8 王都と市場(マルシェ)と小さな一歩
「ええええええええええええええええええええええ!?」
アリア・ローゼンの、人生最大級の絶叫が、王立マグノリア魔法学園、学園長室の荘厳な扉を、ビリビリと震わせた。
「お、教え子……!? ヴォルグ学園長が……クロノの!?」
アリアは、目の前で起きていることが、まったく理解できなかった。
目の前には、鷹のような鋭い目をした、この学園の最高権力者、ヴォルグ・マクシマス学園長。
その机の上には、自分の使い魔で、いつもはアリアのベッドで(アリアのなけなしの金で買った高級魚を食べながら)昼寝をしている、ただの黒猫。
その黒猫が、学園長を「ヴォルグ」と呼び捨てにし、学園長は、その猫を「クロノス」と呼び、敬意(あるいは、かつての師への畏怖)を払っている。
「……アリアよ。やかましい。耳が痛い」
クロノ——いや、クロノスは、心底うんざりしたように前足で耳を掻いた。
「だから言ったであろう。わしは『野暮用』で『実家』に帰ると。ここがわしの(元)実家だ」
「ど、どういうこと!? 意味が分からないよ!」
ヴォルグ学園長は、こめかみを押さえながら、重々しくため息をついた。 「……アリア・ローゼン。座りたまえ。どうやら、君には全てを話す必要がありそうだ」 「は、はい……」 アリアは、まるで夢遊病者のように、学園長の前に置かれた、恐ろしく豪華な椅子に、ちょこんと腰掛けた。
「まず、君の退学は、ない」
「!?」
「リアム・アークライト君が、君を『スパイ』か何かと疑い、父君である宰相閣下に報告が上がることを懸念しているようだが……それも、ない。私から宰相閣下には『学園内で特殊な魔力反応(森の主の件)があり、その調査に協力を仰いだ、極秘の協力者だ』と、すでに連絡済みだ」
「……へ?」
アリアは、目を瞬かせた。
(退学、じゃない……?)
(リアムさんが報告しても、大丈夫……?)
最悪の事態を覚悟していたアリアは、一気に全身から力が抜けていくのを感じた。
「では……私は、一体……」
「ミス・ローゼン。君は、自分が何者か、理解しているかね?」
学園長は、鷹のような目で、まっすぐにアリアを見据えた。
「あ、あの……ローゼン村の、アリア、です……」
「そうではない」
ヴォルグ学園長は、机の上のクロノス(猫)を一瞥し、そして再びアリアに向き直った。
「……話そう。今、この学園が、そして王国が、直面している『脅威』について。そして、君の『力』が、なぜ必要なのかについて」
そこから語られた話は、アリアの想像を絶するものだった。
数ヶ月前、学園の教師の一人が、禁忌とされている「古代の呪い」と「精神支配」の研究を行っていたことが発覚し、学園から追放されたこと。
だが、彼女の研究は、すでに学園の外部に持ち出され、彼女の「残党」あるいは「協力者」が、今も暗躍していること。
先日の「森の主」の暴走は、その「呪い」の実験であった可能性が非常に高いこと。
「——そして、その『呪い』に対抗できる、唯一の力が、『光』の魔術だ」
「……っ」
アリアの肩が、小さく震えた。
「アリア・ローゼン。君は、自分が持つ『光』の魔力が、どれほど希少で、強力なものか、理解していない」 「わ、私は、ただ……! 故郷で、怪我した動物を……」 「その通り」 今度は、クロノス(猫)が、尊大に口を挟んだ。 「お前の『光』は、ただの治癒魔術ではない。万物の『在るべき姿』に戻す、原初の『浄化』の力だ。その力は、ヘレナごときが弄ぶ『呪い』など、霞のように消し去ることができる」
クロノスは、アリアの膝にひらりと飛び乗った。
(……重い。いつもより、威厳のせいで重く感じる……!)
アリアは、身動きが取れなかった。
「わしが、お前をこの学園に入れた本当の理由だ、アリア」 クロノスは、金色の瞳で、アリアを見上げた。 「お前の力は、あまりにも強大で、あまりにも不安定だ。だが、それ以上に……お前は、優しすぎる。その力を、悪意ある者(呪い)から守る術も、悪意に対して行使する覚悟も、まだない」 「……」 「だから、わしの教え子の目の届く、この『鳥かご(学園)』に、お前を入れた。ここで、お前に『制御』と『覚悟』を学ばせるために」
アリアは、呆然としていた。
自分が学園に来た理由は、「魔力の暴発を防ぐため」だけではなかった。
自分は、自分が思っている以上に、とんでもない「力」を持っていて、そして、とんでもない「脅威」に、知らず知らずのうちに狙われる可能性があった。
「……では、カイさんが言っていた『王の依頼』というのは……」
「うむ」
ヴォルグ学園長が頷いた。
「『四天候』は、クロノス-センス……いや、クロノスが育てた、君の兄弟子たちだ。彼らにも、表と裏から、この『呪い』の調査を依頼している。……まさか、あんな派手な登場の仕方をするとは思わなかったが」
学園長は、カイの行動を思い出し、深い、深いため息をついた。
「わ、私は……」
アリアは、混乱する頭で、必死に問いかけた。
「私は、これから、どうすれば……?」
(戦え、と言われるの? スパイになれ、と?)
「いや」
ヴォルグ学園長は、首を横に振った。
「君は、何も変える必要はない。……いや、変えてはならん」
「え?」
「君の『光』の力は、学園の最高機密だ。それは、我々が『呪い』に対する『最終兵器』でもある。それが敵に知られれば、君の命が狙われる」
クロノスが、アリアの膝の上で、続けた。
「つまり、こういうことだ、アリア」
クロノスは、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前は、これまで通り。『魔力Gの、地味な、落ちこぼれ』であり続けろ。それが、お前にとって最強の『盾』だ」
「……ええええ!?」 アリアは、思わず立ち上がりそうになった。 「で、でも! リアムさんには、もう……!」 「アークライトの小僧か」 クロノスは、心底うんざりしたように言った。 「あいつは、厄介だ。目が良すぎる。……だが、それも好都合だ」 「好都合!?」 「あいつは、お前を『王宮かどこかの、特命スパイ』だと勘違いしている。……ならば、その勘違いを利用させてもらえばいい」 「り、利用!?」 「あいつは、お前を『監視』すると言ったな?」 「う、うん……」 「結構なことだ。アークライト公爵家の嫡男が、自ら、お前のボディーガードを買って出てくれるというのだ。これほど安全な話はない。せいぜい、彼の『監視』の下で、守られておれ」 「そ、そんな無茶苦茶な……!」
アリアは、眩暈がした。
自分の人生が、自分の知らないところ(クロノと学園長)で、とんでもない方向に決定されていく。
結局、自分は、この学園に来ても、村にいた頃と同じ。
力を隠し、息を潜めて、地味に生きていくしかない。
それどころか、スパイだという巨大きな秘密に加え、クロノがクロノスだという、さらに巨大きな秘密まで抱え込むことになってしまった。
「……わ、わかりました」
アリアは、力なく、頷いた。
「私は、地味に、魔力Gとして、生きていきます……」
「うむ。話が早くて助かる」
ヴォルグ学園長は、満足そうに頷いた。
アリアは、フラフラの足取りで、学園長室を後にした。
膝の上から降りたクロノが、「では、ヴォルグよ。わしは『主』の部屋に戻る。例の『特製クッション』、寮の部屋にも届けておけ」と、最後まで尊大に命令しているのが、聞こえた。
それから、数日が経った。
アリアの日常は、ある意味、元に戻った。
いや、悪化した。
学園長との会談を経て、アリアは「公式に力を隠し続ける」という、大義名分(と、クロノスからのお墨付き)を得た。
だが、リアム・アークライトの「監視」は、より一層、執拗なものになっていた。
彼は、アリアが「学園長に(一人で)呼び出された」という事実を知り、自分の推論(アリア=学園長直属の特命スパイ)が、完全に正しかったと、確信してしまったのだ。
教室でも、アリアがノートを取るフリをしていると、斜め前方の席から、彼の監視の視線を感じる。
図書館の修復室では、相変わらずの沈黙の共同作業。
必修実技訓練では、ギデオン教官が「ローゼン! 貴様は(学園長からの指示があった)、今日も隅で見学だ!」と、アリアを(安全のため)隔離する。
そして、A組のクラスメイトたちは、「魔力G」で「実技も見学」なのに、なぜかリアム・アークライトに(スパイとして)執着され、なぜか学園長に(スパイとして)呼び出されるアリアを、完全に「得体の知れない不気味な存在」として、扱うようになっていた。
(……孤立)
アリアは、学園の中で、完璧に孤立していた。
話しかけてくれるのは、事情を(幸いにも)何も知らない、メアリ・スミスだけだった。
その週末。
学園は、創立記念の準備とかで、珍しく全休日となった。
アリアは、寮の部屋に引きこもり、ベッドで毛布を被っていた。
(もう、外に出たくない……)
(クロノは、学園長から届けさせた、あの豪華なクッションの上で、気持ちよさそうに寝てるし……)
アリアの心は、深海の底に沈んでいた。
——コンコン。
その時、寮の部屋のドアが、控えめにノックされた。
「……」
アリアは、息を潜めた。
(どうせ、また、イライザ先生から、学園長の呼び出しだ……)
「アリアちゃん? ……いる?」
聞こえてきたのは、メアリの声だった。
「……メアリ、ちゃん……?」
アリアは、恐る恐る、ベッドから這い出し、ドアを少しだけ開けた。
そこには、制服ではなく、簡素だが可愛らしい街歩き用のワンピースを着たメアリが、立っていた。
「あ、よかった、いた!」
メアリは、ほっとしたように笑った。
「あのね、アリアちゃん。今日、もし忙しくなかったら……一緒にお出かけしない?」
「お、お出かけ……?」
「うん! 学園の外! 今日は、申請すれば、王都の市街地まで出てもいいんだって!」
「お、王都……」
アリアは、あの入学の日の、人混みと喧騒を思い出し、サッと血の気が引いた。
「む、無理だよ……! 人が、いっぱいいるし……」
「あ、ううん、大丈夫!」
メアリは、慌てて首を振った。
「私の実家、王都でパン屋さんやってるんだけどね、その近くに、すっごく大きな市場があって。そこ、私の庭みたいなものだから!」
メアリは、えへへ、と笑った。
「それでね、私、寮の窓辺で、プランターでハーブでも育ててみようかな、って思って。でも、何をどう選んだらいいか、全然わからなくて……」
メアリは、アリアの手を、ぎゅっと握った。
「この前の、森での実習の時、アリアちゃん、すっごく薬草に詳しかったから! もし、よかったら……選ぶの、手伝ってくれないかな?」
「……!」
アリアは、目を見開いた。
(私を……? 私の、力を……?)
(魔術でも、スパイの能力でもなく、「薬草の知識」を、必要としてくれてる……?)
アリアの目に、じわりと、涙が浮かんだ。
この数週間、疑われ、監視され、恐れられ、孤立していた心に、メアリの、温かい、まっすぐな「友情」が、染み込んでくる。
「……う、……うん……!」
アリアは、涙声で、力強く、頷いた。
「行く! 行くよ、メアリちゃん!」
学園の門を出るのは、入学の日以来だった。
衛兵に外出許可証を見せ、王都の市街地へと足を踏み入れる。
(う……。やっぱり、人が、多い……)
アリアは、肩を縮こませた。
「こっちこっち!」
メアリは、そんなアリアの手を、ぐい、と引っ張ってくれた。
「大丈夫! あの角を曲がれば、もう市場だから!」
メアリに手を引かれるまま、路地を抜けると、そこは、アリアの想像を絶する「活気」に満ちていた。
「さあ、安いよ!」「見てってよ、嬢ちゃん!」
野菜、果物、干し肉、魚、香辛料、雑貨。
ありとあらゆる店が、所狭しと並び、大勢の人が、大きな声で行き交っている。
アリアは、その人混みに、完全に飲まれていた。
(だ、だめだ……。目が回る……。視線が、いっぱい……)
「アリアちゃん、こっちだってば!」
メアリが、人混みに慣れた様子で、アリアの手を引き、ずんずん進んでいく。
やがて、市場の一角、少しだけ人通りが落ち着いたエリアに、その店はあった。
「お、メアリじゃないか! どした、里帰りか!」
「こんにちは、おばさん! 今日は、友達と、苗を見に来たの!」
そこは、色とりどりの花や、野菜、そしてハーブの苗を専門に扱う、園芸店だった。
その店に足を踏み入れた瞬間。
アリアの空気が、変わった。
「……あ」
アリアは、メアリの手を離し、まるで夢の中を歩くかのように、苗のポットが並ぶ棚へと歩み寄った。
「……すごい」
そこは、アリアの世界だった。
「これ、『銀葉』の苗……。こんなに、しっかり根が張ってる」
「こっちは、『王の涙』。あ、でも、こっちのポットは、土が乾きすぎてる。おばさん、これ、水あげないと」
「おや、嬢ちゃん、詳しいね!」
さっきまでの、怯え切った小動物のようだったアリアは、どこにもいなかった。
そのヘーゼルの瞳は、まるで宝石でも見つけたかのように、キラキラと輝いていた。
「メアリちゃん!」
アリアは、興奮した様子で、メアリを振り返った。
「プランターなら、これがいいよ! 『ミント』! でも、これは、根が強いから、他のとは一緒に植えちゃダメ!」
「え、あ、うん!」
「あと、料理に便利なのは、これ! 『ローズマリー』! これは、虫が嫌いな匂いだから、窓辺に置くといいよ!」
「わ、わあ……!」
メアリは、目を丸くして、驚いていた。
自分の知っている、あの、いつも俯いて、消え入るような声で「ごめんなさい」としか言わないアリアが。
今、太陽のように、キラキラとした笑顔で、自分の「得意」なことを、夢中になって話している。
(……すごい。アリアちゃん、かわいい……)
メアリは、アリアの別の一面に、心から惹きつけられていた。
「よし! じゃあ、このローズマリーと、こっちの『ラベンダー』にする!」
「うん! いい選択だね!」
アリアは、自分の知識が役に立った喜びで、胸がいっぱいだった。
会計を済ませ、二人で苗の入った袋を提げ、市場を歩く。
「あ、メアリちゃん、あれ!」
アリアが、指を差したのは、串焼きの屋台だった。
「お、いいね! 食べてこ!」
二人は、熱々の串焼きを買い、市場の隅の広場で、頬張った。
「……おいしい」
アリアの目が、幸せそうに細められる。
「でしょ!」
(……なんだろう)
アリアは、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。
(学園の外は、怖い場所だと思ってた)
(でも、メアリちゃんと一緒なら……。私の「得意」なことが、誰かの喜びになるなら……)
(……王都も、悪くない、かも)
アリアが、そんな、ささやかな幸せを噛み締めていた、その時。
「お、見ろよ、あれ」
「魔道具屋の新製品か?」
広場の一角に、人だかりができていた。
「なんだろうね?」
メアリが、アリアの手を引き、近づいてみる。
人だかりの中心には、魔道具屋の店員らしき男が、大きな水晶を台座に置いて、客引きをしていた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 家庭用『簡易魔力インジケーター』だよ!」
それは、学園の属性測定で使ったものの、安価なオモチャ版らしかった。
「さあ、お試しあれ! 手をかざすだけで、あなたの日頃の魔力が、色で分かるよ!」
「わあ、面白そう!」
メアリが、目を輝かせた。
「私、やってみる!」
メアリは、気軽に水晶に手をかざした。
水晶は、ぼんやりと、だが確かに、水色に輝いた。
「おおー! 嬢ちゃん、水の適性だね! Cランクってところかな!」
「へへー。当たってる!」
「さあ、そっちの嬢ちゃんも、どうだい!」
店員の男が、アリアに笑いかけた。
「ひっ……!」
アリアは、サッと血の気が引き、メアリの後ろに隠れた。
(だめだめだめだめ!)
(私が触ったら、どうなるか分からない!)
(クロノスに、あれほど「隠せ」と言われているのに!)
学園の測定器は、アリアが全力で「魔力G」に見えるよう、精神力で抑え込んで、ごまかした。
でも、こんな、市場のオモチャに、同じことができるか分からない。
もし、万が一、ここで、とんでもない光でも放ってしまったら……
「あ、アリアちゃん? どうしたの?」
「い、いい! 私、こういうの、いいから!」
アリアは、激しく首を横に振った。
その、過剰なまでの拒否の反応が、悪目立ちしてしまった。
「あん? なんだよ、あのチビ」
「怖がってんのか?」
アリアたちの後ろに並んでいた、柄の悪い、チンピラ風の若者たちが、ゲラゲラと笑い始めた。
「ハッ。さては、色も出ねえ『魔力ナシ』だな?」
「や、やめ……!」
「いいじゃねえか、やれよ!」
若者の一人が、アリアの背中を、ドン!と乱暴に押した。
「きゃっ!?」
アリアは、バランスを崩し、前のめりになった。
その先には、あの「魔力水晶」が鎮座する、台座がある。
(——まずい!)
(ぶつかる!)
(触っちゃう!)
アリアの頭の中が、真っ白になった。
周囲の時間が、スローモーションになる。
(だめだ、だめだ、だめだ!)
アリアは、パニックに陥った。
魔術は使えない。でも、このままぶつかって、高価そうな(安物だけど)魔道具を壊したら、弁償だ。
メアリにも、お店の人にも、迷惑がかかる。
(——!)
アリアは、咄嗟に、全てを諦めた。
(もう、どうなってもいい!)
——いや、違う。
彼女の、クロノスによって鍛え抜かれた「制御」の本能が、働いた。
彼女は、魔術を「発動」しなかった。
ただ、体勢を崩した、その刹那。
右足の靴底に、極々々微量の、魔力を集中させた。
そして、それを、「魔術」としてではなく、ただの「反発力」として、地面に向かって「噴射」した。
『風の針』の、百万分の一の出力。
『風膜』よりも、さらに弱い、ただの「風の吐息」。
——トン。
アリアの右足が、まるで、目に見えない小さなバネでも踏んだかのように、不可解な軌道を描いた。
押された勢いは、その「風」によって、完璧に相殺される。
アリアの体は、前のめりになったまま、不自然なほど、ピタリ、と静止した。
台座に置かれた水晶の、数ミリ手前で。
「「「…………」」」
周囲が、静まり返った。
チンピラたちも、店員も、メアリも、何が起きたか分からず、目を丸くしていた。
「……え?」
アリア自身も、驚いていた。
(あ、あれ? 止まれた……?)
「……な、なんだよ。ビビらせやがって」
チンピラが、悪態をついた。「運が良いだけじゃねえか。行くぞ」
「へっ。魔力ナシが」
彼らは、興味を失ったように、去っていった。
「アリアちゃん! 大丈夫!?」
メアリが、駆け寄ってくる。
「あ、う、うん……。ご、ごめん、びっくりした……」
アリアは、まだバクバクと鳴る心臓を押さえ、メアリの手を引いて、その場から逃げ出した。
二人は、自分たちが起こした(起こしかけた)騒動に、全く気づいていなかった。
ただ一人。 その市場の広場を見下ろす、向かい側のカフェテラスで、一人優雅にお茶を飲んでいた、リアム・アークライトの少年を除いては。
「…………」
リアム・アークライトは、手に持ったティーカップを、台皿に戻した。
カチャン、と、乾いた音がした。
彼は、今日もまた、アリアを「監視」するために、護衛も付けず、私服で王都に来ていたのだ。
彼の空色の瞳は、アリアが逃げていった路地の暗がりを、冷たく、冷たく、見つめていた。
(……見たぞ、今)
(あれは、「運」じゃない)
(「偶然」でもない)
(押されたベクトルに対し、完璧なタイミングと、完璧な位置に、最小限の「魔力による反発」を発生させた)
(……『風』だ)
(あいつ、また、『風』を使った)
(実技訓練の砂嵐。『風の針』。図書館の『風膜』)
(そして今、靴底での『風の制動』)
リアムは、自分の推論が、根底から揺らぐのを感じていた。
(……スパイ? 特命? ……本当に、そうなのか?)
(だとしたら、あまりにも、無防備すぎる。そして、あまりにも……)
リアムは、先ほど、ハーブの苗を選んでいた時の、アリアの、あの、心の底からの「笑顔」を思い出していた。
(……あの笑顔が、演技だと?)
(アリア・ローゼン……)
リアムは、冷え切った紅茶を、一口飲んだ。
(君は、一体、何者なんだ……?)
アリアの知らないところで、彼女の「平穏」への道は、彼女自身の「神業」によって、ますます、遠のいていこうとしていた。




