7 黒猫の「帰省」と学園長の呼び出し
森に、静寂が戻った。
数瞬前まで、B級魔獣「森の主」が暴れ回り、ギデオン教官さえも圧倒していた死地。
そこに今、残されているのは、超高密度の『水の牢獄』に囚われ、完全に意識を失っている魔獣の巨体と。
そして、目の前で起きたあまりにも現実離れした光景に、呆然と立ち尽くすA組の生徒たちだけだった。
「……」
「……」
誰も、一言も発することができない。
あの、謎の青髪の青年が現れ、そして去っていくまで、おそらく三分も経っていない。
だが、その三分間は、A組の生徒たち——特に、リアム・アークライト、カイン・ベルフォード、リゼット・オルレアンといった、己の才能に自負を持っていた者たちのプライドを、根こそぎ粉砕するには十分すぎる時間だった。
(……なんだ、今のは)
リアムは、自分が展開し続けていた『広域結界』を(無意識に)維持したまま、カイが消えた霧の方向を睨みつけていた。
(あの魔術……『水の牢獄』だと? 馬鹿な。あれは、大気中の水分はおろか、土壌や植物が内包する水分までをも強制的に徴収し、瞬時に超高圧の結界に変える、最上級の複合魔術だ)
(……詠唱も、魔法陣も、一切なかった)
(あんなことが……可能なのか?)
それは、リアムの父である宰相や、王宮魔術師団の団長クラスでさえ、成功するかどうか分からないレベルの神業だった。
「……す、すげえ……」
カインが、腰を抜かしたまま、掠れた声を上げた。
「なんだよ、今の人……。ギデオン先生を吹っ飛ばした『森の主』を、指パッチン一つで……」
「……信じられない」
リゼットが、わなわなと唇を震わせる。「あんな魔術師が、この国にいたなんて……」
だが、彼らの驚愕は、すぐに別の、より理解不能な「一点」へと集中した。
カイが、最後に残した言葉。
『——ウチの末っ子を、イジメないでやってくれるかな?』
生徒たちの視線が、まるで示し合わせたかのように、結界の隅で小さく、小さく縮こまっている少女——アリア・ローゼンへと突き刺さった。
「…………ひっ」
アリアは、その視線に、息が止まりそうになった。
(やめて、やめて、見ないで)
(私のせいじゃない)
(あの人が、勝手に……!)
「お、おい……ローゼン」
カインが、信じられないものを見る目で、アリアに問いかけた。
「今の人……誰だ? 『アリア』って、君のこと、呼んだよな?」
「『末っ子』って……どういうことなのよ!」
リゼットが、金切り声に近い声を上げた。「あなた、あの人と、一体どういう関係なの!?」
「あ、あ、あの……」
アリアは、顔面蒼白になって首を振った。
「し、し、知りません! し、知らない人です!」
「嘘をつけ!」
カインが叫ぶ。「あの人、君の頭、ポンって! してたじゃねえか!」
「幼馴染か何かか!?」
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
アリアは、パニックに陥った。
カイのことは、絶対に喋ってはいけない。
彼が「四天候」の一人であることも、彼らがアリアの「兄弟子」であることも、世間に知られてはならない。
それは、アリアが故郷の村を出る時、クロノと、そしてカイたち四天候全員と交わした「絶対の約束」だったからだ。
(『いいかアリア、お前が俺たちの「妹弟子」だってことがバレたら、お前は「平穏」どころか、王宮やら他国やらに、それこそ魔獣より恐ろしい連中に追い回されることになる。絶対に隠し通せよ』)
カイの言葉が、脳裏に蘇る。
「ち、違います! ほ、本当に、たまたま、通りかかっただけで……!」
「たまたま通りかかった人が、あんな神業みたいな魔術を使うものですか!」
リゼットが、ヒステリックに叫んだ。
「——全員、黙れ!!」
その時、森にギデオン教官の怒声が響いた。
「ぐっ……!」
彼は、負傷した左腕を押さえ、大木に寄りかかりながら、何とか立ち上がっていた。
「状況は終了していない! イライザ教官、負傷者の確認を! アークライト!」
「! はい」
「その結界を解くな! そのまま、俺の座標と魔獣の座標を固定しろ! 学園に緊急転移する!」
「しかし、教官、その魔獣ごと……!?」
「奴が残した『水の牢獄』ごとだ! これは、危険な魔獣であると同時に、あの謎の男の魔術を知る、第一級の研究資料だ! 何としても持ち帰る!」
ギデオンの的確な指示に、A組の生徒たちは、かろうじて混乱から立ち直った。
リアムが、負傷したギデオンに代わり、転移魔術の座標固定という、極めて難易度の高い術式の構築を始める。
イライザ教官が、生徒たち(特に精神的ショックを受けたメアリやアリア)に、《鎮静》の精神魔術をかけて回った。
アリアは、その間も、生きた心地がしなかった。
クラスメイトたちの視線が、痛い。
(「魔力G」のくせに、何を隠してるんだ?)
(あの男は、一体何者だ?)
(「末っ子」……?)
侮蔑と嘲笑の視線は、今や、完全な「畏怖」と「疑惑」に変わっていた。
(……いやだ)
アリアにとっては、どちらも地獄だった。
「目立ちたくない」という、たった一つの願いが、入学してたった数週間で、これでもかというほど無残に打ち砕かれていく。
(カイさんの、馬鹿……!)
アリアは、半泣きで、この場にいない兄弟子を呪った。
数分後、リアムの術式構築が完了した。
「……転移座標、固定完了。いつでも行けます」
「よし! 全員、転移に備えろ!」
ギデオンの号令と共に、A組の生徒たちと、そして「森の主」を封じ込めた『水の牢獄』が、一斉に青白い光に包まれ、森から姿を消した。
学園に戻ってからも、大騒ぎだった。
転移ゲートの出口である訓練場に、B級魔獣が(牢獄入りとはいえ)出現したことで、学園の警報が鳴り響いた。
負傷したギデオン教官は、すぐに医務室へ運ばれた。
『水の牢獄』は、学園長直々の指示で、厳重な隔離区画へと移された。
A組の生徒たちは、イライザ教官に引率され、医務室で精神的ショックの検査を受けた後、寮へ戻るよう命じられた。
「今日のことは、決して他言無用です。いいね?」
イライザ教官が、固い表情で釘を刺した。
アリアは、その全ての騒動の中、ただただ、俯いて、メアリの服の袖を掴んでいた。
(早く、部屋に帰りたい。クロノに、全部話して、どうにかしてもらわないと……)
寮への帰路。
生徒たちが、それぞれ興奮した様子で、今日の出来事を(小声で)話し合いながら歩いている。
アリアは、その輪から五メートルほど離れ、一人、最後尾を歩いていた。
メアリが、心配そうにアリアを待っていてくれた。
その時だった。
寮の建物の、角を曲がった瞬間。
アリアの腕が、強い力で掴まれ、物陰に引きずり込まれた。
「ひゃっ!?」
「——静かにしろ」
氷のように冷たい声。
アリアは、息を呑んだ。
物陰には、リアム・アークライトが、立っていた。
その空色の瞳は、今までにないほど、真剣な色を宿していた。
「アリアちゃん!?」
メアリが、驚いて駆け寄ろうとする。
「スミス嬢」
リアムが、メアリを制した。
「……申し訳ないが、彼女と、二人で話がある。先に戻っていてくれ」
「で、でも……!」
「お願いだ」
リアムの、拒否を許さない、貴族としての圧に、メアリは「……う、うん。わかった」と、不安そうに頷くしかなかった。
物陰に、アリアとリアム、二人だけが取り残される。
アリアは、掴まれた腕の痛みと、恐怖で、泣きそうだった。
(いやだ、いやだ、怖い……!)
「ローゼン」
リアムが、低い声で、問い詰めた。
「……単刀直入に聞く。先ほどの男は、誰だ」
「……っ」
アリアは、顔を真っ青にして、激しく首を横に振った。
「し、しりません……! ほ、本当に……!」
「嘘をつけ」
リアムの声が、さらに低くなる。
「君は、彼を『カイさん』と呼んだ。彼は、君を『アリア』『末っ子』と呼んだ。……そして、君が使おうとしていた魔術——『風の針』のことまで知っていた」
(——!)
アリアの心臓が、冷たく跳ね上がった。
(聞こえてた……!?)
(あの、耳打ちが……!?)
リアムは、アリアたちがいた結界の中から、カイとアリアの小声での会話を、聞き逃していなかったのだ。
「ぼ、棒読み、です! き、きっと、そう……!」
「もう一度聞く」
リアムは、アリアの腕を掴む力を、わずかに強めた。
「彼は、何者だ」
「……っ!」
リアムの瞳は、本気だった。
それは、アリアを「敵」として詰問している目ではなかった。
何か、巨大で、理解できないものに直面し、その答えを必死で求めている目だった。
中間試験の時にアリアが見せた「神業の狙撃」。
そして今日、そのアリアと親しげに話す、あの「規格外の魔術師」。
二つの異常なピースが、リアムの頭の中で、アリア・ローゼンという一点で結びついてしまったのだ。
「……君が所属している組織は、何だ」
「そ、そしき……!?」
「『末っ子』と呼ばれるからには、上がいるんだろう。あの男は『王の依頼』と言っていた。……君たちは、王宮の、どの部署の人間だ? 『影』か? それとも、父上も知らない、別の……」
(組織!? 影!?)
アリアは、リアムが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
(「四天候」は、組織といえば組織だけど……! 違う、そんな、大げさなものじゃ……!)
「言えない、か」
リアムは、アリアが恐怖と混乱で黙り込んでしまったのを、「肯定」と受け取った。
「……そうか。それほどまでに、深い『機密』に属している、ということか」
「ち、ちが……!」
「ローゼン」
リアムは、掴んでいたアリアの腕を、静かに離した。
そして、一歩下がり、彼女を見つめた。
「……もう、君を『魔力Gの生徒』として扱うのは、やめる」
「え……」
「君が、何らかの『特命』を帯びて、その力を偽装し、この学園に潜入しているのだと、そう判断させてもらう」
(せ、潜入!? 特命!?)
アリアは、目を回しそうになった。
話が、あらぬ方向に、とんでもなく飛躍していた。
「私は、アークライト家の人間として、この学園の秩序を乱す可能性のある者を、看過するわけにはいかない」
「……!」
「今後、君の行動は、私が『監視』させてもらう。……いいな」
それは、質問ではなかった。
通告だった。
アリアは、あまりの恐怖と絶望に、
「……う、……うわあああああああん……!」
ついに、堪えきれなくなり、その場で大声で泣き出してしまった。
「なっ!? お、おい!?」
リアムは、アリアが突然、子供のように泣きじゃくり始めたことに、狼狽した。
彼の想定では、アリアは「フン、バレたか」と冷たく笑うか、あるいは「知りすぎたな」と魔術で攻撃してくるか、そのどちらかだったのだ。
「ひっぐ……うえ……! カイさんの、馬鹿……! なんで、あんなこと、言うの……! 私は、ただ、静かに……! ぐすっ……!」
「お、おい、ローゼン? 泣くな。人が集まってくるだろう」
「ひどい……! 『監視する』なんて……! 『拘束する』とか……!」
「ま、待て、それは……!」
アリアは、リアムが狼狽している隙に、彼を押しのけ、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、寮に向かって全力で走り出した。
残されたリアムは、「……何なんだ、一体……」と、その場で呆然と立ち尽くすしかなかった。
「——というわけなの! もうおしまいだ! あの人に、私、『スパイ』だと思われちゃった! うわあああん!」
寮の自室に戻るなり、アリアはベッドに突っ伏し、キャリーバッグから引きずり出したクロノに、事の顛末を泣きながら訴えた。
クロノは、アリアの話を、極めて面倒くさそうに、耳をピクピクさせながら聞いていた。
「……フン。あの水使いめ、余計なことを。おかげで、わしまで面倒に巻き込まれそうだ」
「巻き込まれたのは私の方だよ! どうしてくれるのさ!」
「……まあ、いい」
クロノは、ふぁあ、と大きなあくびをした。
「ちょうどいい。アリアよ。わしも少々『野暮用』ができた」
「え?」
アリアは、涙の残る目で、クロノを見た。
「あの水使いが、王の依頼で来ていたと言ったな。どうやら、わしの旧友(学園長)も、面倒なこと(ヘレナ教官の残党か、あるいは別の何か)に首を突っ込んでいるらしい」
「……?」
「アリアよ。わしは、しばらく『実家(?)』に帰る。三日ほど、ここを空けるぞ」
「ええええええ!?」
アリアは、ベッドから跳ね起きた。
「こ、このタイミングで!? 私が、こんな、絶体絶命のピンチの時に!? クロノまでいなくなるの!?」
「うるさい。わしには、わしの『平穏な昼寝』を守る義務があるのだ。お前のゴタゴタに、これ以上付き合ってはおれん」
「ひどい! 見捨てるの!?」
「フン。せいぜい、あの公爵の小僧に食われんよう、上手くやることだな」
クロノは、アリアの制止も聞かず、開いていた窓の縁に、ひらりと飛び乗った。
「あ、待って! クロノ!」
クロノは、最後にアリアを振り返ると、その金色の瞳を細め、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、心配するな。お前は、案外、一人でもなんとかなる。……それと」
「?」
「……その『アークライト』という小僧。……なかなかに、目がいい。ひょっとすると、ひょっとするやもしれんな」
「何が!?」
クロノは、それ以上答えず、猫とは思えぬ跳躍力で、闇の中へと姿を消してしまった。
「…………」
寮の部屋に、アリアは、本当に一人きりで、取り残された。
(うそ……。クロノまで、行っちゃった……)
カイのせいで、クラスメイトたちからは「得体の知れない危険人物」と距離を置かれ。
リアムには「監視対象のスパイ」だと通告され。
唯一の味方(?)、クロノにまで、見捨てられた。
メアリは、優しい。だが、彼女に、この複雑すぎる事情を話すわけには、いかない。
アリアは、学園で、完全に「孤立」した。
(もう、だめだ……)
アリアは、力なく、ベッドに倒れ込んだ。
それから、地獄の三日間が過ぎた。
アリアは、クロノがいない間、極力誰とも目を合わせず、空気のように生きていた。
幸い(?)、カイの一件以来、カインやリゼットでさえ、アリアに軽々しく話しかけてくることはなくなった。
リアムは、宣言通り、教室でも、図書館の修復室でも、アリアを「監視」し続けたが、決して話しかけてはこなかった。
その沈黙の監視が、アリアの精神を、確実に削り取っていった。
そして、三日目の放課後。
リアムとの息の詰まる修復作業を終え、アリアが、疲れ果てた足取りで寮に戻ろうとしていた、その時だった。
「——アリア・ローゼン君」
背後から、荘厳な、聞き覚えのある声に呼び止められた。
アリアは、ギクリと、心臓が跳ねるのを感じた。
振り返ると、そこには、A組の担任、イライザ教官が立っていた。
「あ、イライザ先生……」
「丁度よかった。あなたに、お伝えしたいことがあります」
イライザ教官は、いつもの、ふんわりとした笑顔だった。
だが、アリアには、その笑顔が、どこか、いつもと違うように見えた。
「ヴォルグ学園長が、あなたと、至急お話がしたい、とのことです」
「——っ!」
アリアは、息を呑んだ。
(が、学園長が……!?)
あの、入学式の時の、鷹のような鋭い目をした、学園の最高権力者。
「……わ、私が、ですか……?」
「はい。今から、学園長室へ、一人で来られたし、とのことです」
「(ひ、一人で……!)」
アリアの頭の中が、真っ白になった。
(……退学だ)
ついに、この日が来た。
入学式での騒動。
実技訓練での暴走。
魔力Gのくせに、特待生という詐欺まがいの入学。
そして、極めつけは、先の学園外学習での、あの謎の男との接触。
リアムが「監視する」と言っていた。きっと、彼が、彼の父である宰相を通じて、学園に報告したんだ。
アリア・ローゼンは、学園の秩序を乱す、危険なスパイだと。
(……もう、おしまいだ)
アリアは、絶望の淵に立たされた。
「……わ、わかりました。……行って、きます」
アリアは、イライザ教官に、力なく頭を下げた。
学園長室は、アリアのいる教室棟とは別の、一番古く、一番荘厳な「本館」の、最上階にあった。
アリアは、死刑執行を待つ罪人のように、重い足取りで、長い、長い廊下を歩いた。
深紅の絨毯。壁に飾られた、歴代の学園長の肖像画。その全てが、アリアを「場違いだ」と責め立てているようだった。
やがて、一番奥の、他のどの扉よりも二回りは大きい、重厚な樫の木の扉の前にたどり着いた。
アリアは、震える手で、扉を、三回、ノックした。
「……入れ」
中から、あの、入学式で聞いた、低く、重い声がした。
アリアは、最後の覚悟を決め、その重い扉を、押し開けた。
「し、失礼します……! い、一年A組の、アリア・ローゼン、です……!」
部屋は、アリアが想像していたよりも、書斎に近かった。
壁一面の書架。焚かれた暖炉の、微かな匂い。
そして、部屋の奥。
大きな執務机に、あの、鷹のような鋭い目をした、ヴォルグ・マクシマス学園長が、座っていた。
「……うむ。来たか」
学園長が、アリアを見た。
その視線だけで、アリアは、凍りつきそうだった。
(あ、やっぱり、退学だ……)
アリアが、絶望に打ちひしがれ、次の言葉を待った、——その時。
「……にゃあ」
アリアの耳に、聞き慣れた、しかし、今この場所で聞こえるはずのない、不機嫌そうな鳴き声が、届いた。
「え……?」
アリアは、目を瞬かせた。
視線を、学園長から、その机の上へと移す。
そこには。
荘厳な学園長の執務机の上。
積み上げられた重要書類の、その隣。
最高級のビロードでできた、明らかに学園長の私物であろう、豪華なクッションの上で。
三日前、「実家に帰る」と言って、アリアの前から姿を消したはずの、自分の使い魔——黒猫のクロノが。
信じられないほど、ふてぶてしく、かつ、優雅に、毛繕いをしていた。
「…………」
「…………」
アリアの思考が、完全に停止した。
「……く、く、く……」
「……クロノ……?」
アリアは、自分の目を疑った。
(な、なんで……?)
(なんで、クロノが、学園長の、机の上に……?)
(しかも、あのクッション、なに……!?)
アリアが、現実を飲み込めずにいると、鷹のようだったはずの学園長が、ふう、と大きなため息をついた。
そして、アリアではなく、机の上の猫に向かって、親しげに、いや、むしろ、どこか疲れたように、話しかけた。
「——来たぞ、クロノス」
「…………は?」
アリアの口から、間抜けな声が漏れた。
(……クロノス?)
ヴォルグ学園長は、続けた。
「全く。お前さんが、あんな派手な『水使い(カイ)』を寄こすから、こっちの計画が台無しだ。リアム坊ちゃんが、すっかり混乱してしまったではないか」
机の上の黒猫・クロノは、毛繕いの手を止め、その金色の瞳で、学園長を(まるで、見下すかのように)一瞥した。
「フン。ヴォルグよ。お前のところの教育が、なっておらんからだ。あの程度の魔獣一匹に、教官がやられるとは。情けない」
「……ぐっ」
——猫が、喋った。
——学園長と、対等に。
——いや、むしろ、学園長を、叱責するように。
アリアは、その場で、自分の理解が追いついていないことを、はっきりと自覚した。
「え……?」
「あ……?」
「……あの……?」
学園長とクロノ(猫)は、そんなアリアを完全に無視して、会話を続けている。
「それより、クロノス。『森の主』の分析結果が出たぞ。やはり、奴は『汚染』されていた」
「ほう。ヘレナの残党か?」
「いや……」
学園長の目が、鋭くなる。
「もっと、質が悪い。『呪い』の残滓だ。それも、我々の知る、どの系統にも属さん、異質なものだ……」
「……フム」
クロノが、不機嫌そうに、喉を鳴らした。
「あ、あの……! あのっ!!」
アリアは、ついに堪らなくなって、叫んだ。
「だ、誰か……! 私に、説明を……!」
「「……」」
学園長と、クロノ(猫)が、同時に、アリアを見た。
その瞬間、アリアは、気づいてしまった。
学園長の、あの鷹のような目。
クロノの、あの尊大な、金色の瞳。
その二つの視線に宿る「知性」の光が、あまりにも、よく似ていることに。
「……ああ。そうか。自己紹介が、まだだったな」
クロノが、クッションの上から、ゆっくりと立ち上がった。
「アリアよ。改めて、お前の『保護者』を、紹介しよう」
クロノは、前足で、ヴォルグ学園長を、ポン、と(まるで「ご苦労」とでも言うかのように)叩いた。
「——こいつは、ヴォルグ。わしの、一番できの悪い、教え子だ」
「………………」
「ええええええええええええええええええええええ!?」
アリア・ローゼンの、絶叫が。
王立マグノリア魔法学園、学園長室の、荘厳な扉を震わせた。
退学宣告よりも、もっと、ずっと、恐ろしい「真実」を知ってしまった、十六歳の春だった。




