さようなら。
『今日、一緒に帰ろう』
このメッセージこそ、カフェでの話し合いの結論だった。
タイミングは?
――別れ際ぐらいがちょうどいいだろう。
別れ際ってことは場所は……
――必然的に駅のホーム。
どう伝えるの?
――シンプルにバッサリ行ったほうがいい。
具体的には?
――俺の彼女に手を出すな、って高圧的な感じ?
――諦めさせるにはそれぐらい切り裂かないと。
それで、別れたあとは?
――どうすることもない。
諦めてくれなかったらどうしよう。
――その時は、岸ちゃんには悪いけど警察沙汰にする。
口の中からコーヒーの匂いがなくなるまで、俺らは詰めあった。
綿密とも言えない粗鬆気味な話し合いの結果、俺は東尾とともに帰らなければならないことになった。
実際そうしたのは俺なのだが、一回我に返ってみると、あの怪物じみたものと一緒に帰らなければならないということに戦慄する。
結局、あの怪物が何だったかは分からない。
確認のために少し東館の四階まで行けば済むことだが、いつまで経っても東館が負のオーラに包まれているのを見ると、まだ東尾はあの中にいるらしかった。
LINEも暫く既読にならないし、未だに東尾の身体をまとった何かは存在する。
どうしてあの怪物にわざわざ会いに行くだろうか。
「じゃあ、よろしくね」
威勢よく返事をしたいところだったが、今日東尾と同じ道を歩いて帰ることに、想像が及ばなかった。
とりあえず分かったとだけ返事をして、あとは運命に任せるしかない。
東尾からの返事が来たのは、意外にも早かった。
分かった、と四文字だけ。
その四文字が返ってきたことに安堵する一方で、怪物の気が抜け切らない東尾と帰ることが決まってしまっておののいている自分もいる。
まずは全講義が終わったら会うことだけ約束を交わし、差し当たりは緊張をほぐすために時間を使おうと思う。
吐胸に手を当てて心拍数を知ろうと試みたが、心拍数が多すぎて、やかましい心音に妨げられて特に成果は得られなかった。
ただなんとなく、散弾を胸部に食らったような痛みが走っていることだけは分かる。
舘別に来て初めて、講義の内容が分からなかった。
「遅かったな」
東尾は、全講義を終えてもなかなか来なかった。
約束をすっぽかしたのではというよりも、まだ怪物のままなのではないかという心配のほうが勝っていたが、心配は杞憂で消えてくれた。
怪物だったときの殺気立った顔はないし、クマもなくなっている。
歯を見せて頬の肉を寄せて笑う元通りのガシオの中に、あのときの怪物の姿は一つも見えなかった。
「ちょっとね」
ちょっと何だったのかは分からないが、ちょっと何かあったんだろう。
ガシオに友達は多くないが、少しぐらいは友達がいてもいいはずだ。
何か話してきたり飲んだり食べたりしてからこっちに来たんだろう。
今日のガシオはなんだかふらつくことが多い。
その巨体で俺にぶつかろうものなら、俺は骨盤からポッキリと折れてしまう。
ぜひともやめていただきたいものだが、何がガシオの機嫌を損ねるか分からない以上、無駄なことは言えない。
岸ちゃんのことも話せないし、俺の話を聞かされてもつまらないだろう。
一緒に帰ろうと提案した身が、何も喋ることのない帰路を放置しているのは何かの罪に該当しそうだが、そもそもこの調子では、岸ちゃんの彼氏面をすることもできそうにない。
話そうか、いやでもどうしようかと葛藤しているうちに、もう駅まで幾寸の距離になってしまった。
決心。
「明日のタコパも楽しみやな」
明日は木曜日。
岸ちゃんが遅れてやってくるタコパである以上、ガシオは何かしら岸ちゃんについて言及するに違いない。
岸ちゃんが遅くて寂しいだの、岸ちゃんのバイト先に行ってから来るだの、岸ちゃんを出待ちするだの、何でも言ってくれて構わない。
先に改札を開けたガシオはこちらに向き直って、もちろん、と笑顔を作ってみせた。
爽やかで、純粋で、とにかく最高の笑顔をしてくれと頼まれてようやく作り出されるような、日常生活ではまずお目にかかることないぐらいの笑顔だった。
笑顔であることに越したことはないし、怪物が戻ってこなくてなによりだが、意外だった。
岸ちゃんが遅れてやってくるということを案じて何か岸ちゃんに言及するかと思っていたが、何も言及してはくれなかった。
ついに駅のホームに立って電車を待つ段階まで来てしまった。
ガシオは、広い駅ホームの端っこに俺を誘導して、電車の来る方向を眺めている。
ここまで来てしまうと、もう何もあがけない。
ガシオから岸ちゃんという名前を引き出そうといろいろあがいてみたが、タコパの話にしろ講義の話にしろ、ガシオが返してきたのは、うん、かそうだね、ぐらいのものだった。
ガシオから岸ちゃんの名前を引き出せない限り、不自然だが、俺から彼氏宣言をしなくてはならない。
電車の足音が遠くから聞こえ始めた。
決意。
「あんな、俺……岸ちゃんと付き合ってんねん」
せやから近づかんといてや、とまでは言えなかった。
岸ちゃんの彼氏であることを告げるだけで、俺は精一杯だったし、それ以上に何をする気力も体力もなくなってしまった。
肝心のガシオはというと、何も言わない。
何も言わずに、電車を見つめている。
何か言えよ、とは言えなかった。
頷くことも、暴れることもなく、ただ電車を見ている。
こちらに手を伸ばした。
そのまま押した。
俺を押し出した。
電車が駆けてくる線路の上に。
自分が死ぬときの想像は、何回かしたことがある。
病床に伏し、家族に看取られながら死ぬ。
好きな人を庇って、トラックに轢かれて死ぬ。
夜道で誰かに襲われて死ぬ。
地震に巻き込まれて死ぬ。
台風で空の奥まで飛ばされて死ぬ。
骨がもろくなった頃にお風呂で溺れて死ぬ。
人生で嫌なことがあって、自殺する。
テロに巻き込まれて、死ぬ。
この想像の中なら、どれに近いだろうか。
いや、確かに、まだ死ぬことが確定したわけではない。
電車に轢かれたとて、絶対に死ぬとは言い切れない。
もしかしたら、ふっ飛ばされて生還するかもしれない。
運転手が急ブレーキで生かしてくれるかもしれない。
線路と電車の間に落ちて、死なないかもしれない。
もしかしたらこれは夢で、何事もないのかもしれない。
実はこれはVRで、東尾の嫌がらせかもしれない。
死ぬことは確定していないが、電車は迫ってきている。
一秒より短い時間単位で、徐々に来ている。
心臓はそれよりも速く、強く俺を刺している。
見慣れた電車のライト。
初めてこんなに間近で見たかもしれない。
それもこんなに正面で。
電車を正面から見ると、意外と汚い。
土が跳ねたのか、鉄が淀んでいる。
経年劣化なのか、色が掠れている。
鉄の味を感じる距離でようやく見えるものだ。
今から俺も、この汚れに加わるのかもしれない。
死なないにしても、血痕ぐらいはつくだろう。
もしかしたら皮膚がつくかもしれない。
何がつくかは分からないが、何かはつくだろう。
いよいよ右頬が凹んでいる気がする。
痛みはまだ感じないが、押されている感覚はある。
ついに電車とぶつかり始めたのだろう。
駅に進入するといっても、速度はある。
ホームの端なら、なおさらだ。
時速何キロメートルなのか、痛みが出始めた。
痛みが出現すると同時に、死にそうになる。
頭も痛い。
考えられない。
肩も痛くなった。
足は切れている気がする。
痛い。
痛い。
死にたくない。
死ぬ。
痛い。
嫌だ。
死ぬ。
死ぬ。
痛い。
生きたい。
生きたい。
痛い。
痛い。
死ぬ。
死ぬ。
痛い。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ