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風読みの魔女は静かに過ごしたい  作者: おおりく
4章 初めての友人、初めての.....

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8 王都と市場(マルシェ)と小さな一歩

「ええええええええええええええええええええええ!?」


アリア・ローゼンの、人生最大級の絶叫が、王立マグノリア魔法学園、学園長室の荘厳な扉を、ビリビリと震わせた。


「お、教え子……!? ヴォルグ学園長が……クロノの!?」


アリアは、目の前で起きていることが、まったく理解できなかった。

目の前には、鷹のような鋭い目をした、この学園の最高権力者、ヴォルグ・マクシマス学園長。

その机の上には、自分の使い魔で、いつもはアリアのベッドで(アリアのなけなしの金で買った高級魚を食べながら)昼寝をしている、ただの黒猫。

その黒猫クロノが、学園長を「ヴォルグ」と呼び捨てにし、学園長は、その猫を「クロノス」と呼び、敬意(あるいは、かつての師への畏怖)を払っている。


「……アリアよ。やかましい。耳が痛い」

クロノ——いや、クロノスは、心底うんざりしたように前足で耳を掻いた。

「だから言ったであろう。わしは『野暮用』で『実家』に帰ると。ここがわしの(元)実家だ」

「ど、どういうこと!? 意味が分からないよ!」


ヴォルグ学園長は、こめかみを押さえながら、重々しくため息をついた。 「……アリア・ローゼン。座りたまえ。どうやら、君には全てを話す必要がありそうだ」 「は、はい……」 アリアは、まるで夢遊病者のように、学園長の前に置かれた、恐ろしく豪華な椅子に、ちょこんと腰掛けた。


「まず、君の退学は、ない」

「!?」

「リアム・アークライト君が、君を『スパイ』か何かと疑い、父君である宰相閣下に報告が上がることを懸念しているようだが……それも、ない。私から宰相閣下には『学園内で特殊な魔力反応(森の主の件)があり、その調査に協力を仰いだ、極秘の協力者アリアだ』と、すでに連絡済みだ」

「……へ?」


アリアは、目を瞬かせた。

(退学、じゃない……?)

(リアムさんが報告しても、大丈夫……?)

最悪の事態を覚悟していたアリアは、一気に全身から力が抜けていくのを感じた。


「では……私は、一体……」

「ミス・ローゼン。君は、自分が何者か、理解しているかね?」

学園長は、鷹のような目で、まっすぐにアリアを見据えた。

「あ、あの……ローゼン村の、アリア、です……」

「そうではない」


ヴォルグ学園長は、机の上のクロノス(猫)を一瞥し、そして再びアリアに向き直った。

「……話そう。今、この学園が、そして王国が、直面している『脅威』について。そして、君の『力』が、なぜ必要なのかについて」


そこから語られた話は、アリアの想像を絶するものだった。


数ヶ月前、学園の教師の一人ヘレナ・ブラックウッドが、禁忌とされている「古代の呪い」と「精神支配」の研究を行っていたことが発覚し、学園から追放されたこと。

だが、彼女の研究は、すでに学園の外部に持ち出され、彼女の「残党」あるいは「協力者」が、今も暗躍していること。

先日の「森の主」の暴走は、その「呪い」の実験フィールドテストであった可能性が非常に高いこと。


「——そして、その『呪い』に対抗できる、唯一の力が、『光』の魔術だ」

「……っ」

アリアの肩が、小さく震えた。


「アリア・ローゼン。君は、自分が持つ『光』の魔力が、どれほど希少で、強力なものか、理解していない」 「わ、私は、ただ……! 故郷で、怪我した動物を……」 「その通り」 今度は、クロノス(猫)が、尊大に口を挟んだ。 「お前の『光』は、ただの治癒魔術ではない。万物の『在るべき姿』に戻す、原初の『浄化』の力だ。その力は、ヘレナごときが弄ぶ『呪い』など、霞のように消し去ることができる」


クロノスは、アリアの膝にひらりと飛び乗った。

(……重い。いつもより、威厳のせいで重く感じる……!)

アリアは、身動きが取れなかった。


「わしが、お前をこの学園に入れた本当の理由だ、アリア」 クロノスは、金色の瞳で、アリアを見上げた。 「お前の力は、あまりにも強大で、あまりにも不安定だ。だが、それ以上に……お前は、優しすぎる。その力を、悪意ある者(呪い)から守る術も、悪意に対して行使する覚悟も、まだない」 「……」 「だから、わしの教え子の目の届く、この『鳥かご(学園)』に、お前を入れた。ここで、お前に『制御』と『覚悟』を学ばせるために」


アリアは、呆然としていた。

自分が学園に来た理由は、「魔力の暴発を防ぐため」だけではなかった。

自分は、自分が思っている以上に、とんでもない「力」を持っていて、そして、とんでもない「脅威」に、知らず知らずのうちに狙われる可能性があった。


「……では、カイさんが言っていた『王の依頼』というのは……」

「うむ」

ヴォルグ学園長が頷いた。

「『四天候』は、クロノス-センス……いや、クロノスが育てた、君の兄弟子たちだ。彼らにも、表と裏から、この『呪い』の調査を依頼している。……まさか、あんな派手な登場の仕方をするとは思わなかったが」

学園長は、カイの行動を思い出し、深い、深いため息をついた。


「わ、私は……」

アリアは、混乱する頭で、必死に問いかけた。

「私は、これから、どうすれば……?」

(戦え、と言われるの? スパイになれ、と?)


「いや」

ヴォルグ学園長は、首を横に振った。

「君は、何も変える必要はない。……いや、変えてはならん」

「え?」


「君の『光』の力は、学園の最高機密だ。それは、我々が『呪い』に対する『最終兵器』でもある。それが敵に知られれば、君の命が狙われる」

クロノスが、アリアの膝の上で、続けた。

「つまり、こういうことだ、アリア」

クロノスは、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。

「お前は、これまで通り。『魔力Gの、地味な、落ちこぼれ』であり続けろ。それが、お前にとって最強の『盾』だ」


「……ええええ!?」 アリアは、思わず立ち上がりそうになった。 「で、でも! リアムさんには、もう……!」 「アークライトの小僧か」 クロノスは、心底うんざりしたように言った。 「あいつは、厄介だ。目が良すぎる。……だが、それも好都合だ」 「好都合!?」 「あいつは、お前を『王宮かどこかの、特命スパイ』だと勘違いしている。……ならば、その勘違いを利用させてもらえばいい」 「り、利用!?」 「あいつは、お前を『監視』すると言ったな?」 「う、うん……」 「結構なことだ。アークライト公爵家の嫡男が、自ら、お前のボディーガードを買って出てくれるというのだ。これほど安全な話はない。せいぜい、彼の『監視』の下で、守られておれ」 「そ、そんな無茶苦茶な……!」


アリアは、眩暈がした。

自分の人生が、自分の知らないところ(クロノと学園長)で、とんでもない方向に決定されていく。

結局、自分は、この学園に来ても、村にいた頃と同じ。

力を隠し、息を潜めて、地味に生きていくしかない。

それどころか、スパイだという巨大きな秘密に加え、クロノがクロノスだという、さらに巨大きな秘密まで抱え込むことになってしまった。


「……わ、わかりました」

アリアは、力なく、頷いた。

「私は、地味に、魔力Gとして、生きていきます……」

「うむ。話が早くて助かる」

ヴォルグ学園長は、満足そうに頷いた。


アリアは、フラフラの足取りで、学園長室を後にした。

膝の上から降りたクロノが、「では、ヴォルグよ。わしは『主』の部屋に戻る。例の『特製クッション』、寮の部屋にも届けておけ」と、最後まで尊大に命令しているのが、聞こえた。


それから、数日が経った。

アリアの日常は、ある意味、元に戻った。

いや、悪化した。


学園長との会談を経て、アリアは「公式に力を隠し続ける」という、大義名分(と、クロノスからのお墨付き)を得た。

だが、リアム・アークライトの「監視」は、より一層、執拗なものになっていた。


彼は、アリアが「学園長に(一人で)呼び出された」という事実を知り、自分の推論(アリア=学園長直属の特命スパイ)が、完全に正しかったと、確信してしまったのだ。


教室でも、アリアがノートを取るフリをしていると、斜め前方の席から、彼の監視の視線を感じる。

図書館の修復室では、相変わらずの沈黙の共同作業。

必修実技訓練では、ギデオン教官が「ローゼン! 貴様は(学園長からの指示があった)、今日も隅で見学だ!」と、アリアを(安全のため)隔離する。

そして、A組のクラスメイトたちは、「魔力G」で「実技も見学」なのに、なぜかリアム・アークライトに(スパイとして)執着され、なぜか学園長に(スパイとして)呼び出されるアリアを、完全に「得体の知れない不気味な存在」として、扱うようになっていた。


(……孤立)

アリアは、学園の中で、完璧に孤立していた。

話しかけてくれるのは、事情を(幸いにも)何も知らない、メアリ・スミスだけだった。


その週末。

学園は、創立記念の準備とかで、珍しく全休日となった。

アリアは、寮の部屋に引きこもり、ベッドで毛布を被っていた。

(もう、外に出たくない……)

(クロノは、学園長から届けさせた、あの豪華なクッションの上で、気持ちよさそうに寝てるし……)

アリアの心は、深海の底に沈んでいた。


——コンコン。

その時、寮の部屋のドアが、控えめにノックされた。

「……」

アリアは、息を潜めた。

(どうせ、また、イライザ先生から、学園長の呼び出しだ……)


「アリアちゃん? ……いる?」

聞こえてきたのは、メアリの声だった。

「……メアリ、ちゃん……?」

アリアは、恐る恐る、ベッドから這い出し、ドアを少しだけ開けた。

そこには、制服ではなく、簡素だが可愛らしい街歩き用のワンピースを着たメアリが、立っていた。


「あ、よかった、いた!」

メアリは、ほっとしたように笑った。

「あのね、アリアちゃん。今日、もし忙しくなかったら……一緒にお出かけしない?」

「お、お出かけ……?」


「うん! 学園の外! 今日は、申請すれば、王都の市街地まで出てもいいんだって!」

「お、王都……」

アリアは、あの入学の日の、人混みと喧騒を思い出し、サッと血の気が引いた。

「む、無理だよ……! 人が、いっぱいいるし……」


「あ、ううん、大丈夫!」

メアリは、慌てて首を振った。

「私の実家、王都でパン屋さんやってるんだけどね、その近くに、すっごく大きな市場があって。そこ、私の庭みたいなものだから!」

メアリは、えへへ、と笑った。


「それでね、私、寮の窓辺で、プランターでハーブでも育ててみようかな、って思って。でも、何をどう選んだらいいか、全然わからなくて……」

メアリは、アリアの手を、ぎゅっと握った。

「この前の、森での実習の時、アリアちゃん、すっごく薬草に詳しかったから! もし、よかったら……選ぶの、手伝ってくれないかな?」


「……!」

アリアは、目を見開いた。

(私を……? 私の、力を……?)

(魔術でも、スパイの能力でもなく、「薬草の知識」を、必要としてくれてる……?)


アリアの目に、じわりと、涙が浮かんだ。

この数週間、疑われ、監視され、恐れられ、孤立していた心に、メアリの、温かい、まっすぐな「友情」が、染み込んでくる。

「……う、……うん……!」

アリアは、涙声で、力強く、頷いた。

「行く! 行くよ、メアリちゃん!」


学園の門を出るのは、入学の日以来だった。

衛兵に外出許可証を見せ、王都の市街地へと足を踏み入れる。

(う……。やっぱり、人が、多い……)

アリアは、肩を縮こませた。


「こっちこっち!」

メアリは、そんなアリアの手を、ぐい、と引っ張ってくれた。

「大丈夫! あの角を曲がれば、もう市場だから!」


メアリに手を引かれるまま、路地を抜けると、そこは、アリアの想像を絶する「活気」に満ちていた。

「さあ、安いよ!」「見てってよ、嬢ちゃん!」

野菜、果物、干し肉、魚、香辛料、雑貨。

ありとあらゆる店が、所狭しと並び、大勢の人が、大きな声で行き交っている。


アリアは、その人混みに、完全に飲まれていた。

(だ、だめだ……。目が回る……。視線が、いっぱい……)

「アリアちゃん、こっちだってば!」

メアリが、人混みに慣れた様子で、アリアの手を引き、ずんずん進んでいく。


やがて、市場の一角、少しだけ人通りが落ち着いたエリアに、その店はあった。

「お、メアリじゃないか! どした、里帰りか!」

「こんにちは、おばさん! 今日は、友達と、苗を見に来たの!」

そこは、色とりどりの花や、野菜、そしてハーブの苗を専門に扱う、園芸店だった。


その店に足を踏み入れた瞬間。

アリアの空気が、変わった。


「……あ」

アリアは、メアリの手を離し、まるで夢の中を歩くかのように、苗のポットが並ぶ棚へと歩み寄った。

「……すごい」

そこは、アリアの世界だった。

「これ、『銀葉』の苗……。こんなに、しっかり根が張ってる」

「こっちは、『王の涙』。あ、でも、こっちのポットは、土が乾きすぎてる。おばさん、これ、水あげないと」

「おや、嬢ちゃん、詳しいね!」


さっきまでの、怯え切った小動物のようだったアリアは、どこにもいなかった。

そのヘーゼルの瞳は、まるで宝石でも見つけたかのように、キラキラと輝いていた。

「メアリちゃん!」

アリアは、興奮した様子で、メアリを振り返った。

「プランターなら、これがいいよ! 『ミント』! でも、これは、根が強いから、他のとは一緒に植えちゃダメ!」

「え、あ、うん!」

「あと、料理に便利なのは、これ! 『ローズマリー』! これは、虫が嫌いな匂いだから、窓辺に置くといいよ!」

「わ、わあ……!」


メアリは、目を丸くして、驚いていた。

自分の知っている、あの、いつも俯いて、消え入るような声で「ごめんなさい」としか言わないアリアが。

今、太陽のように、キラキラとした笑顔で、自分の「得意」なことを、夢中になって話している。


(……すごい。アリアちゃん、かわいい……)

メアリは、アリアの別の一面に、心から惹きつけられていた。


「よし! じゃあ、このローズマリーと、こっちの『ラベンダー』にする!」

「うん! いい選択だね!」

アリアは、自分の知識が役に立った喜びで、胸がいっぱいだった。


会計を済ませ、二人で苗の入った袋を提げ、市場を歩く。

「あ、メアリちゃん、あれ!」

アリアが、指を差したのは、串焼きの屋台だった。

「お、いいね! 食べてこ!」

二人は、熱々の串焼きを買い、市場の隅の広場で、頬張った。

「……おいしい」

アリアの目が、幸せそうに細められる。

「でしょ!」


(……なんだろう)

アリアは、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。

(学園の外は、怖い場所だと思ってた)

(でも、メアリちゃんと一緒なら……。私の「得意」なことが、誰かの喜びになるなら……)

(……王都も、悪くない、かも)


アリアが、そんな、ささやかな幸せを噛み締めていた、その時。

「お、見ろよ、あれ」

「魔道具屋の新製品か?」

広場の一角に、人だかりができていた。


「なんだろうね?」

メアリが、アリアの手を引き、近づいてみる。

人だかりの中心には、魔道具屋の店員らしき男が、大きな水晶を台座に置いて、客引きをしていた。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 家庭用『簡易魔力インジケーター』だよ!」

それは、学園の属性測定で使ったものの、安価なオモチャ版らしかった。

「さあ、お試しあれ! 手をかざすだけで、あなたの日頃の魔力が、色で分かるよ!」


「わあ、面白そう!」

メアリが、目を輝かせた。

「私、やってみる!」

メアリは、気軽に水晶に手をかざした。

水晶は、ぼんやりと、だが確かに、水色に輝いた。

「おおー! 嬢ちゃん、水の適性だね! Cランクってところかな!」

「へへー。当たってる!」


「さあ、そっちの嬢ちゃんも、どうだい!」

店員の男が、アリアに笑いかけた。

「ひっ……!」

アリアは、サッと血の気が引き、メアリの後ろに隠れた。

(だめだめだめだめ!)

(私が触ったら、どうなるか分からない!)

(クロノスに、あれほど「隠せ」と言われているのに!)

学園の測定器は、アリアが全力で「魔力G」に見えるよう、精神力で抑え込んで、ごまかした。

でも、こんな、市場のオモチャに、同じことができるか分からない。

もし、万が一、ここで、とんでもない光でも放ってしまったら……


「あ、アリアちゃん? どうしたの?」

「い、いい! 私、こういうの、いいから!」

アリアは、激しく首を横に振った。


その、過剰なまでの拒否の反応が、悪目立ちしてしまった。

「あん? なんだよ、あのチビ」

「怖がってんのか?」

アリアたちの後ろに並んでいた、柄の悪い、チンピラ風の若者たちが、ゲラゲラと笑い始めた。

「ハッ。さては、色も出ねえ『魔力ナシ』だな?」

「や、やめ……!」

「いいじゃねえか、やれよ!」

若者の一人が、アリアの背中を、ドン!と乱暴に押した。


「きゃっ!?」

アリアは、バランスを崩し、前のめりになった。

その先には、あの「魔力水晶」が鎮座する、台座がある。

(——まずい!)

(ぶつかる!)

(触っちゃう!)


アリアの頭の中が、真っ白になった。

周囲の時間が、スローモーションになる。

(だめだ、だめだ、だめだ!)

アリアは、パニックに陥った。

魔術は使えない。でも、このままぶつかって、高価そうな(安物だけど)魔道具を壊したら、弁償だ。

メアリにも、お店の人にも、迷惑がかかる。


(——!)

アリアは、咄嗟に、全てを諦めた。

(もう、どうなってもいい!)

——いや、違う。

彼女の、クロノスによって鍛え抜かれた「制御」の本能が、働いた。


彼女は、魔術を「発動」しなかった。

ただ、体勢を崩した、その刹那。

右足の靴底に、極々々微量の、魔力を集中させた。

そして、それを、「魔術」としてではなく、ただの「反発力」として、地面に向かって「噴射」した。


『風の針』の、百万分の一の出力。

『風膜』よりも、さらに弱い、ただの「風の吐息」。


——トン。

アリアの右足が、まるで、目に見えない小さなバネでも踏んだかのように、不可解な軌道を描いた。

押された勢いは、その「風」によって、完璧に相殺される。

アリアの体は、前のめりになったまま、不自然なほど、ピタリ、と静止した。


台座に置かれた水晶の、数ミリ手前で。


「「「…………」」」

周囲が、静まり返った。

チンピラたちも、店員も、メアリも、何が起きたか分からず、目を丸くしていた。


「……え?」

アリア自身も、驚いていた。

(あ、あれ? 止まれた……?)


「……な、なんだよ。ビビらせやがって」

チンピラが、悪態をついた。「運が良いだけじゃねえか。行くぞ」

「へっ。魔力ナシが」

彼らは、興味を失ったように、去っていった。


「アリアちゃん! 大丈夫!?」

メアリが、駆け寄ってくる。

「あ、う、うん……。ご、ごめん、びっくりした……」

アリアは、まだバクバクと鳴る心臓を押さえ、メアリの手を引いて、その場から逃げ出した。


二人は、自分たちが起こした(起こしかけた)騒動に、全く気づいていなかった。


ただ一人。 その市場の広場を見下ろす、向かい側のカフェテラスで、一人優雅にお茶を飲んでいた、リアム・アークライトの少年を除いては。


「…………」


リアム・アークライトは、手に持ったティーカップを、台皿に戻した。

カチャン、と、乾いた音がした。

彼は、今日もまた、アリアを「監視」するために、護衛も付けず、私服で王都に来ていたのだ。


彼の空色の瞳は、アリアが逃げていった路地の暗がりを、冷たく、冷たく、見つめていた。


(……見たぞ、今)

(あれは、「運」じゃない)

(「偶然」でもない)

(押されたベクトルに対し、完璧なタイミングと、完璧な位置に、最小限の「魔力による反発」を発生させた)


(……『風』だ)


(あいつ、また、『風』を使った)

(実技訓練の砂嵐。『風の針』。図書館の『風膜』)

(そして今、靴底での『風の制動』)


リアムは、自分の推論が、根底から揺らぐのを感じていた。

(……スパイ? 特命? ……本当に、そうなのか?)

(だとしたら、あまりにも、無防備すぎる。そして、あまりにも……)


リアムは、先ほど、ハーブの苗を選んでいた時の、アリアの、あの、心の底からの「笑顔」を思い出していた。

(……あの笑顔が、演技だと?)


(アリア・ローゼン……)

リアムは、冷え切った紅茶を、一口飲んだ。

(君は、一体、何者なんだ……?)


アリアの知らないところで、彼女の「平穏」への道は、彼女自身の「神業」によって、ますます、遠のいていこうとしていた。

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