9.5 暴走するハーブ
あの日曜日。
旧校舎の裏に「秘密の温室」を手に入れてから、数日が経過した。
アリア・ローゼンにとって、そこはまさに地上の楽園となるはずだった。
誰にも邪魔されず、大好きな植物に囲まれ、土をいじり、メアリとお茶を飲む。
そんな、ささやかで平穏な放課後を夢見ていたのだ。
しかし。
アリアの「平穏」は、いつだって彼女自身の規格外な力によって、斜め上の方向へと全力疾走していく運命にあった。
「……ねえ、アリアちゃん」
「……うん」
「これ、育つの……早すぎない?」
放課後の温室。
メアリ・スミスが、呆然と目の前の光景を見上げていた。
アリアもまた、冷や汗をダラダラと流しながら、同じものを見上げていた。
日曜日に植えたばかりの、ローズマリー。
それは、アリアの記憶では、高さ20センチほどの可愛らしい苗だったはずだ。
それが今、どういうわけか、アリアの腰の高さまで成長し、幹のように太い枝を四方八方に伸ばして、青々とした葉を茂らせていた。
それだけではない。
ミントはプランターから溢れ出し、床のレンガを覆い尽くす勢いで増殖し、緑の絨毯と化している。
ラベンダーに至っては、もはや「花」というより「紫色の爆発」だった。濃厚すぎる香りが温室内に充満し、吸い込むだけで意識が飛びそうになるほどの「癒やし効果」を放っている。
「……あ、あのね、メアリちゃん」
アリアは、震える声で言い訳を紡いだ。
「こ、ここは、日当たりが良いから……。それに、ほら、ここの土! 私たちが作った土が、すごく栄養満点だったんだよ! きっと!」
「そっかぁ! すごいねアリアちゃん! 魔法の肥料でも使ったみたい!」
メアリは、疑うことを知らない純粋な瞳で、手を叩いて喜んだ。
アリアは心の中で、(ごめんなさい、魔法の肥料どころか、聖なる光をドバドバ注ぎました)と懺悔した。
「でも、これじゃあ育ちすぎて困っちゃうね」
メアリが、ジャングルのようになったミントの森を掻き分ける。
「うん……。間引きしないと」
アリアは、剪定ばさみを取り出した。
チョキン、チョキン。
伸びすぎた枝葉を切り落としていく。
切った端から、強烈な香りが立ち上る。それは、ただのハーブの香りではない。濃密なマナを含んだ、魔力回復薬顔負けの芳香だ。
「……すごい匂い」
メアリが、うっとりとした顔をした。
「なんだか、ここにいるだけで、すごく元気になってくる気がする……。昨日の魔法史のレポートの疲れが、全部吹き飛んじゃったかも」
「あはは……。それはよかった」
アリアは、切り取った大量のハーブの山を見て、途方に暮れた。
捨てるのはもったいない。かといって、寮に持ち帰れば、この異常な香りで騒ぎになるかもしれない。
「そうだ!」
メアリが提案した。
「これ、今度の学園祭の『カフェ』で使わない? ミントティーとか、ローズマリーのクッキーとか!」
「え?」
「こんなに立派で、いい香りのハーブだもん。絶対にお客さんも喜ぶよ!」
アリアは一瞬、躊躇した。
(このハーブ、魔力を吸いすぎて変異してないかな……? お客さんが食べても大丈夫かな……?)
アリアは、こっそりと切り落としたミントの葉を一枚、口に含んでみた。
——シャキーン!!
瞬間、脳天を突き抜けるような清涼感と共に、視界がクリアになり、体中の細胞が活性化するような感覚が駆け巡った。
疲れ目が治り、肩こりが消え、おまけに肌のツヤまで良くなった気がする。
(……うん。美味しい。すっごく美味しいけど、効き目が強すぎる)
だが、毒ではない。むしろ、超一級品の薬草だ。
これを薄めて使えば、あるいは……。
「……うん、そうだ音。乾燥させて、ドライハーブにして持っていこう」
アリアは頷いた。
「ソフィアちゃんたちの役に立てるなら、嬉しいし」
こうして、二人は大量のハーブを収穫し、温室の梁に吊るして乾燥させる作業に没頭した。
夕暮れの温室は、金色の夕日と、乾燥ハーブの香りに満たされ、それはそれは幻想的で、平和な空間だった。
——その外側で、一人の少年が、死にそうな顔で結界を維持していることを除けば。
温室の屋根の上。
認識阻害の結界の、さらに外側。
リアム・アークライトは、瓦にへばりつくようにして、温室の中を監視していた。
「……くっ、ふぅ……」
彼は、肩で息をしていた。
顔色は青白く、額には脂汗が滲んでいる。
無理もない。
日曜日の夕方から、彼はこの温室を覆う「隠蔽結界」を、授業中と睡眠時間以外、ほぼ常時維持し続けているのだ。
あの日、アリアが作り出した「聖域」は、時間が経つにつれ、その魔力濃度を増していた。
温室の中の植物たちが、アリアの残留魔力を吸収し、それを増幅して吐き出しているのだ。
その「光」の漏洩を防ぐため、リアムは自分の魔力を注ぎ込み続けなければならなかった。
(……なんだ、この植物の成長速度は) リアムは、片眼鏡越しに、室内で楽しそうに作業をするアリアとメアリを見た。 (二日で、ローズマリーが低木化しただと? どんな魔術を使えばそうなる? 『時間加速』か? 『生命付与』か?)
アリア・ローゼン。
彼女への謎は深まるばかりだった。
彼女は、得体の知れない組織のスパイ(とリアムは確信している)でありながら、やっていることは、友人とキャッキャと笑い合いながらの、草むしりと収穫だ。
(……あの笑顔)
リアムの胸が、ズキン、と痛んだ。
市場で見せた笑顔と同じ。
何の裏表もない、心からの楽しそうな笑顔。
あれが演技なら、彼女は国を傾けるほどの魔性の女だ。
だが、もし、あれが素顔だとしたら……?
(……いや。惑わされるな)
リアムは首を振った。
(彼女の無自覚な力は、放置すれば災厄を招く。私が管理しなければならない)
その時、温室の扉が開いた。
作業を終えた二人が出てくる。
リアムは慌てて気配を消し、屋根の死角に身を隠した。
「じゃあね、アリアちゃん! また明日!」
「うん。バイバイ、メアリちゃん」
メアリが先に寮へ戻っていく。
アリアは、一人、温室の前に残った。
彼女は、満足そうに温室を見上げ、そして、手元の小さな布袋を大事そうに抱きしめた。
中には、今日収穫して乾燥させたばかりの、ラベンダーのポプリが入っている。
アリアが、寮へ向かって歩き出そうとした、その時。
彼女は、ふと足を止め、旧校舎の影——リアムが潜んでいる屋根の方向へ、顔を向けた。
(……!? バレたか?)
リアムは緊張した。
彼の隠密スキルは王宮仕込みだ。簡単には見つからないはずだが、相手はあのアリアだ。
アリアは、誰もいない屋根に向かって、ぺこり、と深くお辞儀をした。
「……いつも、守ってくれて、ありがとうございます」
小さな、鈴のような声が、夕闇に溶けた。
「……っ」
リアムは、息を呑んだ。
彼女は、気づいていたのか?
自分が、結界を張って、この温室を隠蔽していることに?
そして、それを「監視」ではなく「守ってくれている」と解釈しているのか?
アリアは、お辞儀を終えると、そのままトコトコと寮の方へ歩き去っていった。
リアムは、しばらくの間、屋根の上で動けなかった。
心臓が、早鐘を打っている。
(……感謝、された?)
(スパイの私が、ターゲットに?)
(いや、違う。彼女は、私が「敵」ではないと、知っているのか?)
混乱する思考の中で、一つだけ、確かなことがあった。
彼女の最後の言葉と、その時の柔らかな表情が、リアムの疲弊しきった精神に、奇妙なほど深く、温かく突き刺さったということだ。
「……調子が狂う」
リアムは、深い溜息をつき、結界の強度を再確認してから、屋根を降りた。
翌日の放課後。
アリアは、図書委員の当番で、例の地下修復室にいた。
そしてもちろん、その隣には、リアム・アークライトがいる。
いつもの、沈黙。
重苦しい空気。
だが、アリアは今日、ある「決意」をしてきていた。
(リアムさんは、怖い)
(私をスパイだと思ってるし、監視するとか言うし)
(でも……)
アリアは、昨日の夕方を思い出していた。
温室から帰る時、ふと、視線を感じた。
いや、視線というより、温室全体を包み込むような、誰かの「魔力の気配」を感じたのだ。
それは、中間試験の時にリアムが使っていた「結界」の魔力と、同じ質のものだった。
(あの温室が、外から見つからないように、してくれてるんだ)
アリアは、そう直感した。
彼がなぜそんなことをするのかは分からない。(アリアの思考では「監視しやすいように囲い込んでいる」という発想には至らなかった)。
ただ、彼のおかげで、あの秘密基地が守られているのは事実だ。
(お礼、しなきゃ)
アリアは、エプロンのポケットから、昨日の「ラベンダーのポプリ」を取り出した。
小さな、刺繍入りの袋。メアリとお揃いで作ったものだ。
「あ、あの……」
アリアは、勇気を振り絞って声をかけた。
リアムの手が止まる。
彼は、ゆっくりとアリアの方を向いた。
「……なんだ」
相変わらずの無表情。冷たい声。
アリアは、ひるみそうになりながらも、ポプリの袋を差し出した。
「これ……。どうぞ」 「……これは?」 「ラベンダーの、ポプリです。……その、昨日、温室で採れたもので……」 アリアは、俯きながら早口で言った。 「枕元に置くと、よく眠れるんです。リアムさん、最近、目の下にくまができてるから……。お、お疲れかなって……」
リアムは、目を見開いた。
彼は、自分の顔に手をやった。
(隈? 私が?)
毎晩の結界維持による魔力枯渇と睡眠不足。
完璧に隠していたつもりだったが、彼女には見抜かれていたのか。
「……なぜ、私に?」
リアムは、警戒心を解かずに尋ねた。
「毒でも入っているのか?」
「入りません!」
アリアは、ぷくっと頬を膨らませた。
「ただの、お礼です! ……いつも、その、図書委員の仕事とか、いろいろ……お世話になってるから」
(温室を守ってくれてありがとう、とは言えなかった。それを言うと、彼が隠れていることに気づいていると言ってしまうことになるから)
リアムは、差し出された小さな袋を、しばらく凝視していた。
そして、ためらいがちに、それを受け取った。
「……毒味は、後でする」
憎まれ口を叩きながらも、彼はそれをポケットにしまった。
その時、ふわりと、袋からラベンダーの香りが漂った。
——スーッ。
その香りを吸い込んだ瞬間、リアムの張り詰めていた神経が、強制的に緩められた。
頭の芯にあった重い痛みが消え、泥のような疲労感が、波が引くように浄化されていく。
(……なんだ、これは)
(ただのラベンダーではない。これは、高位の『浄化』と『回復』の魔力が込められた、一級の魔道具並みの……)
リアムは、アリアを見た。
彼女は、もう作業に戻っていた。
小さな背中。
怯えているようで、でも、どこか芯の強い少女。
「……ありがとう」
リアムは、自分でも驚くほど小さな声で、呟いた。
アリアの耳に届いたかどうかは、分からない。
だが、彼女の肩が、ほんの少しだけ、嬉しそうに跳ねたのを、リアムは見逃さなかった。
地下室の空気は、相変わらずカビ臭く、重苦しかった。
だが、その片隅に、ラベンダーの清らかな香りが漂い、二人の間の氷の壁を、ほんの数ミリだけ、溶かしたような気がした。




