9 秘密の温室と「家庭菜園」の実践
王都の市場への外出から一夜が明けた、日曜日の朝。
アリア・ローゼンは、寮の自室で、豊かなハーブの香りに包まれて目覚めた。
窓から差し込む朝日が、昨日メアリと一緒に選んだ「ローズマリー」と「ミント」、そして「ラベンダー」の苗を照らしている。
まだ小さな黒いビニールポットに入ったままの苗たちは、どこか窮屈そうで、けれど生命力に溢れていた。
「……おはよう」
アリアは、ベッドから起き上がると、真っ先に苗たちの元へ歩み寄った。
指先で、ローズマリーの硬い葉をそっと撫でる。指に残った清涼感のある香りを胸いっぱいに吸い込むと、昨日までの学園生活での鬱屈とした気分が、少しだけ晴れるような気がした。
「早く、植え替えてあげないと」
アリアは、ポットの土の乾き具合を確認しながら呟いた。
これらのハーブは、生命力が強い。今の小さなポットのままでは、すぐに根詰まりを起こしてしまう。早く広い土に植え替え、のびのびと根を張らせてあげなければならない。
しかし、ここで問題があった。
女子寮の規則では、「自室での大型プランターの設置」や「ベランダでの泥汚れを伴う作業」は、美観と衛生上の理由から厳しく制限されていたのだ。
窓辺に小さな鉢を一つ二つ置く程度なら黙認されるだろうが、アリアがやりたいのは、そんな可愛らしいガーデニングではない。
『風使いの楽しい家庭菜園』に記された理論を実践し、土の配合からこだわり、風と光の魔術で生育環境を整える、本格的な「栽培」だ。
「……場所が、ない」
アリアは、苗たちを見つめて途方に暮れた。
やはり、この学園には、自分の居場所も、植物たちの居場所もないのだろうか。
その時、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「アリアちゃん? 起きてる?」
メアリの声だ。アリアは急いでドアを開けた。
「おはよう、メアリちゃん!」
「おはよう! ……ふふ、アリアちゃんの部屋、すごくいい匂いがするね」
メアリは、部屋に満ちるハーブの香りに目を細めた。
「うん。でも……」
アリアは、困ったように眉を下げ、寮の規則と、植え替え場所がないことを相談した。
メアリは、うーん、と人差し指を顎に当てて考え込んだ。
「そっかぁ。寮の庭は、専属の庭師さんが管理してるから、勝手に掘り返したら怒られちゃうもんね」
「うん……。どうしよう」
「……あ! そうだ!」
メアリが、ポンと手を叩いた。
「ねえアリアちゃん。私、前に学園の探検をしてた時に、良さそうな場所を見つけたの!」
「良さそうな場所?」
「うん! 旧校舎の裏側! あそこなら、誰も来ないし、荒れ放題だったから、こっそり使ってもバレないかも!」
「旧校舎……」
その響きに、アリアの目が輝いた。
人気がない。荒れ放題。誰も来ない。
それはつまり、アリアが最も求めている「隔離された空間」ということだ。
「行こう! メアリちゃん!」
王立マグノリア魔法学園の敷地は広大だ。
現在使われている本館や教室棟、寮がある「中央区画」の北側には、鬱蒼とした森に囲まれた「旧学園区画」が存在する。
かつて使われていた石造りの校舎や塔が、今は蔦に覆われ、静かに眠っているエリアだ。
アリアとメアリは、作業着代わりの動きやすい服に着替え、スコップやバケツを持って、その旧区画へと足を踏み入れた。
足元の石畳はひび割れ、隙間から雑草が顔を出している。
聞こえるのは鳥のさえずりと、風が木々を揺らす音だけ。
「ここだよ」
メアリが案内したのは、旧校舎の本館裏、中庭だった場所のさらに奥まった一角だった。
高い生垣のトンネルを抜けると、そこには、忘れ去られた小さな建物が佇んでいた。
「……わあ」
アリアは、感嘆の声を漏らした。
それは、ガラス張りの「温室」だった。
ドーム状の天井。優美な曲線を描く鉄のフレーム。
かつては、貴族の子女たちが優雅にお茶を楽しみながら、珍しい花々を愛でた場所なのだろう。
今は、ガラスの半分が泥と苔で曇り、入り口の扉は錆びつき、内部は枯れた植物と雑草のジャングルになっているが、その骨組みはしっかりとしていた。
「どう? ここなら、雨も風も防げるし、日当たりも最高だよ!」
メアリが得意げに言う。
アリアは、吸い寄せられるように温室に近づき、曇ったガラスを袖でそっと拭った。
中に差し込む光。静止した空気。
そこには、学園の喧騒も、リアムの監視の目も、クラスメイトの嘲笑もない。
ただ、植物と、静寂だけがある。
「……最高」
アリアは、震える声で言った。
「ここ、最高だよ、メアリちゃん……! ここなら、誰にも邪魔されない!」
「ふふ、よかった! じゃあ、早速お掃除しよっか!」
「うん!」
二人の「秘密基地作り」が始まった。
まずは、錆びついた扉をこじ開けるところからだ。
「せーのっ!」
ギギギギ……と、嫌な金属音を立てて、扉が開く。
中からは、カビと土埃の混じった、むっとするような空気が溢れ出した。
「うわぁ、埃すごいね」
メアリが手で口を覆う。
「私が、水で洗い流すね! 《洗浄》!」
メアリが杖を振ると、清潔な水が噴き出し、床の泥汚れを洗い流していく。
アリアも負けてはいられない。
「じゃあ、私は埃を……」
アリアは、周囲を見渡した。
温室の高い天井。手の届かない梁や、ガラスの隅に溜まった分厚い埃。
普通なら、梯子を持ってきて、雑巾で拭かなければならない大変な作業だ。
だが、アリアには「風」がある。
(……誰も見てない。メアリちゃんは、床掃除に夢中だ)
アリアは、こっそりと、しかし大胆に魔力を練った。
イメージするのは、先日、図書館の地下室で古文書に対して行った『風膜』の応用。
ただし、今回はあんなに神経をすり減らすような精密さは必要ない。もっと大雑把に、豪快に。
(風よ。私の箒になりなさい)
アリアが指を鳴らすと、温室の中に、つむじ風が発生した。
それは、ただの風ではない。
ガラスの表面、鉄骨の隙間、床の隅々。あらゆる場所にへばりついた埃だけを、静電気のように吸着し、巻き込んでいく「掃除の風」だ。
ザザザザッ!
一瞬にして、温室中の埃が空中でひとつの球体にまとまり、そのまま開け放たれた天窓から、ポイッと外へ排出された。
「えっ!?」
水仕事をしていたメアリが、急に明るくなった室内に驚いて顔を上げた。
曇っていたガラスが、まるで新品のようにピカピカに磨き上げられ、太陽の光が燦々と降り注いでいる。
「す、すごい……! アリアちゃん、今、何したの!?」
「え? あ、ええと……」
アリアは、しまった、と思ったが、もう遅い。
「風で、ちょっと、換気しただけ……だよ?」
「換気でこんなにピカピカになるの!? すごーい! アリアちゃん、やっぱり魔法上手なんだね!」
メアリは、疑うことを知らないキラキラした目で、純粋に称賛してくれた。
アリアは、罪悪感と嬉しさの入り混じった複雑な気持ちで、「えへへ……」と笑って誤魔化した。
掃除が終わると、温室は見違えるように美しくなった。
朽ちた木の棚を修理し、昨日買ったハーブの苗を並べる。
そして、いよいよ「植え替え」だ。
「土作りは、私に任せて」
アリアの表情が、真剣なものに変わる。
彼女は、持ってきた腐葉土と、旧校舎裏の森から採取した土を、温室の隅に積み上げた。
「美味しいお野菜……じゃなかった、元気なハーブを育てるには、土が一番大事なの」
アリアは、土の山に両手を突っ込んだ。
ひんやりとした感触。
目を閉じ、土の中の「声」を聞く。
(ちょっと、空気が足りない。団粒構造が崩れてる。水はけが悪いわね)
アリアは、土の中に、微細な魔力を流し込んだ。
それは、「土魔法」による造成ではない。
「風魔法」による、ミクロ単位の土壌改良だ。
土の粒子と粒子の間に、極小の空気の泡を送り込み、土をふかふかに耕していく。同時に、余分な水分を風で飛ばし、微生物が活動しやすい環境を整える。
「……《エアレーション》」
アリアが小さく呟くと、積み上げられた土の山が、ボフッ、と音を立てて一回り大きく膨らんだ。
まるで、焼きたてのパンのように、ふかふかで、温かい土の完成だ。
「わあ……! 土が、生きてるみたい!」
メアリが、目を丸くして土に触れる。
「すごい! ふわふわだぁ!」
二人は、その「最高の土」をプランターに入れ、ハーブの苗を優しく植え替えた。
ローズマリー、ミント、ラベンダー。
広々とした新しい土に根を下ろし、苗たちもどこか嬉しそうだ。
「大きくなあれ、大きくなあれ」
メアリが、ジョウロで水をあげながら、おまじないのように唱える。
アリアも、その隣で、苗たちを見つめた。
(……この子たち、環境が変わって、少しびっくりしてるかも)
植え替え直後の植物は、根にダメージを負い、弱ってしまうことがある。
(少しだけ、元気をあげよう)
アリアは、苗に手をかざした。
思い出すのは、故郷の村で、父がやっていたこと。
そして、『風使いの楽しい家庭菜園』の最終章に書かれていた、「お野菜へのおまじない」。
(お日様の光が、根っこに染み込んでいくイメージ)
(痛いの痛いの、飛んでいけ)
(ここで、元気に、根を張ってね)
アリアの手のひらから、淡い、黄金色の光が溢れ出した。
それは、魔術の体系で言えば「光魔法」に分類されるものだ。
だが、アリアにとっては、これは「魔術」ではなかった。
ただの、「祈り」であり、「応援」だ。
彼女の体内に眠る、規格外の魔力タンクから、ほんの僅かな「雫」がこぼれ落ちる。
その雫は、純粋な「生命エネルギー」となって、土の中へ、そしてハーブの根へと染み渡っていった。
「……!」
隣で見ていたメアリが、息を呑んだ。
「アリアちゃん、手が……光ってる?」
「え? あ、これ? これはね、『家庭菜園』の本に載ってた、おまじないなんだよ」
アリアは、悪びれもなく答えた。
「気持ちを込めて、元気を分けるの。そうすると、植物が応えてくれるんだって」
その言葉に応えるかのように。
植え替えられたばかりで、少ししんなりとしていたミントの葉が、目に見えてピンと背筋を伸ばした。
ローズマリーの緑色が、より一層濃く、艶やかになる。
そして、まだ蕾だったはずのラベンダーが、ポン、ポン、と小さな音を立てて、一斉に花を開かせた。
温室の中に、濃厚な花の香りと、清々しい緑の気が満ち溢れる。
「す、すごーい!!」
メアリが歓声を上げた。
「本当にお花が咲いた! 魔法みたい!」
「えへへ。上手くいったみたい」
アリアは、額の汗を拭いながら、満足げに微笑んだ。
彼女は気づいていなかった。
自分が今行ったことが、王宮の宮廷魔術師たちが血眼になって研究している「植物の急速成長促進」や「品種改良」を遥かに超える、神域の「活性化」であることを。
ただのラベンダーが、通常の十倍近い魔力含有量を持ち、万病に効く霊薬の材料になり得るほどの「聖なる植物」へと変異してしまったことを。
「ここを、私たちの秘密基地にしようね!」
メアリが、アリアの手を取った。
「うん! 秘密の、温室だね!」
二人は、誰にも邪魔されない、自分たちだけの城を手に入れた喜びに、顔を見合わせて笑い合った。
その日の夕暮れ。
アリアたちが満足して寮に戻った後。
無人となったはずの「旧校舎裏の温室」を、遠く離れた校舎の屋根の上から、監視している人影があった。
リアム・アークライトである。
彼は、アリア・ローゼンを「監視対象」として認定して以来、休日であろうと気を抜くことはなかった。
今日、彼女が友人のメアリ・スミスと共に旧校舎エリアへ向かったのを確認し、彼は即座に追跡を開始した。
人目につかないよう、屋根の上や木の上を移動し、一定の距離を保ちながら。
そして今、彼は、望遠魔術をかけた片眼鏡越しに、その温室の様子を目撃し、戦慄していた。
「…………なんだ、あれは」
夕闇が迫る中、その温室だけが、異常な光景を作り出していた。
ガラス張りの温室の内部から、漏れ出しているのだ。
光が。
淡く、優しく、しかし圧倒的な密度を持った、「黄金色の魔力光」が。
それは、照明の明かりではない。
植物そのものが発光しているかのような、生命の輝きだ。
そして、温室の周囲だけ、雑草が異常な速度で成長し、季節外れの花々が咲き乱れ始めている。
温室から溢れ出る「余剰魔力」だけで、周囲の環境が生態系ごと書き換えられているのだ。
(……聖域)
リアムの脳裏に、その単語が浮かんだ。
結界術の頂点に位置する、神聖不可侵の領域。
不浄なものを一切寄せ付けず、内部の生命を無限に祝福し、守護する、神の庭。
それを、あのアリア・ローゼンが、作ったというのか。
たった数時間で?
ただの、ボロボロの温室を?
「……『家庭菜園』だと?」
リアムは、先日、アリアが言っていた言葉を思い出し、呻いた。
「あれが、家庭菜園のレベルか……?」
植物を育てる、という行為。
それは、アークライト家の禁書『原論』にある「芽吹き」のルーンの概念、「生命の育成と循環」そのものだ。
彼女は、それを実践している。
しかも、恐ろしいほど無邪気に。恐ろしいほど高純度な魔力で。
(……やはり、あの女は危険だ)
リアムは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
彼女に悪意があるようには見えない。
だが、その「無自覚な強大な力」は、時として悪意よりもタチが悪い。
あんな高濃度の魔力溜まりを放置しておけば、いずれ強力な魔獣を引き寄せるか、あるいは王宮の探知網に引っかかる。
「……隠蔽しなければ」
リアムは、舌打ちをした。
敵対しているはずのアリアの尻拭いを、なぜ自分がしなければならないのか。
だが、放置すれば学園全体に関わる騒ぎになる。
アリアの正体が露見し、彼女が連れ去られでもすれば、彼女が属する「組織」との全面戦争になりかねない。
リアムは、屋根の上から温室に向けて手をかざした。
「——《認識阻害》」
彼は、自分の持てる魔力を注ぎ込み、温室の周囲に、強力な「認識阻害の結界」を展開した。
外部からは、そこがただの「荒れ果てた廃墟」にしか見えないように。
あの異常な光も、溢れ出る魔力も、全て結界の内部に封じ込める。
「……くそっ。魔力消費が激しい」
リアムは、結界を固定し終えると、肩で息をした。
広範囲かつ高密度の隠蔽結界。A組トップの彼でも、維持するのは容易ではない。
だが、やるしかなかった。
「……借りにしとくぞ、ローゼン」
リアムは、誰もいない温室に向かって、恨めしげに呟いた。
「君が、その『秘密の花園』で、何を育てようとしているのか……。私が、最後まで見届けてやる」
アリアが、ささやかな平穏を求めて作った「癒やしの空間」。
それは、リアム・アークライトという最強の番人によって、鉄壁の要塞へと変貌を遂げていた。
温室の中のラベンダーが、まるでそれを嘲笑うかのように、妖しく、美しく、金色の光を放って揺れていた。




