怪物
統計学の九十分。
岸ちゃんに見入るガシオが見られたぐらいで、他に収穫はなかった。
舘別が酷いバカ大学なのは知っていたが、教科書を撫でているだけで講義を無下にできるほどだとは思っていなかった。
親友が進学するからといって舘別を選んだ二年前の自分をぶん殴ってやりたい。
子供ができたら、くれぐれもこんな軽率な人生を過ごすんじゃないぞと教えてやらねばならない。
偏差値だとか大学の質だとか、それごときで人生がどうこうなると信じているわけではないが、幾らなんでも自分の実力に見合った高校大学に入ることは重要だ。
せめて文学部に進学すればよかったと思うが、流石に舘別文学部を手の届く存在にできるほど、俺は努力もできなければ土台が賢いわけでもなかった。
│東帝四大の学生達が羨むレベルの頭脳派集団に敵うわけがない。
百点満点の小論文で、採点者が思わず三百点を付けかねないレベルの文章を、筆を手にするだけでそこに生み出せてしまう文学者集団に比肩できると思うか。
なぜそんな凄まじい学部が舘別にあるのかというところは、誰しも疑問だろうが、俺にだって分からない。
目の前にいるのは大体嘲笑されるタイプの舘別学生だが、より手前にいるのは留年しかねない舘別学生、東尾君。
同じ│舘別学生とはいえ、人並み以上には勉強ができる人間から少し知恵という名のノートをを分けてあげようと思う。
「おい、ちゃんと講義聞いとったんかガシオ」
なんだイケメン、じゃないんだよ。
関西育ちの不要なツッコミ癖が出てしまったが、とりあえずガシオにノートを見せてやろうという企画は破綻した。
こういう会話の節々からバカが垣間見えるやつを観察するのは好きだが、流石に心配になるからやめてほしい。
どんなバカでも留年しない、と言われ続けてきた舘別だが、このバカは留年してもおかしくない空気をまとっている。
留年されると本当に人間なのか怪しくなるというのもあるが、それ以上に、留年されると俺の表面上の優しさすら失われてしまうからやめてくれ。
舘別で留年するやつに対して、今まで通り接することが叶うはずないだろう。
「お前、万が一にも留年しないだろうな」
鼻歌なのか唸りなのか、どっちつかずな音を出して俺のことを無視するんじゃない。
わざわざお前の留年を案じてやっているというのだが、当の本人は随分幸せそうだ。
それだけ岸ちゃんの珍しいポニーテール姿を拝めたのが嬉しかったか。
俺にとって岸ちゃんのポニーテールは珍しいものでもなんでもないのだが、そんなことを漏らそうものならガシオに殺されかねない。
もしかしたらカメラロールから岸ちゃんの写真をごっそり抜き取るまで拷問されるかもしれない。
どんな変態だと思われていたらそんな理由で拷問を受ける羽目になるんだろうか。
「……くれぐれも三限には遅れるなよ」
頭でも│打ってやろうかと思ったが、そんなことをすると留年以上に目も当てられない物体になってしまう。
三限があるのかないのかは知らないが、この太さだ、10分前行動ぐらいは心掛けないと、すべての約束に遅れかねないだろう。
「山下くん、ちょっと相談があるんだけど」
岸ちゃんは未だに俺のことを苗字+くんで呼ぶ。
何年来の親友だと思っているのか、と憤慨するようでは親友は務まらない。
岸ちゃんの文化には男性のことを呼び捨てで呼んだり下の名前で馴れ馴れしく呼ぶという習慣がないのだ。
馴れ馴れしいを超越した関係であっても、馴れ馴れしい言葉遣いはできないのである。
どうしたのか、と問うまでもなく、その相談の内容は大抵分かる。
どうせガシオのことだろう。
ここ一ヶ月だか二ヶ月だか、岸ちゃんはずっとガシオに付き纏われていることをうるっちゃんに相談し続けているらしい。
うるっちゃんから、やまこうに振っといたからぜひ相談に乗ってあげてほしいと頼まれたばかりに、ガシオの目を最大限に避けて密会をする必要がある。
とりあえず学内カフェに行こう、と提案しておいた。
コーヒーの似合わないガシオには、学内カフェとは中々に大層なお洒落であることだろう。
「そういえば、新しいサンドイッチ出たんだっけ」
これから相談があるという割には、楽しげにカフェの新メニューの話に興じたい様子だ。
とりあえず話を合わせて笑っておくが、俺はさほど新メニューというサンドイッチに興味はない。
女子全員がこうなのか、それとも岸ちゃんが珍しいのか、はたまた俺がおかしいのか。
興味のないことに併走するのは至難の業だが、迷ったときにはとりあえず相槌を打っておけ、という親父の唯一の教えが久しぶりに役立った。
後ろからズドズドと足音を響き鳴らして、なにか怪物が迫り来る。
腕を振り回して、ついでに不運も振り散らして、周りの怪訝な視線も振り払って、愛に飢えた怪物は来る。
果たして生きているのか、猛虎ですら噛み付くことができるのか、実体はそこにあるのか、質量があるのか、人間なのか、人間だとして知能があるのか、理性を持つのか、五体満足なのか、野生に負けて四肢無惨となっているのか、ここは本当に地球上なのだろうか、もしくはなにか物理法則や常識の通用しない異世界的などこかなのではなかろうか。
もちろん俺は狂気じゃない。
ちゃんと常識的な人間だ。
それでもなぜか、
幻覚のようなものが見える。
そこにいる。
状況からして、
東尾に他ならないのに、
なぜか、
身体が人間ではない。
そして、
顔も、
その表情も、
東尾でないどころか、
この世に存在するものには、
到底思えない。
俺らはひた走って逃げ惑った末、カフェに足を踏み入れた。
岸ちゃんも、同じく地面を蹴り飛ばしてきた学生も、誰も、何も口にしない。
カフェに似合わない息切れの音しか聞こえない。
あの東尾のようなものが何だったのか、なぜあの怪物は追いかけて来ないのか、俺には分からない。
もし仮に東尾だったとして、それは俺らがガシオと呼ぶ彼と同じ東尾なのかは分からない。
というか、そんなはずはないと思う。
なぜか目的地だったカフェに着いたというのに、岸ちゃんも俺も、相談をしようという呼吸ではなかったが、こういうときに約束を破れない性格は邪魔になる。
「……相談だったよな」
ほとんど息継ぎの音に紛れて、岸ちゃんには何も聞こえなかったと思う。
それでも、ありがとうと、こちらも息継ぎだけで応答する。
お互いの肩が落ち着いた頃に、カフェの音楽が切り替わった。
とりあえず聞いてほしいんだけどね、東尾くんにつけられてる気がしてるの。
気のせいだってことは分かってるんだけど、正直東尾くんのことはちょっと苦手だから、山下くんにも手伝ってほしいってわがままになっちゃうんだけど。
その、東尾くんに、私のことを諦めさせてほしいの。
岸ちゃんは意外にも淡白に答えた。
しかし、返す言葉は見つからなかった。
もちろん、とも答えられないし、無理だ、とも答えられない。
東尾の、あの犯罪的恋心をなだめる方法なんて思いつかないし、かといって岸ちゃんの渾身一杯の頼みを断るというのも│憚られる。
ここは一つ、岸ちゃんの誠実さを試す場にしたいと思う。
「岸ちゃんは俺にどうしてほしいんや」
岸ちゃんの誠実さを試す場としたくせに、これでは俺自身が誠実でなくて示しがつかないようだが、俺にその手法が思いつかない限り、岸ちゃんかうるっちゃんの方からそれを提案してもらうしかなかった。
岸ちゃんは寸秒も置かずに、俺に岸ちゃんの恋人たる振る舞いをしてほしいと頼んできた。
頼んだのは恐らくうるっちゃんであって、岸ちゃんはその媒介者でしかないのだろうが、中々厳しいお願いをしてくる。
もう既に恋人のいる岸ちゃんに恋い焦がれる東尾の盲目を食い止めるために、俺が恋人と騙るという寸法。
荒治療この上ないが、東尾が何か犯罪を犯した後には、この手法も正解だったと認めざるを得ないことになるだろうか。
早いところ警察に届ける方が幾倍も好都合のように感じられたが、ガベルで東尾を叩き潰すのは、岸ちゃんのプライド的なお人好しが許さなかった様子だ。
コーヒーカップが乾いた頃から、タイミングをどうするか、文言は、場所は、その後はと、思い当たる懸念を、思いに壁がある限り面会させ続ける。
これで東尾くんの悪夢から解放される、と少しひきつった笑顔で応えてみせた岸ちゃんは、どこか物憂げな目をしてサンドイッチを頼んだ。