効率厨の悪役令嬢は婚約破棄RTA記録を更新する。「お前を愛することはない」は、チュートリアルなのでスキップします
新作です。
王宮の薔薇園は無駄に広い。
視界を埋め尽くす真紅の薔薇。漂う甘い香り。そして目の前で腕を組み、ふんぞり返っている金髪碧眼の少年。
これら全ての要素が、公爵令嬢の私、リーゼロッテ・ヴェルディ公爵令嬢(10歳)の脳内で、ある一つの解を導き出していた。
(あ、これ確定演出だ)
前世の記憶が蘇ったのは、ほんの数秒前。
どうやら私は生前やり込んでいた乙女ゲーム、『救国のラピスラズリ』の世界に転生したらしい。
しかも、ヒロインではない。分岐ルートによっては処刑エンドも有り得る、悪役令嬢リーゼロッテだ。
通常なら、ここで破滅フラグに怯えたり、「運命を変えてみせる!」と決意したりするのだろう。
だが、私は違った。
(長いな……)
目の前の少年、この国の王太子アレクセイが、何かを喋っている。
口の動きと身振り手振りからして、自分がいかに高貴であり、私が選ばれたことがいかに光栄であるかを説いているようだ。
だが、長い。
ゲーマーとしての私の本能が、右下にあるはずの『SKIP』ボタンを探して虚空を彷徨う。
このイベントは確かテキスト送り不能の強制ムービー。
「――つまりだ、リーゼロッテ」
ようやく、アレクセイ殿下の話が核心に近づいたようだ。彼は芝居がかった動作で私の顎をくい、と持ち上げた。
ゲーム画面で見た通りの美少年だが、どこか腹の立つCGスチルそのものの顔が迫る。
「父上の命令により、婚約は結ぶ。だが勘違いするなよ?」
来た。来るぞ。私は心の中でコントローラーを握りしめ、○ボタンを連打する構えを取る。
「俺は、お前のような可愛げのない女を愛することはない!」
はい、いただきました。テンプレート定型文、『愛することはない』宣言。これにてチュートリアルイベント『王太子の憂鬱』、クリアである。
本来のリーゼロッテなら、ここでショックを受けて涙ぐむか、あるいは「振り向かせてみせますわ!」と、愛の重い女へ変貌する場面だ。
だが、中身が『効率厨』に入れ替わった私の反応は極めて事務的なものだ。
「承知いたしました」
私は即答した。コンマ一秒の遅れもない、完璧な即答。カーテシーのために摘んだスカートの角度も、表情筋の制御も我ながら完璧だ。
「……は?」
アレクセイ殿下が間の抜けた声を漏らす。
「承知いたしました、殿下。私を愛することはない、との仰せ。肝に銘じます」
「お、おい、意味が分かっているのか? 俺は、お前を妻として大切にするつもりはないと……」
「ええ、重々理解しております。つまり殿下は、『我々はビジネスパートナーに徹しよう』と仰りたいのですね?」
「び、びじねす……?」
戸惑う殿下を置き去りにして、私は頭の中で今後のプレイ方針を構築していた。
このゲーム、王太子ルートは正直クソゲーである。
彼の好感度を上げるためには、毎日のように手作り菓子を差し入れし、中身のないポエムのような手紙を送り、彼の機嫌を損ねないように、常に三歩下がって歩かねばならない。
その対価が、このナルシスト王子の愛?
割に合わない。コストパフォーマンスが悪すぎる。
しかし、彼が「愛することはない」と宣言してくれたおかげで、話は変わる。
これは『恋愛イベントフラグを折った』ということだ。つまり、私は王太子の婚約者という『地位』だけを利用し、面倒な恋愛イベントを全スルーできる権利を得たのだ。
「素晴らしいご提案です、殿下」
「す、素晴らしい……?」
「はい。お互いに干渉せず、王族としての公務と義務のみを果たす。実に合理的で、現代的で、生産性の高い関係ですわ」
私は満面の笑み(営業用スマイル)を浮かべた。
「では、私はこれより『王妃教育』という名のパラメータ上げ……いえ、自己研鑽に励んで参ります。殿下もどうぞ、ご自由に遊んでらしてください」
私は唖然とする殿下に背を向け、速足で薔薇園を後にした。
さあ、忙しくなるよ。
六年後の卒業パーティーで発生する『婚約破棄イベント』までに、領地経営スキルと魔力制御スキルをカンストさせ、慰謝料代わりにふんだくる予定の『魔導特許』を完成させなければならないのだから。
◇
それからの六年間、私の学園生活は『RTA』の様相を呈していた。
朝五時に起床。朝食を五分で摂取し、登校までの移動時間で領地の財務報告書に目を通す。
学園の教室では最前列に陣取り、授業内容はすべて一回で脳内データベースに保存。
昼休みは図書館に籠もり、古今東西の魔術書を乱読して独自理論を構築。
放課後は王妃教育だが、既に完璧に仕上げているため、教育係の夫人と、お茶を飲みながら社交界の裏情報を収集する時間に充てている。
恋愛? お茶会? 取り巻きとの派閥作り?
そんな生産性のない『縛りプレイ』をする暇はない。
そんなある日のことだ。
私が図書室で羊皮紙に『自動魔力充填式・湯沸かしポット』の設計図をガリガリと描いていると、視界の端に金色の影が落ちた。
「……ここにいたのか」
アレクセイ殿下である。
現在一六歳。相変わらず無駄に顔が良い。
彼は私が積み上げた本の山を見て鼻を鳴らす。
「ふん、また勉強か。相変わらず可愛げのない女だ」
「ごきげんよう、殿下。本日はどのようなご用件で? 公務の決裁なら執務室へ、夜会のパートナー確認なら秘書官へ通しておりますが」
「……お前、俺に対する態度が淡白すぎないか?」
殿下が不満げに眉を寄せる。
――面倒くさい。
今、私は湯沸かしポットの熱伝導率の計算で忙しいのだ。
「淡白ですか? 滅相もございません。六年前の契約通り、殿下の時間を奪わないように配慮しているだけです」
「契約……ああ、『愛することはない』と言った、あれか」
殿下はニヤリと口角を上げた。
なぜか勝ち誇った顔。
「リーゼロッテ、お前はそうやって強がっているが、本当は俺の気を引きたくて必死なんだろう?」
「……はい?」
計算の手が止まる。
今、このNPCは何と言った?
「隠さなくてもいい。俺は知っているぞ。お前が血の滲むような努力をして、全科目満点の成績を維持していることを。王妃教育も完璧だと評判だ」
殿下は私の机に手をつき、顔を近づけてくる。
「それもこれも、すべて俺に相応しい女になるため……そうなんだろう?」
……なるほど。
とんでもないバグが発生している。
彼の中では、「私がスキル上げに没頭している」=「俺への愛ゆえの努力」という変換がなされているらしい。
ポジティブシンキングにも程がある。
訂正しようと口を開きかけたが、私は瞬時に損得勘定を弾く。
(いや、待って。ここで否定して『なんで俺を愛してないんだ!』と、ゴネられると説得に推定三十分はかかる。肯定しておけば満足して一分で帰るはず……)
タイム・イズ・マネー。
私はスッと表情を『聖女モード』に切り替えた。
「……ふふ。殿下には敵いませんね。すべてお見通し、というわけですか」
「はっ! やはりな! いじらしい奴め!」
殿下は満足げに高笑いした。
「だが、まだ足りないな。俺の隣に立ちたければ、もっと可愛げというものを学ぶんだな。……ま、努力だけは認めてやる」
そう言った殿下が、私の頭をポン、と乱雑に撫でて去っていった。
嵐が過ぎ去った後の静寂。
私は乱れた髪を手櫛で直し、即座に羽ペンを握り直した。
「よし、エンカウント終了。計算の続きをしないと」
彼の頭の中がお花畑であることは、私にとって好都合だ。このまま勘違いさせておけば、卒業パーティーの断罪イベントまで邪魔が入ることはないだろう。
――そう思っていた。
あの『イベント進行用NPC』こと、男爵令嬢ミシェルが現れるまでは。
学園卒業まで、あと三ヶ月。
物語はいよいよ強制イベントの連発するクライマックスへと突入する。
◇
乙女ゲームにおける『イベント』とは、プレイヤーを楽しませるためのご褒美だ。
だが、今の私にとっては、作業効率を著しく低下させる『バグ』でしかない。
学園の中庭。
昼休みの貴重な時間を、私はベンチで消費していた。目の前には、王太子アレクセイと男爵令嬢ミシェルがいる。
「きゃっ! ごめんなさい、アレクセイ様! 私ったら……」
「気にするな、ミシェル。君のような可憐な花は、俺が支えてやらねばな」
ミシェルが何もない平地で躓き、それをアレクセイが抱き留める。
古典的だ。あまりにも古典的な『接触イベント』である。
周囲の生徒たちが遠巻きにヒソヒソと噂話をしているが、私は虚無の瞳で、その光景を眺めている。
(この茶番はスキップ不可なのか?)
私の手元には分厚い魔術概論の教科書がある。
だが、その中身はカモフラージュだ。間に挟んでいるのは、私が開発した『魔力駆動式・全自動洗濯機』の特許申請書類。
あと一行。あと一行書き込めば完成するというのに、目の前の二人が視界をチラチラと塞いでくるせいで筆が進まない。
「おい、リーゼロッテ!」
あ、ターゲットがこっちに来た。
アレクセイはミシェルの腰に手を回したまま、勝ち誇った顔で私を見下ろす。
「見ただろう? ミシェルはドジだが、そこが守ってやりたくなる。お前のような可愛げのない『鉄の女』とは大違いだ」
鉄の女。素晴らしい称号だ。感情に左右されず、常に冷徹にタスクを処理する。最高の褒め言葉である。
「おっしゃる通りです、殿下。ミシェル様は大変愛らしい。お二人は実にお似合いですよ」
私は書類の記入欄から目を離さず、抑揚のない声で答えた。
早くどいてほしい。ここ、日当たりが一番良くて書類が乾きやすい特等席だから。
「……ふん、口ではそう言っているが、目が笑ってないぞ」
殿下が、また都合の良い脳内変換を開始した。
「本当は腸が煮えくり返る思いなのだろう? 俺が他の女に触れているのが許せない。だが、プライドが邪魔して素直になれない……そうだな?」
もはやホラーの領域である。
なぜ「目が死んでいる(無関心)」を「嫉妬に狂っている」と翻訳できるのか。そのポジティブ変換回路を解析して、魔道具のエネルギー効率向上に応用できないだろうか。
「リーゼロッテ様、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
ミシェルが潤んだ瞳で私を見る。
彼女もまた、ゲームのシナリオ通りに動く舞台装置だ。悪気はないのだろうが、こちらの正気度を削ってくる点では、殿下と同類である。
「謝罪は不要です、ミシェル様。殿下が貴方を選んだ。それはシナリオです。私はただ、その結末を粛々と受け入れるのみですので」
私は教科書をパタンと閉じた。
これ以上ここにいても作業効率が上がる見込みはない。
「では、私は図書館に用がありますので。ごゆっくりどうぞ(永遠にやっててください)」
席を立ち、早足でその場を去る。
背後から、「おい待て! 嫉妬して逃げるのか! 可愛い奴め!」という殿下の声が聞こえたが、私は脳内のオーディオ設定で『ボイス音量』をミュートにした。
◇
王立学園の図書館最奥にある『特別閲覧室』。
そこは高位貴族か、特別な許可を得た成績優秀者しか入れない聖域。
――静寂。インクと古紙の香り。
こここそが、私のセーブポイントである。
「ふぅ……」
私は誰に遠慮することなく、大きな長机に書類と魔導書を広げる。先ほどの騒音で乱された精神を統一し、ペンを走らせる。
今取り組んでいるのは、洗濯機の心臓部となる『水流制御術式』の最適化。従来の術式では魔力消費が多すぎる。もっと無駄を削ぎ落とし、最短経路で魔力を循環させなければならない。
「……その第三行目、術式が重複しているぞ」
突然、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
驚いて顔を上げる。
そこに立っていたのは、銀髪に氷のような青い瞳を持つ青年だった。
色素の薄い美貌。近寄りがたいほどの冷気。そして王族の証である紋章入りのローブ。
(シリル・アークライト第三王子!?)
私の脳内データベースが即座に検索結果を弾き出す。
王宮魔導師団の団長にして、攻略難易度MAXの隠しキャラ。
彼は『氷の魔術師』の異名通り、他人に興味を持たず、非合理を嫌う性格のはずだ。
「……失礼しました、殿下」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、シリル殿下に手で制された。
そして、私の書きかけの羊皮紙を指でなぞる。
「座っていろ。……この術式、面白いな。水属性の基本構成を無視して風属性の循環理論を組み込んでいるのか?」
「はい、洗浄効率を上げるには水そのものの動きよりも、水を動かす『力のベクトル』を制御すべきだと考えまして」
「なるほど。だが、ここが冗長だ。この記述を削除して、代わりに並列処理のルーンを組み込めば、魔力消費はさらに一五%削減できる」
彼は私のペンを奪うと、サラサラと修正案を書き加えた。
美しい。無駄の一切ない、芸術的なまでに効率化された術式。
「……素晴らしいです」
思わず、ため息が漏れた。
アレクセイ殿下の顔を見ても1ミリも動かなかった私の心が、この美しい数式を見た瞬間、激しく高鳴った。
「貴方は天才ですか? この短縮法は目から鱗です。これなら量産化のコストも大幅に下げられます!」
「量産化だと? ……ふん。お前、これを商売にする気か?」
「当然です。技術は実用化され、利益を生んでこそ価値がありますから」
私がきっぱりと言い切ると、シリル殿下は初めて私をまじまじと見た。
その氷のような瞳に、微かな熱(興味)が灯る。
「……面白い。この学園の女はどいつもこいつも恋愛だの宝石だのと、中身のない話ばかりだが……お前は違うようだな」
「恋愛は非生産的です。宝石は換金率が悪い。私が欲しいのは確実な成果と自由な時間だけです」
「同感だ。……名前は?」
「リーゼロッテ・ヴェルディと申します」
「覚えておこう、リーゼロッテ」
シリル殿下は口の端をほんの少しだけ緩めた。
それは、アレクセイ殿下のようなナルシストな笑みではなく、同志を見つけた研究者のような笑みだった。
「俺は毎日この時間にいる。……また、その珍妙な理論を見せに来い」
「珍妙とは失礼ですね。革新的と言ってください」
「フッ……違いない」
イベント発生音(SE)が聞こえた気がした。
だが、それは甘ったるい恋愛イベントの音ではなく、知的なビジネスパートナーシップ締結のファンファーレだ。
(よし、これで卒業後の『就職先』のアテもできたね)
私は心の中でガッツポーズをした。
王太子との婚約破棄後、実家にいづらくなれば、隣国の研究所へ行くつもりだった。だが、国内最高峰の魔導師団長とコネができれば、国内での活動も視野に入る。
リスクヘッジは完璧だ。
◇
そして、時は流れる。
私とアレクセイ殿下の冷え切っているのに片方だけが熱を上げている奇妙な婚約期間は、ついに終わりの時を迎えようとしていた。
卒業パーティー当日。
会場の広間には着飾った貴族の生徒たちが集まっている。その中心で、アレクセイ殿下がミシェルの手を引き、一段高い壇上へと上がる。
音楽が止まり、視線が集まる。
私は会場の隅でグラス片手に、その時を待っていた。
ドレスの隠しポケットには、この六年間温め続けた『あの書類』が入っている。
(さあ、来い。私の自由への号砲を鳴らしてくれ)
アレクセイ殿下が、私を指差して高らかに叫ぶ。
「リーゼロッテ・ヴェルディ! 前へ出ろ!」
きた。
私はグラスを置き、優雅に、しかし内心ではスキップ走行したいほどの喜びを抑えて、壇上へと歩み出た。
RTA、最終区間のスタートだ。
◇
王立学園の大講堂。
シャンデリアの煌めきの下、私は壇上で吊るし上げられていた。
私の目の前には勝ち誇った顔のアレクセイ殿下と、その腕にしがみつく、ミシェル嬢。
背後には彼らの側近である近衛騎士団長の息子や、宰相の息子たちがズラリと並び、私を睨みつけている。
完全なる四面楚歌の陣形。
だが、私の脳内時計は冷静にカウントを刻んでいた。
現在時刻、二十時一五分。予定通りなら、あと三分でイベント進行フラグが立つ。
「リーゼロッテ! 貴様の悪逆非道な振る舞いは、もはや看過できん!」
アレクセイ殿下が、よく通る声で叫んだ。
会場のざわめきがピタリと止む。
「ミシェルに対する数々の嫌がらせ! 彼女の教科書を隠し、階段から突き落とそうとし、さらには『身分を弁えろ』と暴言を吐いたそうだな!」
……ん? 覚えがない。教科書? 彼女が授業中に居眠りして落としたのを拾って机に戻しただけだ(その時間が無駄だった)。
階段? 彼女が勝手に足をもつれさせたのを、風魔法で浮遊させて助けたはずだ(怪我をして騒ぎになられると迷惑だから)。
暴言? 「公務の時間ですので失礼します」と言ったのが、彼女のフィルターを通すと、そう変換されるのか?
だが、私は反論しなかった。
ここで「やっていません」と否定すれば、泥沼の議論になり、イベント時間が延長してしまう。
冤罪? 上等だ。それは『婚約破棄』のための必要経費である。
「……沈黙は肯定と受け取るぞ!」
殿下が声を張り上げる。
よし、いいぞ。そのまま一気に行け。
「貴様のような冷酷で愛のかけらもない女は、将来の国母に相応しくない! よって!」
殿下が息を吸い込む。
来るぞ。この六年間待ちに待った、あのセリフが!
「リーゼロッテ・ヴェルディ公爵令嬢! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」
【クエスト完了:婚約破棄の成立】。
脳内でファンファーレが鳴り響いた。
通常、ここで悪役令嬢が取るべきリアクションは、「そ、そんな!? う、嘘ですわ!」と崩れ落ちるか、「なんですって!?」と激昂するかの二択だ。
殿下も、周囲の観衆も、そのどちらかを期待して固唾を飲んでいる。
だが、私はそのどちらでもない。
私はドレスの隠しポケットから、あらかじめ用意していた『極厚の書類束』を取り出した。
「謹んで、お受けいたします!!」
私の声が予想外の明るさで響き渡った。
「は……?」
殿下の顔が固まる。
「婚約破棄の宣言、確かに承りました! つきましては、こちらの書類に署名をお願いします! はい、ペンはこちらです!」
私は残像が見えるほどの速度で殿下に詰め寄り、書類とペンを突きつけた。
「な、なんだこれは……? 『婚約解消における合意書』?」
「はい! 殿下の気が変わらないうちに、公的な効力を確定させる必要がありますので! 内容は確認済みです。慰謝料は請求しません。王家からの解決金も不要です!」
私は早口でまくしたてる。
周囲の貴族たちが、「慰謝料なし?」「公爵家が泣き寝入りか?」と、ざわめくが、甘い。甘すぎる。本当の狙いは、その下の条項だ。
「その代わり、第五条をごらんください! 『婚姻によって王家に帰属する予定だった、リーゼロッテ・ヴェルディ名義の全魔導特許、及び事業権利は婚約解消と同時に、全てリーゼロッテ個人に返還されるものとする』!」
そう、これだ。本来、王太子妃が開発した技術や特許は慣例として王家の資産となる。私が開発した『全自動洗濯機』も、『瞬間湯沸かし器』も、『魔力通信機』も、結婚すれば全て王家のものとなり、私はただの名誉職に追いやられるはずだった。
だが、婚約破棄となれば話は別だ。
これは正当な『財産分与』である。
「え、あ、いや……まあ、金など要らぬが……」
殿下は気圧されながらも、訳も分からずペンを動かす。
よし、署名ゲット!
「ありがとうございます! これで契約成立です!」
私は書類をひったくるように回収し、素早く控えを殿下の胸ポケットにねじ込んだ。
「ま、待て、リーゼロッテ! お前、悲しくないのか!? 俺に捨てられるんだぞ!?」
殿下が我に返ったように叫ぶ。
まだ言ってるのか、このNPCは。
「悲しい? とんでもない! 私は今、人生で一番晴れやかな気分です!」
私は満面の笑み(今度は営業用ではない)心からの笑顔を彼に向けた。
「殿下はミシェル様を手に入れ、私は自由を手に入れた。まさに、ウィンウィンの関係ではありませんか! どうぞ末永くお幸せに!」
言い切ると同時に、私はスカートの裾を翻し、出口へとダッシュした。淑女にあるまじき速度だが、知ったことではない。
会場の外には、すでに実家の馬車を待機させてある。あとはこれに乗って領地へ帰り、荷物をまとめて隣国へ高飛びするだけだ。
「あっ、そうだ」
扉の前で、私は一度だけ振り返る。
呆然と立ち尽くす殿下と、取り巻きたちに向かって最後の置き土産をしてやることにした。
「殿下、机の上の書類整理はお早めに。私が処理していた『王家主催の慈善事業の予算案』と『領地間の関税調整の草案』、明日の朝までに決裁しないと物流が止まりますからお気をつけて」
「……え?」
「あと、ミシェル様。王太子妃の公務は一日平均一二時間のデスクワークと、三時間の来客対応が必要です。お茶会でニコニコしているだけでは務まりませんので、死ぬ気で頑張ってくださいね!」
二人の顔色がサッと青ざめるのが見えた。
ざまぁみろ。私がどれだけ効率化して、涼しい顔でその激務をこなしていたか、身をもって知るがいい。
「それでは、ごきげんよう! 二度とお会いすることはないでしょう!」
私は扉を蹴破る勢いで開き、夜の闇へと飛び出した。
背後で、「ま、待て! どういうことだ!」「そんな仕事、聞いてないですぅ!」という悲鳴が聞こえたが、私は振り返らなかった。
RTA記録、更新。
婚約破棄宣言から会場離脱まで、わずか三分四五秒。
完璧なプレイングだ。
◇
私が王都をログアウトしてから、三ヶ月が経過した。
風の噂……というか、商会の情報網から流れてくる定期レポートによると、現在の王城は阿鼻叫喚の地獄絵図となっているらしい。
まず、私が開発した『魔導事務処理システム』が停止した。
私が権利を引き上げたため、王城の端末が一斉にシャットダウンし、全ての業務が手書きのアナログ作業に戻った。一日三時間で終わっていた業務が、今では二十四時間体制でも終わらないという。
そして、新しく聖女(笑)として迎えられたミシェル嬢。彼女は「皆様を癒やします♪」とお菓子を配ることしかできず、山積みの決裁書類を前に、「字が難しくて読めなぁい……」と泣き出し、補佐官たちの胃に穴を空けているそうだ。
極めつきは、アレクセイ殿下だ。
彼は毎晩のように私の部屋だった場所の前で、「リーゼロッテ、もう許してやるから戻ってこい……」と呻いているらしい。
「バグですね」
私は送られてきた報告書を、暖炉の火にくべた。
燃え上がる炎を見つめながら、コーヒーを一口。
素晴らしい香りだ。ここは隣国の学術都市にある、私の新しい研究所。
静かで、快適で、何より邪魔が入らない。
「何を燃やしている?」
背後から声をかけられ、振り返る。
白衣を纏ったシリル殿下が、怪訝そうな顔で立っていた。
彼はあの後、「有能な人材を不当に扱う国に未練はない」と言い放ち、魔導師団長の座を辞して、私についてきてしまったのだ。
今では、この『ヴェルディ&アークライト魔導研究所』の共同代表である。
「ああ、故国からのスパムメールです」
「スパム? ……ああ、アレクセイからの復縁要請か」
シリルは呆れたように肩をすくめる。
「まだ言っているのか、あの男は。……それで内容は?」
「読んでいません。差出人の名前を見た瞬間に『ゴミ箱へ移動』しましたので」
「相変わらず容赦がないな」
シリルは苦笑いを浮かべながら、私のデスクに一枚の書類を置いた。
「それより朗報だ。新型の『全自動魔力乾燥機』、隣国政府から一万台の受注が入った」
「一万台も!? 計算通り……いえ、想定以上のヒットですね!」
私は思わず身を乗り出した。
一万台の利益があれば、次は悲願だった『瞬間移動ゲート』の研究に着手できる。
「素晴らしいです、シリル様! 貴方の構築した風属性の循環回路のおかげです!」
「いや、お前の設計した省エネ理論があってこそだ」
私たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
甘い雰囲気など微塵もない。あるのは成功を確信したビジネスパートナーとしての強固な信頼関係のみ。
これだ。私が求めていたのは、この生産的で建設的な関係なのだ。
高揚感のままに、私は次の事業計画について熱弁を振るおうとした。
だがその時、シリルが唐突に私の手を取った。
「……シリル様?」
「リーゼロッテ、事業の話もいいが、そろそろこちらの『クエスト』も進めたいんだが」
彼の真剣な眼差しに、私は首を傾げる。
「クエストですか? まだ何か未処理のタスクが?」
「あるだろう。俺とお前のプライベートな関係についてのタスクが」
シリルは私の手を引き寄せ、その甲に口付けを落とした。
氷の魔術師とは思えない、熱を帯びた唇の感触。
私の思考回路が一瞬でフリーズする。
「なっ……!?」
「お前は効率を愛する女だ。だから単刀直入に言う。俺は、お前という存在そのものに興味がある。研究パートナーとしてだけでなく、人生のパートナーとしてな。この意味が分かるか?」
――人生のパートナー。
その言葉の意味を解析するのに、私の脳内CPUは数秒の遅延を起こした。
これは、つまり……隠しルート突入の合図?
「で、でも! 恋愛イベントは非効率的で感情の起伏によるパフォーマンス低下が懸念されます……!」
「ああ、非効率だな。だが、俺はお前となら、その『無駄』すらも愛おしいと思える。お前が兄上に言ったセリフ……『愛することはない』? ああ、あれはチュートリアルだな。だが、ここから先は本編だ」
彼は私の腰に手を回し、逃げ場を塞ぐ。
「愛を育む『過程』こそが、一番の娯楽だろう?」
「そ、それは時間の浪費で……!」
「ああ、最高の浪費だ。……だから、たっぷり時間をかけて教えてやる。お前が『もう許して』と泣くまで、とことん愛してやるから……安心しろ」
耳元で囁かれた低音ボイスに、私の顔が一気に沸騰する。
心拍数上昇、体温調節機能にエラー発生、思考能力低下。どんな難解な術式でも即座に解読してきた私が、たった一人の男の前で何も考えられなくなっている。
(くっ、この隠しキャラ……攻略難易度が高すぎる……!)
私は真っ赤な顔で、しかし嫌ではないその感覚に戸惑いながら、小さく頷いた。
「……善処します」
それが効率厨の私が絞り出せる精一杯のデレだった。
こうして、私の『婚約破棄RTA』は幕を閉じた。
古巣の王国は崩壊寸前、元婚約者は後悔の日々。
そして私は最高の研究環境と、少々厄介だが、最高に優秀なパートナーを手に入れた。
これぞ、まさにトゥルーエンド。
さて、これからの人生は、スキップせずにじっくり楽しむとしますか。
お読みいただきありがとうございました!
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