6 学園外学習と「四天候」の来訪
あの中間試験での一件——アリアが「謎の力」でゴーレムの魔力核を破壊し、リアムの窮地を救ってしまった、あの日から。
リアム・アークライトの態度は、明確に変化した。
それまでの「疑念」や「警戒」に満ちた冷たい視線は、鳴りを潜めた。
代わりに彼が選んだのは、「完全なる無視」だった。
アリアは、教室で彼と目が合っても、彼は興味のない石ころでも見るかのように、スッと視線を逸らす。
廊下ですれ違っても、まるでアリアが存在しないかのように、その横を通り過ぎる。
そして、週に三度の地獄——古文書修復室での共同作業。
あの日以来、彼はアリアに「次を」という作業指示の言葉さえ、発しなくなった。
彼はただ、アリアが完璧な『風膜』で古文書の浄化を終えるのを無言で待ち、無言で『保存結界』を施し、無言で次の古文書をアリアの前に置く。
その繰り返し。
カビ臭い地下室には、紙をめくる音と、衣擦れの音だけが響く。
(……怖い)
アリアは、その沈黙に、以前にも増して強い恐怖を感じていた。
彼は、もうアリアを「疑う」段階にはいない。
彼は、アリアを「理解を超えた、危険な存在」だと、完全に「認定」したのだ。
そして、下手に刺激しないよう、関わらないよう、完璧に「距離」を置いている。
アリアは、そのリアムの態度に、心臓が凍るような恐怖を感じると同時に、心の片隅で、歪な「安堵」さえ覚えていた。
(……これで、いい)
(これで、彼はもう、私に話しかけてこない)
(私の正体を暴こうと、問い詰めてくることもない)
(私が「危険な存在」だと思ってくれるなら、きっと、私を避けてくれるはずだ)
そう。これでいいのだ。
アリアが望んだ「平穏」とは似ても似つかないが、「誰からも関わられない」という目的は、最悪の形で達成されつつあった。
唯一の救いは、メアリ・スミスが、そんなアリアの学園内での奇妙な立ち位置(A組の生徒たちからは「魔力Gの落ちこぼれ」と侮蔑され、A組トップのリアムからは「危険物」として無視される)に気づきながらも、変わらずに接してくれることだった。
「アリアちゃん、今日の魔法史のノート、見せてくれない? 私、マチルダ先生の話、半分くらい寝ちゃってて……」
「う、うん。いいよ。私のでよければ……」
メアリの屈託のない笑顔だけが、アリアの心の拠り所だった。
そんな、歪な日常が続いていたある日。
A組のホームルームで、担任のイライザ教官が、明るい声で告げた。
「はーい、みなさん。今度の必修実技訓練は、いつもの訓練場ではなく、学園の外で行いまーす」
「「「おおー!」」」
教室が、どよめいた。
ギデオン教官のシゴキにうんざりしていた生徒たち(特にカイン)が、一斉に活気づく。
「行き先は、学園の北に広がる『ささやきの森』です!」
「ささやきの森?」
「はい。今回は戦闘訓練ではありませんよ」
イライザ教官が、ニコリと笑う。
「目的は、『魔法薬学』と『生態学』のための、植物および鉱石の採集実習です!」
(——薬草、採集!)
その単語を聞いた瞬間、机に突っ伏していたアリアの背筋が、ピクリと震えた。
(薬草……)
それは、アリアがこの学園に来るまで、十六年間、毎日、毎日やってきたことだった。
父の仕事を手伝い、クロノに(『風使いの楽しい家庭菜園』の理論で)叩き込まれ、アリアが唯一「得意」だと自負できる分野。
(これなら……)
(これなら、私でも、「足手まとい」にならずに済むかもしれない)
(「魔力G」でも、薬草の知識さえあれば……)
アリアの心に、この学園に来て初めて、微かな「希望」の光が射した気がした。
実習当日。
A組の生徒たちは、ギデオン教官(引率兼護衛)とイライザ教官に連れられ、転移ゲートを通って「ささやきの森」の入り口に立っていた。
「うわー! 空気うまっ!」「訓練場と大違いだ!」
カインたちが、解放感に満ちた声を上げる。
アリアも、森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(……村の匂いに、似てる)
湿った土の匂い。木の葉の青臭い匂い。
それだけで、アリアの強張っていた心が、少しだけ解れていくのを感じた。
「いいか、ヒヨども!」
ギデオン教官の怒声が、森の静寂を破った。
「ここは訓練場ではない! 本物の魔獣が出る! イライザ教官の指示に従い、採集リストにあるもの以外には触れるな! 決して単独行動はするな! ……ローゼン!」
「ひゃいっ!?」
不意に名前を呼ばれ、アリアは飛び上がった。
「貴様は……」
ギデオンは、忌々しげにアリアを一瞥した。
「……貴様は、メアリ・スミスの班に入れ。スミス! こいつから目を離すな! 絶対に魔術を使わせるな! いいな!」
「は、はいっ!」
メアリが、緊張した面持ちで頷く。
アリアは、(やっぱり……)と肩を落とした。
(まあ、いい。メアリちゃんと一緒なら、安心だ)
採集実習が始まった。
生徒たちは、四人一組の班に分かれ、イライザ教官から渡された「採集リスト」を片手に、森の中へ入っていく。
「えーっと、『月見草』と『銀葉の茎』? どこにあるんだ?」
カインが、リストを見ながら頭を掻いている。
「カイン、そっちは『毒ウルシ』よ! 触ったらカブれるわよ!」
リゼットが、甲高い声を上げる。
アリアは、メアリの班(メンバーはアリア、メアリ、そしてA組の地味な男子生徒二人)で、森の地面を注意深く観察していた。
(……あった)
アリアは、他の生徒が見向きもしない、古い切り株の根元に、小さな紫色の花を見つけた。
「あ、あの……メアリちゃん。これ」
「え? あ、本当だ! これ、『月見草』だ! アリアちゃん、すごい! よく見つけたね!」
「う、うん。こういう、湿った日陰が、好きだから……」
「へえー! 物知りなんだね!」
メアリに素直に感心され、アリアは、頬が熱くなるのを感じた。
(……うれしい)
誰かの役に立てた。
ただ、それだけのことが、アリアには泣きたいほど嬉しかった。
「おい! ローゼン!」
不意に、別の班からカインの声が飛んできた。
「こっちにも『銀葉』っての、生えてねえか!?」
「え、あ、ええと……」
アリアは、カインたちが探している辺りの土壌を見た。
(土が、乾きすぎてる。あそこには、生えない……)
「あ、あの……カインさん。そっちじゃなくて、もっと、小川に近い、水辺の方が……」
「おお! サンキュ!」
アリアの的確な助言で、各班の採集は、驚くほど順調に進んだ。
最初はアリアを「魔力G」と馬鹿にしていた生徒たちも、「おい、薬草のことはローゼンに聞け」「あいつ、妙に詳しいぞ」と、その知識には一目置かざるを得なくなっていた。
アリアは、人前で話すことへの緊張よりも、自分の知識が誰かの役に立つ喜びが、わずかに上回っていた。
「……」
ただ一人。
リアム・アークライトだけが、その光景を、離れた場所から、冷ややかに(あるいは、警戒するように)眺めていた。
彼の班(メンバーは、リアムと、彼を崇拝する貴族の男子生徒二人)は、すでに完璧に採集を終え、アリアたちの様子を監視していた。
(……薬草学、か)
リアムは、眉をひそめた。
(「魔力G」で「神業の魔力制御」。「危険なルーン」の知識。そして、専門家レベルの「薬草学」)
アリア・ローゼンという存在の、アンバランスさが、リアムの警戒をますます強めていた。
「——あれ?」
採集も終盤に差し掛かった頃。
アリアは、森の少し開けた場所で、足を止めた。
岩陰に、月の光を固めたかのように、淡く、青白く輝く花が、一輪、咲いていた。
「うそ……」
アリアは、息を呑んだ。
「『月光花』……!」
それは、リストの最後に「(発見できれば尚良し)」と書かれていた、極めて希少な薬草だった。
高位の治癒ポーションの材料になる、非常に高価な植物だ。
「メアリちゃん! あったよ! 『月光花』が……!」
「ええ!? 本当!?」
アリアの声に、メアリやカイン、他の生徒たちも集まってきた。
「おお! あれか! すげえ、本当に光ってる!」
アリアが、その花に手を伸ばそうと、一歩踏み出した、その時。
「——待て!! 動くな!!」
森を震わすような、ギデオン教官の怒声が響いた。
「っ!?」
アリアは、その場で凍りついた。
「……グルルルル……」
低い、地の底から響くような、獣の唸り声。
アリアたちが集まっていた広場の、反対側の茂みが、ガサガサと激しく揺れた。
そして、姿を現したのは——
「……う、そ……」
カインが、息を呑んだ。
それは、熊と猪が合わさったような、全高5メートルはあろうかという巨体だった。
全身は苔むした岩のような皮膚で覆われ、背中からは歪な樹木の枝が刺さったように生えている。
両目は、先のゴーレムの核のように、不気味な赤色に爛々と輝いていた。
「『森の主』……!?」
リアムが、その名を呟いた。
「なぜ、B級レベルの魔獣が、こんな浅いエリアに……!」
「ヒヨども! 散るな! 固まれ!」
ギデオン教官が、生徒たちを庇うように前に出た。
「アークライト! お前は、イライザ教官と共に、全員を護るための『広域結界』を張れ! それ以外の者は、手を出すな! いいな!」
「は、はいっ!」
リアムとイライザ教官が、即座に詠唱を始める。
「きゃあああっ!」
メアリやリゼットが、小さな悲鳴を上げた。
「グルオオオオオ!!」
森の主が、獲物を見つけたとばかりに、咆哮を上げ、突進してきた。
「——させん!」
ギデオン教官が、その前に立ちはだかる。
「《土壁》、三重!」
ドドドン!
三枚の分厚い土の壁が、地面から隆起する。
だが、
——ドガアアアアアン!
森の主は、速度を緩めることなく、三枚の壁を、まるで紙でも破るかのように、粉砕した。
「なっ!?」
ギデオンの目が見開かれる。
「硬い! 魔力抵抗も高いぞ!」
ギデオンは、体を捻り、間一髪で魔獣の薙ぎ払う爪を避けた。
「《岩石槍》!」
地面から、無数の岩の槍が突き出し、魔獣の腹を狙う。
——ガギギギギ!
しかし、岩の槍は、その硬質な皮膚に弾かれ、数本が浅く刺さっただけだった。
「グルルル!」
ダメージには程遠い。
魔獣は、より一層激昂し、ギデオンに襲いかかった。
「くそっ!」
ギデオン教官は、防戦一方に追いやられた。
彼は、生徒たちを守るため、その場から動けない。
一方、リアムとイライザ教官は、生徒たち全員を覆う《広域結界》の維持だけで、魔力の全てを使っており、攻撃に転じる余裕はなかった。
(……まずい)
アリアは、結界の中で、震えながら戦況を見つめていた。
(ギデオン先生が、押されてる……!)
(あんなの、試験のゴーレムなんかより、ずっと強い!)
メアリが、アリアの腕にしがみついてきた。
「アリアちゃん……こわい……」
「だ、大丈夫……。大丈夫だから……」
大丈夫なはずがなかった。
「グオオ!」
魔獣が、ギデオンの防御をかいくぐり、その巨大な爪を横に薙いだ。
「ぐっ……!?」
ギデオンは、咄嗟に腕でガードしたが、その巨体ごと数メートルも吹き飛ばされ、大木に叩きつけられた。
「ギデオン先生!」
イライザ教官が、悲鳴を上げた。
「いかん! 結界が……!」
リアムが、歯を食いしばった。
魔獣は、邪魔者が消えたとばかりに、その赤い目を、結界の中の「獲物」たち——アリアたち生徒に向けた。
そして、ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。
(……だめだ)
(……死んじゃう)
メアリが、死んじゃう。カインも、リゼットも。
あの、冷たいリアムだって。
(……ギデオン先生も、倒れたまま……)
アリアは、覚悟を決めた。
(……バレても、いい)
(リアムに「拘束する」って言われても、いい)
(もう、どうなってもいい)
(——みんなを、助けないと!)
アリアは、結界の中で、メアリに気づかれないよう、そっと、右手の指先を魔獣に向けた。
狙うは、あの赤い両目。
『風の針』なら、あの硬い皮膚の上からでも、眼球を潰せる。
アリアが、魔力を練り上げ、放とうとした、——その瞬間。
「——やれやれ。騒がしいねぇ」
場にそぐわない、間延びした、男の声がした。
森に、急速に、濃い「霧」が立ち込めていく。
「な、なんだ!?」
リアムが、警戒を露わにした。
アリアも、魔力を寸前で止め、声のした方を見た。
魔獣と、リアムたちの結界の中間。
その霧の中から、一人の青年が、まるで散歩でもするかのように、のんびりと姿を現した。
歳は、二十代前半だろうか。
深い青を基調とした、旅人のような軽装。腰には細い剣を吊るしているが、抜く気配はない。
柔らかな、海の色をした髪が、霧に濡れていた。
その顔は、人を食ったような笑みを浮かべていた。
「グルオオオ!」
魔獣が、新たな侵入者に向かって、咆哮した。
「おっと。……これは、これは。『森の主』か。ご機嫌斜めだねぇ」
青年は、まったく動じていなかった。
それどころか、魔獣の後ろ——リアムたちの結界の中にいる、アリアを見つけた。
そして、ニヤリと、悪戯っぽく笑った。
「——やあ、アリア。息災かい?」
「…………え」
アリアは、凍りついた。
(う、そ)
(なんで、この人が、ここに……!?)
「アリア!?」
メアリが、アリアの顔を見た。
リアムの瞳が、危険なほど細められた。
(……知り合い、だと?)
「グルアアア!」
無視された魔獣が、激昂し、青年に向かって、その巨腕を振り下ろした。
「おっと、いけない」
青年は、面倒くさそうに、片手を、パチン、と指で鳴らした。
詠唱は、なかった。
「——《深き水底の牢獄》」
——直後。
森の空気が、変わった。
大気に満ちていた霧が、ありとあらゆる水分が、魔獣の一点に向かって、急速に圧縮されていく。
「グ……!?」
魔獣の巨体が、一瞬で、水の塊に飲み込まれた。
それは、ただの水ではない。
深海の水圧そのものを具現化したような、高密度の、青黒い「水の牢獄」だった。
——ギシギシギシッ。
水の牢獄が、内部の魔獣を、万力のように締め上げていく。
「グル……! ギ……!」
魔獣が、苦しげに、泡のような声を上げた。
さっきまで、ギデオン教官を圧倒していた「森の主」が。
リアムの結界を紙のように破った、あの魔獣が。
たった、一撃で。
指を鳴らした、ただの一瞬で。
完全に、無力化されていた。
「…………」
リアムも、カインも、リゼットも、そして、木に寄りかかりながら、かろうじて意識を保っていたギデオン教官さえも。
A組の全員が、その、あまりにも「規格外」な魔術の光景に、言葉を失っていた。
「ふう。やれやれ」
青年は、水の牢獄の中でもがき苦しむ魔獣を一瞥すると、興味を失ったかのように、アリアたちに向き直った。
「いやあ、驚いた。王さまの依頼で、この辺りの異常気象を調査に来てみれば、可愛い妹弟子が、ピンチじゃないか」
「……カイ、さん……」
アリアは、顔面蒼白になりながら、その青年の名を呼んだ。
青年——「四天候」の一角、「蒼海」のカイ・ウォーカーは、アリアに向かって、人懐っこい笑みを浮かべた。
「アリアの"お友達"には、サービスだよ」
カイは、結界の中で呆然とするリアムたちに向かって、ウインクしてみせた。
そして、アリアの隣まで、霧を滑るように移動すると、彼女にしか聞こえない声で、耳打ちした。
「……にしても、危なかったねぇ。今、魔力、解放しようとしただろ? 『風の針』」
「!?」
アリアの心臓が、跳ね上がった。
「ダメじゃないか、アリア。そんなことしたら、君が隠してる意味がない。……まあ、精々、上手くやんなよ」
「か、カイさんこそ、なんで……!」
「俺は、仕事! 仕事!」
カイは、悪戯が成功した子供のように笑うと、ポン、とアリアの頭を軽く叩いた。
「それじゃあ、後は、先生に任せた。俺は忙しいんでね」
カイは、ギデオン教官に向かって、ひらひらと手を振った。
「ま、待て! 貴公は、一体……!」
ギデオンが、負傷した体を起こし、問い詰めようとするが、カイは答えなかった。
「あ、そこのお坊ちゃん」
カイは、リアムに向き直った。
「……なんだ」
「あんまり、ウチの末っ子を、イジメないでやってくれるかな?」
カイは、それだけ言い残すと、その姿を再び濃い霧の中に溶かし、あっという間に、気配ごと消え去ってしまった。
森には、静寂が戻った。
残されたのは、未だ水の牢獄の中で意識を失っている「森の主」と。
目の前で起きた、あまりにも現実離れした光景に、呆然と立ち尽くす、A組の生徒たちと。
そして。
カイの最後の言葉——「ウチの末っ子」——の意味を反芻し、信じられないという表情で、アリア・ローゼンを見つめる、リアム・アークライトの姿だった。




