大抵の魔力では、硬い殻は破れないか……」
ゼフィルス教官は腕組みをして唸った。
そして、期待に満ちた目を、部屋の隅のアリアに向けた。
「さあ、真打ちの登場だ! アリア君!」
「えっ!? い、いえ、私は……!」
「君は『風使いの楽しい家庭菜園』の申し子だろう? 君のその、植物への愛情(という名の謎の魔力制御)なら、きっとこの頑固な種も心を開くはずだ!」
「む、無理です! 私、魔力Gですし!」
「謙遜するんじゃない。君の温室のラベンダーが、異常な魔力活性を起こしていることは知っているんだぞ」
「うっ……」
(バレてる……!)
ゼフィルス教官は、変人だが、研究者としての観察眼は鋭い。アリアが何か「特殊なこと」をしていると勘付いているのだ。
「さあ、触ってみるだけでいい。ね?」
教官に背中を押され、アリアは渋々、机の前へと進み出た。
目の前にある、黒い塊。
アリアは、ゴクリと唾を飲んだ。
(触るだけ。魔力は出さない。絶対に、出さない)
アリアは、自分の中の魔力回路を、鉄の意志で閉じた。
そして、恐る恐る、指先を伸ばした。
指が、黒い塊の表面に触れた。
ひやりと冷たい、石の感触。
(……よかった。何も起きない)
アリアが安堵して、手を離そうとした、その時だった。
ドクン。
まただ。
先週の石版と同じ。
いや、それ以上に強く、激しい「脈動」が、指先から伝わってきた。
『……求む……』
『……乾き……飢え……』
『……光を……!』
「ひっ!?」
アリアは悲鳴を上げ、手を引っ込めようとした。
だが、離れない。
手が、黒い塊に吸い付いている。
いや、違う。
黒い塊が、アリアの手を「捕食」しようとしているかのように、強力な吸引力を発生させているのだ。
「え、なに!? 離れない!?」
「おや? どうしたんだい?」
ゼフィルス教官が覗き込む。
その瞬間。
黒い塊の表面に刻まれていた、判読不能だったルーン文字が、一斉に発光した。
色は、鮮烈な「金」。
アリアの魔力の色だ。
「なっ……!?」
ノアとエミリーが椅子から立ち上がる。
「光った!?」
「魔力反応……!? 計測不能です!」
「あ、あああ……!」
アリアは、パニックに陥った。
吸われる。
体の中の魔力が、意思に反して、無理やり引きずり出されていく。
止めようとしても止まらない。
ダムが決壊したように、アリアの規格外の魔力が、その小さな黒い塊へと奔流となって流れ込んでいく。
「やめて! 離して!」
アリアが叫ぶ。
それに応えるように、黒い塊に「ヒビ」が入った。
パキッ。パキキッ。
黒い外殻が砕け散る。
中から溢れ出したのは、目が眩むような黄金の光。
そして、その光の中から、何かが「芽吹いた」。
それは、植物の芽だった。
だが、ただの植物ではない。
透き通るような水晶の茎。
エメラルドのように輝く葉。
そして、先端には、虹色に輝く小さな蕾。
それは、見る者すべてを魅了する、幻想的な美しさを持っていた。
だが、その成長速度は、悪夢のようだった。
グググググッ!!
芽は、一瞬にして茎を伸ばし、枝を広げ、天井に届くほどの「樹木」へと成長した。
机が重さに耐えきれずに砕ける。
床板が捲れ上がり、水晶の根が這い回る。
「うわあああっ!」
ノアとエミリーが逃げ惑う。
「す、すばらしい! なんだこれは! 本当に世界樹か!?」
ゼフィルス教官だけが、狂喜乱舞してスケッチブックを広げている。
「ちがう……! 止まって! お願い!」
アリアは、樹木の幹に手をついたまま、必死に念じた。
このままでは、部屋が壊れる。
いや、校舎が壊れる。
この木は、私の魔力を吸い尽くすまで、無限に成長し続けるつもりだ。
(制御しなきゃ。吸われるんじゃない。私が、コントロールするんだ!)
アリアは、混乱する意識を総動員した。
クロノスに叩き込まれた、魔力操作の基礎。
『魔力は水だと思え。流す量も、止める堰も、お前の心一つだ』
(閉じろ! 蛇口を閉めるイメージ!)
アリアは、体内の魔力回路を、物理的にねじ切るようなイメージで、遮断を試みた。
しかし、相手は古代の遺物。
数千年の渇きを癒やすために、アリアという極上の水源に食らいついている。
アリアの抵抗を嘲笑うかのように、さらに強く魔力を吸い上げる。
「あ……が……」
アリアの視界が霞む。
魔力欠乏による眩暈。
(だめ……。意識が……)
その時。
バンッ!!
ゼミ室のドアが、乱暴に蹴破られた。
「ローゼン!!」
飛び込んできたのは、リアム・アークライトだった。
彼は、廊下で待機していたのだろう(あるいは、異常な魔力波長を感知して飛んできたのか)。
部屋の中の惨状——天井を突き破らんとする水晶の樹木と、その根元でぐったりとしているアリアを見て、即座に状況を理解した。
「くそっ! 魔力暴走か!」
リアムは、迷わず樹木に向かって手を突き出した。
「断ち切れ! 《隔離結界》!」
リアムの手から、鋭利な刃のような結界が放たれる。
それは、アリアと樹木の間——魔力の供給ラインとなっている空間を、物理的に「切断」した。
バチンッ!!
見えない糸が切れるような音がして、アリアの体が後ろに弾き飛ばされた。
「きゃっ……!」
リアムが、滑り込むようにしてアリアを受け止める。
「しっかりしろ! ローゼン!」
「り、リアム、さん……」
アリアは、薄れる意識の中で、リアムの焦燥に満ちた顔を見た。
供給を絶たれた水晶の樹木は、ピタリと成長を止めた。
だが、すでに吸収した魔力だけで、部屋を埋め尽くすほどの巨木と化している。
そして、その蕾が、ゆっくりと開き始めた。
「……まずい」
リアムが呻く。
「あれが開花したら、溜め込んだ魔力を一気に放出するぞ。この部屋ごと吹き飛ぶ!」
「な、なんだって!?」
ゼフィルス教官がようやく正気に戻った。
「いかん! 貴重な研究資料が! いや、生徒たちが!」
「教官! 生徒を連れて退避してください!」
リアムが叫ぶ。
「私は、結界で爆発を抑え込みます!」
「し、しかしアークライト君、君一人では……」
「早く!」
ゼフィルス教官は、ノアとエミリーを抱えて廊下へ走り出した。
部屋には、リアムと、彼の腕の中のアリアだけが残された。
「……ローゼン。君も逃げろ」
リアムは、アリアを立たせようとした。
「い、いや……」
アリアは、首を振った。
「私の、せいだから……。私が、なんとかしないと……」
「馬鹿を言うな! 魔力切れでふらふらの君に何ができる!」
リアムはアリアを庇うように前に立ち、杖を構えた。
「私がやる。君を守ると、誓ったんだ」
彼は、全魔力を練り上げる。
目の前で、虹色の蕾が、今にも弾けそうに脈動している。
(……止められるか?)
リアムは、冷や汗を流した。
あの樹木が内包している魔力量は、桁違いだ。
アリアから吸い上げた「光」の魔力。
それを、自分の「結界」だけで完全に封じ込められるか。
失敗すれば、自分もろとも消し飛ぶ。
(……いや、やるしかない)
リアムは覚悟を決めた。
その時。
リアムの背中に、温かい手が触れた。
アリアの手だった。
「……一緒に、やります」
アリアの声は、弱々しいが、確かな意志が宿っていた。
「私の魔力を、使ってください」
「君はもう限界だ!」
「大丈夫。……『魔力』は空っぽでも、『光』は、まだあるから」
アリアは、リアムの背中に額を押し当てた。
そして、自分の中に残る、最後の力を振り絞る。
それは、魔力というよりは、祈りに近いもの。
原初の光。
それを、リアムの中へと流し込む。
「……ッ!?」
リアムは、目を見開いた。
背中から、熱い奔流が流れ込んでくる。
枯渇しかけていた彼の魔力回路が、瞬時に満たされ、いや、限界を超えて拡張されていく感覚。
アリアの光が、リアムの炎と結界の魔力と混ざり合い、黄金色の輝きへと昇華される。
(これが……彼女の力……!)
恐ろしいほどに純粋で、強大。
だが、不思議と拒絶反応はない。
まるで、最初から一つだったかのように、馴染む。
「……分かった」
リアムは、アリアの手の温もりを感じながら、杖を突き出した。
「行くぞ、ローゼン!」
「はい!」
二人の声が重なる。
「「《聖域結界》!!」」
リアムの結界術式に、アリアの光特性が付与された、即興のオリジナル魔術。
黄金のドームが、水晶の樹木を包み込む。
直後。
蕾が弾けた。
カッッッ!!
目も眩むような閃光と、衝撃波。
本来なら、校舎の一角を消滅させるほどのエネルギー放出。
だが、黄金の結界は、びくともしなかった。
爆発のエネルギーを、内側で受け止め、循環させ、そして「浄化」していく。
破壊の力を、無害な光の粒子へと変換し、空へと逃がしていく。
数秒後。
光が収まると、そこには、静寂だけが残っていた。
水晶の樹木は、魔力を放出しきって、ただの枯れ木のように白化し、サラサラと砂になって崩れ落ちていった。
後には、元の「黒い種」だけが、ぽつんと残されていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
リアムは、膝をついた。
全身の力が抜けていく。だが、心地よい疲労感だった。
守りきった。
「……やりましたね、リアムさん」
背後で、アリアがへたり込んでいた。
顔は真っ白だが、その表情は安堵に緩んでいる。
「ああ……。君のおかげだ」
リアムは、アリアの方を向き、苦笑した。
「……とんでもない『秘密』を、また一つ増やしてくれたな」
「ご、ごめんなさい……」
アリアは縮こまった。
「でも、本当に……助かりました」
二人は、崩壊したゼミ室の中で、互いの無事を確認し合うように見つめ合った。
そこには、以前の「監視者と対象者」という壁はなく、死線を共に潜り抜けた「戦友」のような絆が生まれていた。
だが、二人は気づいていなかった。
この騒動の一部始終を、遠くから「観測」していた存在がいることに。
校舎の屋上。
一人の女生徒が、風に髪をなびかせながら、眼下の第二図書館を見下ろしていた。
その瞳は、虚ろで、暗い。
彼女の手には、不気味な紫色の水晶玉が握られている。
水晶玉には、先ほどの「黄金の光」の波長が、鮮明に記録されていた。
「……確定」
少女の口から、無機質な声が漏れる。
それは、彼女自身の声ではなく、遠く離れた場所にいる「主」の言葉を中継するものだった。
「古代遺物を強制覚醒させるほどの、魔力供給能力」
「そして、呪いを浄化する『光』」
「間違いなく、彼女が『鍵』だ」
少女——ヘレナ・ブラックウッドの配下に精神を操られた上級生は、ニヤリと唇を歪めた。
「見つけたわ、アリア・ローゼン。あなたが、私が求めていた『器』よ」
少女は、懐から一枚の写真を取り出した。
それは、アリアと仲良く笑い合う、メアリ・スミスの写真だった。
「鍵を手に入れるには、まずは『弱点』から……。ふふふ」
不吉な笑い声を残し、少女は影の中に溶けるように姿を消した。
アリアの力が覚醒したその代償として、最悪の敵が、明確に彼女をロックオンした瞬間だった。
平穏な学園生活の終わりを告げる鐘が、誰にも聞こえない場所で、高らかに鳴り響き始めていた。




