12 白いフクロウの親愛
学園祭の喧騒から一夜が明けた。
祭りの後の高揚感と、心地よい疲労感が漂う王立マグノリア魔法学園。
本日は振替休日となり、多くの生徒が寮で遅めの朝を迎えていた。
アリア・ローゼンもまた、自室のベッドの上で、泥のように眠っていた。
昨日、一日中カフェの厨房で魔術制御(調理)を行い、最後に規格外の「透明な盾」と「解呪」を行使した反動だ。
肉体的な疲れというよりは、魔力回路をフル回転させたことによる精神的な倦怠感が、彼女の体を重くしていた。
「……うう」
アリアは呻き声を上げて寝返りを打った。
窓から差し込む日差しが眩しい。
(……生きてる)
それが、目覚めて最初の感想だった。
昨日の記憶が、走馬灯のように蘇る。
泥の巨人。崩壊する結界。飛び降りた自分。
そして、リアムの目の前で使ってしまった「光」の魔術。
「はっ!?」
アリアはガバッと跳ね起きた。
「や、やっちゃった……! 私、昨日、完全に……!」
「騒々しいぞ、アリア」
枕元で、黒い毛玉が不機嫌そうに尻尾を振った。
クロノだ。
彼は、学園長室から戻ってきて以来、我が物顔でアリアのベッド(の、一番いい場所)を占拠している。
「クロノ! 寝てる場合じゃないよ! 私、昨日……!」
「知っておる。見ておったわ」
クロノは、大きなあくびをした。
「学園長室の水晶玉でな。ヴォルグと共に観戦しておった。……まったく、お前という奴は。あれほど目立つなと言ったそばから、派手にやりおって」
「だ、だって! シルフィちゃんが死んじゃいそうだったから!」
アリアは必死に弁解した。
「見捨てられなかったの! ……あ、でも! 私、ちゃんと言い訳したよ! 『薬草です』って! 『ミントです』って!」
「……ほう」
クロノは、呆れたような、それでいてどこか面白がるような目でアリアを見上げた。
「あの状況で、あの奇跡を、ミントで誤魔化せたと? 本気でそう思っておるのか?」
「う……」
アリアは言葉に詰まった。
昨日のリアムの顔。
震える手でアリアの手を握り、「恩人だ」と言った、あの熱を帯びた瞳。
あれは、単に「薬草に詳しい子」に向ける目ではなかった気がする。もっとこう、見てはいけないものを見てしまったような、あるいは……。
「……まあ、よい」
クロノは、前足を舐めながら言った。
「ヴォルグとも話したが、結果オーライだ。あの泥人形は『呪い』の塊だった。お前の光でなければ、校舎ごと生徒が半分は消し飛んでいただろう。……よくやった、と褒めてやる」
「え?」
アリアは目を丸くした。
クロノに褒められた? あの、いつも罵倒しかしない師匠に?
「ただし」
クロノの目が鋭く光る。
「アークライトの小僧は、気づいたぞ。確実にな。あやつは、そこらのボンクラとは違う。アークライト家は代々、王家の影として『異能』を管理してきた家系だ。本物を見抜く目を持っておる」
「ひっ……」
アリアの血の気が引く。
「じゃ、じゃあ、やっぱり報告されて……退学……あるいは、実験動物……?」
「ククク。そう怯えるな」
クロノはニヤリと笑った。
「あやつの昨日の目。あれは『敵意』ではない。『畏怖』と……『忠誠』に近い色だ。……案外、面白いことになるかもしれんぞ」
「面白くないよ! 全然面白くない!」
アリアが頭を抱えていると、ドアがコンコンとノックされた。
「アリアちゃーん? 起きてる?」
メアリの声だ。
「あ、うん! 起きてる!」
アリアがドアを開けると、私服姿のメアリが、一枚の封筒を持って立っていた。
「おはよう。えへへ、昨日はお疲れ様。……あのね、これ」
メアリは、少し緊張した面持ちで、高級そうな厚手の封筒を差し出した。
封蝋には、アークライト家の紋章である「剣と盾」が押されている。
「え……?」
「さっき、寮の入り口で、リアム様に頼まれたの。『アリア・ローゼンに渡してくれ』って。……すごく、真剣な顔だったよ」
アリアの手が震えた。
果たし状か。それとも、尋問への呼び出し状か。
恐る恐る封を開け、中のカードを取り出す。
そこには、流麗な筆記体で、こう書かれていた。
『本日14時。第二図書館、地下修復室にて待つ。
一人で来てほしい。 ——L.A』
「……呼び出しだ」
アリアは、その場に崩れ落ちそうになった。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
約束の14時。
アリアは、死刑台に向かう囚人のような足取りで、第二図書館の階段を降りていた。
カビと古紙の匂いが、今日はやけに重苦しく感じる。
(何を言われるんだろう)
(『正体は分かっている』って言われるのかな)
(それとも、『王宮に出頭しろ』って……)
地下修復室の重い扉の前に立つ。
心臓が、早鐘を打っている。
アリアは深呼吸を三回繰り返し、震える手でノックをした。
「……どうぞ」
中から、リアムの静かな声がした。
アリアは、意を決して扉を開けた。
「し、失礼します……」
部屋の中は、いつもと変わらなかった。
修復道具が並ぶ作業台。積み上げられた古文書。
そして、その中央に、リアム・アークライトが立っていた。
今日は制服ではなく、仕立ての良いシャツとスラックスというラフな格好だが、その立ち姿の凛々しさは変わらない。
「……来てくれたか」
リアムは、アリアの方を向いた。
その表情は硬い。怒っているようにも、緊張しているようにも見える。
「あ、あの……」
アリアは、扉の前で直立不動になった。
「よ、呼び出しって……その……」
リアムは、アリアに近づいてきた。
一歩、また一歩。
アリアは後ずさりそうになるのを必死で堪えた。
彼が、アリアの目の前で立ち止まる。
そして。
「——昨日は、本当に、ありがとう」
リアムは、その場に片膝をつき、アリアの手を取ると、その甲に額を押し当てるようにして、深く、深く頭を下げた。
「ええええええ!?」 アリアは、本日二度目の絶叫(心の中で)を上げた。 「り、リアムさん!? な、何を!?」 公爵家の嫡男が。学年首席が。 平民のアリアに対して、跪いている。 これは、騎士が主君に対して行う、最上級の礼節だ。
「顔を、上げてください! お願いだから!」
「……いや。この感謝は、言葉だけでは伝えきれない」
リアムは顔を上げた。その空色の瞳は、濡れたように潤み、そして燃えるような真摯な光を宿していた。
「君のおかげで……シルフィは助かった。私の、一番大切な家族を、君が救ってくれたんだ」
「ホゥ!」
その時、部屋の隅にある止まり木から、白い影が飛び立った。
シルフィだ。
昨日の瀕死の状態が嘘のように、その純白の羽毛は艶やかに輝き、力強く羽ばたいている。
シルフィは、アリアの周りをくるりと一周すると、ふわりとアリアの肩に着地した。
そして、その柔らかな頬を、自分の頭でスリスリと擦り付けた。
「え……?」
アリアは固まった。
「ホゥ、クルックゥ(ありがとう、あったかかったわ)」
シルフィの、甘えるような鳴き声。
あの、入学式でクロノと大喧嘩し、高飛車でプライドの塊だったシルフィが。
今、アリアに完全に心を許し、デレデレに甘えている。
「シルフィ……」
リアムが、驚いたように目を見開いた。
「彼女が、私以外の他人にそこまで懐くとは……」
「あ、あの、シルフィちゃん、元気になって、よかった……」
アリアがおずおずとシルフィの頭を撫でると、シルフィは気持ちよさそうに目を細めた。
その温かさに、アリアの緊張も少しだけ解けた。
「……ローゼン」
リアムが立ち上がり、改めてアリアに向き直った。
「君に、聞きたいことがある」
(来た……!)
アリアは身構えた。
「昨日の、あの力。……あれは、本当に『ミント』の力なのか?」
直球だった。
アリアは、ゴクリと唾を飲んだ。
ここで、「はい」と言うべきか。それとも……。
クロノの言葉がよぎる。『お前はこれまで通り、魔力Gの落ちこぼれであり続けろ』。
「……は、はい!」
アリアは、冷や汗を流しながら言い張った。
「あ、あれは、私の村に伝わる、秘伝の……その、すごいミントなんです! 特殊な成分が、その、毒を中和して……!」
苦しい。自分でも分かるほど、苦しい言い訳だ。
リアムは、アリアの目をじっと見つめた。
数秒の沈黙。
アリアにとっては、数時間にも感じられる沈黙。
やがて、リアムはふっと小さく息を吐き、表情を緩めた。
「……そうか。ミントか」
彼は、納得していないことがありありと分かる口調で、しかし、それ以上追求しないことを選んだように、頷いた。
「世界は広いな。私の知らない薬草が、まだあるということだ」
「……し、信じて、くれるんですか?」
「ああ。君がそう言うなら、それは『ミント』だ」
リアムは、優しく言った。
「君が隠したいことがあるなら、無理に暴こうとは思わない。……ただ」
リアムは、一歩踏み出し、アリアとの距離を詰めた。
その瞳に、強い意志が宿る。
「ただ、これだけは知っていてほしい。……君が何者であれ、君がどんな力を持っていようと、君が私の恩人であることに変わりはない」
「……」
「アークライト家は、受けた恩を忘れない。……私は、誓う」
リアムは、右手を胸に当てた。
「今後、君にどんな危険が迫ろうとも、君のその『秘密』が脅かされそうになっても。私が、盾となって君を守る。……この命に代えても」
「え……」
アリアは、言葉を失った。
命に代えても?
そこまで?
たかが(と言っては失礼だが)使い魔を治しただけで?
違う。
アリアは本能で悟った。
彼は、気づいているのだ。アリアの力の「本質」に。
それが「光」であり、この世界においてどれほど希少で、どれほど危険な意味を持つかを。
そして、アリアがそれを必死に隠して、怯えながら生きていることを。
だから彼は、「正体を暴く」のではなく、「隠し通すことに協力する」という形で、アリアを守ろうと決めたのだ。
それは、彼なりの最大の誠意であり、騎士道だった。
「……あ、あの、リアムさん」
アリアは、俯いたまま、小さく言った。
「私……守られるような、立派な人じゃ、ないです。ただの、地味で、臆病な……」
「臆病でいい」
リアムは言った。
「君が臆病なら、私が代わりに勇敢になろう。君が目立ちたくないなら、私が代わりに目立って、君の影になろう」
(……なに、それ)
そんなの、まるで。
物語に出てくる、お姫様と騎士みたいじゃないか。
アリアの顔が、カッと熱くなった。
「……お、大袈裟です……」
「大袈裟ではない。これは『契約』だ」
リアムは、真面目くさった顔で言った。
「私は、君という『謎』を、誰にも解かせない。君は、そのままでいてくれ」
アリアは、目の前の少年を見た。
完璧で、冷徹で、怖いと思っていたリアム・アークライト。
でも、今の彼の目は、とても温かかった。
市場でポプリを渡した時よりも、もっと近く、もっと強く、アリアのことを見てくれている。
(……この人は、敵じゃない)
(私の味方になってくれるんだ)
アリアの胸の中にあった、重たい鉛のような不安が、少しずつ溶けていくのを感じた。
クロノや学園長とは違う。
対等な(いや、向こうは家柄も実力も上だけど)、同じ目線で歩んでくれる「仲間」。
「……わかりました」
アリアは、小さな声で、でもはっきりと答えた。
「……信じます。リアムさんのこと」
「ああ。任せてくれ」
リアムは、満足そうに微笑んだ。
それは、アリアが初めて見る、彼の年相応の、飾らない笑顔だった。
その時、アリアの鞄の中で、ガサゴソと音がした。
「……フン。聞いておれば、歯の浮くような台詞を」
クロノが、顔を出した。
「にゃっ!(出たな、泥棒猫!)」
肩の上のシルフィが、即座に羽を逆立てて威嚇する。
「黙れ焼き鳥。わしの主が世話になったな」
「ホゥ!(主の恩人は私の恩人よ! でもあんたは別よ!)」
二匹の使い魔は、バチバチと火花を散らしながらも、以前のような殺伐とした空気はなかった。
「……やれやれ。うちのシルフィも、君の猫には敵わないようだ」
「ふふ。クロノも、口が悪いだけで……」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
地下室の重苦しい空気は消え、そこには、穏やかな信頼の空気が流れていた。
こうして、アリアとリアムの間には、言葉にはしない「秘密の共有関係」が成立した。
アリアは「薬草使い」として。
リアムは「それを信じるフリをする護衛」として。
この奇妙な共犯関係は、これからの学園生活を、より複雑に、しかしより心強いものへと変えていくだろう。
だが、二人はまだ知らなかった。
この平穏な誓いの裏で、学園の闇が、静かに、しかし確実に動き出していることを。
同時刻。学園長室。
ヴォルグ学園長と、包帯を巻いたギデオン教官が、深刻な表情で向き合っていた。
机の上には、学園祭で回収された「泥の巨人」の残骸——黒い泥のサンプルが置かれている。
「……分析結果が出ましたか」
ギデオンが、苦々しい顔で尋ねる。
「ああ」
ヴォルグは、眉間に深い皺を刻んだ。
「この泥に含まれていた呪いの術式。……断片だが、復元できた」
ヴォルグは、一枚の羊皮紙を広げた。
そこには、複雑怪奇な魔法陣と、見覚えのある署名のような痕跡が描かれていた。
「これは……ヘレナ・ブラックウッドの研究データと一致する」
「やはり、あの女か……!」
ギデオンが拳を握りしめる。
「逃亡したままだとは思っていたが、まさか学園祭にまで手を出すとは。……狙いは何だ?」
「『実験』だろう」
ヴォルグは言った。
「彼女は、より強力な呪いを生み出そうとしている。生徒たちの負の感情を集め、実体化させる実験だ。……そして、もう一つ」
ヴォルグの目が、鋭く光った。
「彼女は、探しているのだ。『対抗者』を」
「対抗者?」
「自分の呪いを破ることができる存在。……つまり、『光』の使い手を」
ギデオンが息を呑む。
「まさか……アリア・ローゼンを?」
「気づかれた可能性が高い。昨日のカフェでの『透明な盾』。あれは上手く隠蔽したが、ヘレナのような専門家の目をごまかせるかどうか……」
ヴォルグは、窓の外、平和な学園の風景を見下ろした。
「ギデオン。警戒レベルを引き上げろ。特に、1年A組の周辺だ。……ヘレナは、必ずまた来る。今度は、アリア・ローゼンそのものを狙って」
「御意。……あのヒヨっ子は、俺が命に代えても守ります」 ギデオンは敬礼し、部屋を出て行った。
残されたヴォルグは、机の引き出しから、古い懐中時計を取り出した。
その蓋の裏には、若き日の自分と、師匠であるクロノス(人間の姿)が写った写真が貼られている。
「……師匠。あなたの予感が正しかったようです」
ヴォルグは、独りごちた。
「歯車が回り始めた。……アリア・ローゼンという特異点が、この学園の、いや、世界の運命を大きく変えようとしている」
嵐の前の静けさ。
アリアとリアムの「契約」が結ばれたその日、学園の深淵では、次なる戦いの幕が上がろうとしていた。




