13 静かなる共犯者
学園祭という非日常が過ぎ去り、王立マグノリア魔法学園には、再び穏やかな日常が戻ってきていた。
だが、アリア・ローゼンにとっては、その「日常」の風景は、以前とは決定的に異なっていた。
放課後。第二図書館、地下修復室。
カビと古紙の匂いが染み付いたこの密室は、かつてアリアにとって「針の筵」であり、胃に穴が空きそうなほどの緊張を強いる場所だった。
リアム・アークライトという、氷のように冷徹な監視者と二人きりの空間。
息をする音さえ咎められるような、重苦しい沈黙。
しかし、今は——。
「……ローゼン。その箱は重い。私が運ぼう」
「え? あ、いえ、大丈夫です。これくらい……」
「ダメだ。君の手は、もっと繊細な作業のためにある。粗雑な力仕事は私の領分だ」
リアムは、アリアが持ち上げようとした古文書の木箱を、さっと横から奪い取った。
その動作は優雅で、かつ、拒否を許さない強引さがあった。
「あ、ありがとうございます……」
アリアは、手持ち無沙汰になり、エプロンの端をぎゅっと握った。
(……過保護だ)
アリアは心の中で、嬉しいような、恥ずかしいような、そして少しだけ困惑した溜息をついた。
あの日。
学園祭の翌日、この部屋で「契約」を結んで以来、リアムの態度は激変していた。
冷たさは消え失せた。代わりに現れたのは、まるで壊れ物を扱うような、慎重で、かつ徹底的な「守護」の姿勢だった。
「次は、北側の棚の整理だな。……君はここで待機していてくれ。私が先に安全確認をしてくる」
「安全確認って……。ただの本棚ですよ?」
「万が一、崩れてくる可能性もゼロではない。それに、古い書物には得体の知れない魔術的トラップが仕掛けられていることもある。君に怪我をさせるわけにはいかない」
リアムは真顔だった。
彼は本気で、アリアを一歩たりとも危険に晒すまいとしているのだ。
公爵家の嫡男が、率先して埃まみれの狭い通路に入り込み、蜘蛛の巣を払い、安全を確認してから、「どうぞ」とアリアを招き入れる。
その姿は、図書委員のパートナーというよりは、高貴な姫君に仕える近衛騎士そのものだった。
(ど、どうしよう……。すごく、やりづらい……)
アリアは、自分が「ただの村娘(魔力G)」であることを忘れそうになる。
こんな扱いを受けることに慣れていないアリアは、彼の背中を見ながら、終始オロオロとしていた。
「ホゥ」
部屋の隅の止まり木で、シルフィが楽しそうに喉を鳴らした。
彼女は今や完全にアリアに懐いており、アリアが休憩でお茶を飲む時には、当然のように肩に止まってお菓子をねだるようになっている。
「シルフィちゃんも、笑わないでよぅ」
アリアが小声で文句を言うと、シルフィはアリアの頬を甘噛みした。
作業が一段落し、二人は作業台で向かい合ってお茶を飲んでいた。
アリアが淹れた、特製のミントティーだ。
リアムは、その香りを一口楽しみ、静かに口を開いた。
「……ローゼン。例の『監視』の件だが」
「は、はい」
アリアは背筋を伸ばした。
「表向きは、継続していることにしてある。父上(宰相)への報告書にも、『依然として不審点あり。引き続き要監視』と書いておいた」
「えっ……。嘘の報告を、してくれたんですか?」
「嘘ではない」
リアムは、カップの縁越しに、アリアを流し見た。
「君が『不審』であることは事実だからな。……良い意味でも、悪い意味でも」
アリアは言葉に詰まった。
確かに、魔力Gと言い張りながら「光」を使ったり、四天候と知り合いだったりする自分は、彼から見れば不審の塊だろう。
「だが、安心してくれ。私が監視しているという建前がある以上、他の『影』や、王宮の調査員が君に直接接触してくることはない。アークライト家の縄張りを荒らすような真似は、彼らも避けるはずだ」
「……リアムさん」
「君は、君のままでいい。ただ、平穏に過ごしてくれ。その平穏を脅かすものが現れたら……私が排除する」
その言葉は、力強く、頼もしかった。
アリアは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ずっと一人で(クロノはいるけれど)抱えてきた秘密の重荷を、半分、持ってくれている人がいる。
それだけで、世界が少しだけ優しく見えた。
「ありがとうございます。……あの、これ」
アリアは、バスケットからクッキーを取り出した。
「お礼、と言ってはなんですけど。……新作です。カモミールと蜂蜜のクッキー」
リアムの目が、ほんのわずかに輝いたのを、アリアは見逃さなかった。
彼は、甘いものに目がない(本人は隠しているつもりだが)。
「……毒味が必要だな」
彼はいつもの憎まれ口を叩きながら、クッキーを手に取り、口に運んだ。
サクッ、という音と共に、彼の表情がふわりと緩む。
「……悪くない」
「ふふ。よかったです」
地下室の空気は、以前のような冷たいものではなく、秘密を共有する者同士の、穏やかで心地よい空気に満ちていた。
図書委員の仕事がない日は、アリアにとって一番の楽しみである「古代ルーン文字学」のゼミがある日だ。
第二図書館の奥、埃っぽい小部屋。
そこは、アリアと、無口なノア、おとなしいエミリー、そして変人ゼフィルス教官だけの、隔絶されたサンクチュアリだ。
「やあ、同志諸君! 元気に土をいじっているかね!」
ゼフィルス教官は、今日も今日とて、髪をボサボサにして、大量の羊皮紙を抱えて現れた。
「先生、こんにちは」
「うむ、アリア君。君の温室の噂は聞いているよ。なんでも、ラベンダーが爆発的に咲いたそうだね? さすがミランダ・ポポロの信奉者だ。『ぽすん』の極意を掴んだようだね」
「あはは……。まあ、そんなところです」
(実際は光魔法の過剰供給だけど)
「さて、今日は面白いものを持ってきた」
ゼフィルス教官は、ドン、と重そうな石版を机の上に置いた。
それは、以前見せたレプリカではなく、本物の、発掘されたばかりの石版のようだった。
表面には泥がこびりつき、風化して欠けている部分も多い。
「先週、北の遺跡から発掘された『第4期・古代文明』の石碑の欠片だ。まだ誰も解読に成功していない、正真正銘の未知の言語だよ」
ゼフィルス教官は、子供のように目を輝かせている。
「さあ、みんなで眺めてみよう。何かインスピレーションが湧くかもしれない。模様としてスケッチするだけでもいいぞ」
ノアとエミリーが、興味深そうに、しかし困惑した顔で石版を覗き込む。
「……ただの、傷にしか見えません」
「……うねうねしてます」
当然の感想だ。
それは文字というよりは、風化した岩の亀裂にしか見えなかった。
アリアもまた、その石版に近づいた。
「失礼します……」
アリアは、石版の前に立った。
その瞬間。
ドクン。
アリアの心臓が、大きく跳ねた。
(……え?)
アリアは、思わず胸を押さえた。
石版から、何かが聞こえた気がしたのだ。
音ではない。声でもない。
もっと直接的な、「脈動」。
アリアは、恐る恐る石版に手を伸ばした。
指先が、冷たい石の表面に触れる。
——ドクン、ドクン。
(……生きてる?)
石版が、呼吸している。
アリアの指先を通じて、石版の中に眠っていた微かな「魔力の残滓」が、アリアの体内の「光」に共鳴し、震えているのだ。
そして、次の瞬間。
アリアの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
ただの亀裂に見えていた溝が、アリアの目の中で、鮮明な「光の線」となって浮かび上がった。
線は繋がり、形を成し、意味を持った「言葉」となって、アリアの脳内に直接流れ込んでくる。
『……我ら……種を蒔く者……』
『……空は落ち……大地は裂ける……』
『……光を……光を抱きて……眠らん……』
「……!」
アリアは、弾かれたように手を引っ込めた。
ハァ、ハァ、と息が荒くなる。
今のは、何だ?
読めた。
いや、「読めた」なんてものではない。
その文字を書いた古代人の「感情」や「情景」までもが、鮮明なイメージとなって叩き込まれた。
「おや? どうしたね、アリア君」
ゼフィルス教官が、不思議そうにアリアの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いぞ。貧血かね?」
「あ、いえ……。その……」
アリアは、冷や汗を拭った。
「なんでも、ないです。ちょっと、めまいが……」
「ふむ。あまり根を詰めすぎてはいけないよ。適度な休息こそが、良い野菜……じゃなかった、良い研究の秘訣だからね」
ゼフィルス教官は、能天気に笑っている。
彼は気づいていない。
今、この石版が、アリアの接触によって、微弱だが確実に「活性化」し始めていることに。
アリアは、震える手で自分の胸元を握りしめた。
(どうなってるの……?)
以前も、教科書のルーン文字が「なんとなく」読めることはあった。
でも、こんなにはっきりと、強烈に意味が流れ込んでくることはなかった。
変わったのは、石版の方ではない。
私だ。
学園祭の日。シルフィを助けるために、光の力を解放したあの日から。
私の中の「何か」が、蓋が開いたように、鋭敏になっている。
(怖い……)
自分の力が、自分の制御を超えて、勝手に世界と繋がり始めている感覚。
アリアは、石版から目を逸らした。
そこには、ただの汚れた石の塊があるだけだ。
だが、アリアには分かってしまった。
その石版には、かつてこの地を襲った「大災害」の記録と、それに対抗しようとした人々の「祈り」が刻まれていることを。
授業が終わり、アリアは逃げるように教室を出た。
「さようなら、先生……!」
「うむ、また来週! ミントの肥料について語り合おう!」
廊下に出ると、窓の外はすでに夕焼けに染まっていた。
アリアは、壁に寄りかかって大きく深呼吸をした。
(落ち着いて。大丈夫。気のせいだよ)
そう自分に言い聞かせる。
「……ローゼン」
不意に、名前を呼ばれた。
ビクッとして顔を上げると、廊下の角に、リアムが立っていた。
彼は、壁に背を預け、腕を組んでアリアを待っていたようだ。
「リアム、さん……?」
「遅かったな。……顔色が悪いぞ」
リアムは、アリアの顔を見るなり、眉を顰めた。
彼は、すっと近づいてくると、アリアの額に自分の手を当てた。
「ひゃっ!?」
「熱はないか。……貧血か? それとも、ゼフィルス教官に何か変な薬でも嗅がされたか?」
「ち、違います! ただの、立ちくらみです!」
アリアは慌てて飛び退いた。
心臓が破裂しそうだ。
(近い! 近いよリアムさん!)
最近の彼は、守護者としての意識が高すぎて、パーソナルスペースという概念が欠落しつつある。
「ならいいが。……送ろう。寮まで」
「え、あ、はい。お願いします……」
二人は並んで、夕暮れの廊下を歩き出した。
生徒たちの姿はまばらだ。
アリアは、少し前を歩くリアムの背中を見つめた。
広い背中。
迷いのない足取り。
(……頼もしいな)
以前は怖かったその背中が、今は何よりも安心できる盾に見える。
「……リアムさん」
「なんだ」
「もし……もしも、私が……」
アリアは、言い淀んだ。
もしも私が、もっと変な力を使っちゃったり、もっと変なものが見えちゃったりしたら。
それでも、私の味方でいてくれますか?
言葉にするのが怖くて、アリアは口を噤んだ。
リアムは、立ち止まった。
そして、振り返り、アリアをまっすぐに見つめた。
「……言ったはずだ」
彼は、アリアの心の迷いを見透かしたように、静かに言った。
「君が何者であれ、どんな力を持っていようと、私は君の盾になる。……その誓いに、揺らぎはない」
アリアは、目を見開いた。
彼は、何も聞いていないのに、アリアが一番欲しかった言葉をくれた。
「……はい」
アリアは、涙がこぼれないように、ぐっと堪えて笑顔を作った。
「ありがとうございます。……行きましょう」
二人の影が、長く伸びて、一つに重なる。
アリアは知らなかった。
彼女が石版に触れたことで、学園の地下深くに眠る「何か」が、呼応するように微かな鼓動を始めたことを。
そして、その鼓動を、鋭敏な感覚を持つ「ある人物」が、すでに感知していたことを。
その夜。
学園から遠く離れた、王都の地下水路。
暗闇の中に、一人の女が潜んでいた。
ヘレナ・ブラックウッド。
かつて学園の教師であり、禁忌の研究に手を染め追放された黒魔術師。
彼女は、水晶玉のような魔道具を覗き込み、不気味に唇を歪めていた。
「……見つけた」
彼女の声は、歓喜に震えていた。
「反応があったわ。学園の内部……『古代ルーン文字学』の教室」
彼女の魔道具には、微弱だが明確な「光」の波長と、それに共鳴する「古代の魔力」の波形が映し出されていた。
「間違いない。あのアリア・ローゼンという小娘……。ただの『光』の使い手じゃないわ」
ヘレナは、爪を噛んだ。
「あの子は、『鍵』だわ。私が長年探し求めてきた、古代の封印を解くための、生きた解錠キー……!」
ヘレナの背後に、黒い影が蠢いた。
それは、学園祭で現れた泥の巨人よりも、さらに濃密で、悪質な気配を纏った「影の従者」たちだった。
「行きなさい」
ヘレナは、冷酷に命じた。
「小娘を連れてくるのよ。……邪魔する者は、全て排除して構わない。あの目障りなアークライトの息子も、今度こそ息の根を止めておしまい」
影たちが、音もなく闇に溶けていく。
学園に向けて。
アリアに向けて。
平穏な日常の皮一枚下で、悪意の牙が、確実にアリアの喉元へと迫っていた。
アリアが手に入れた「共犯者」との絆が、この迫りくる闇に対して、どれほどの光を灯せるのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。




