山下春来
どうして舘別の坂はこんなに急なんだ。
かつきょーが手を出して助けてくれるみたいだけど、今にでも吐きそうだ。
「ガシオお前、もうちょっと痩せたらどうだよ」
なんだよかつきょー、太ってるのが悪いって言うのか。
そう言いたかったけど、声を出したら本当に吐いてしまいそうで口にすることはできなかった。
もちろん俺だって、太ったままじゃあ、岸ちゃんに手が届くとは思っていない。
そこまで自惚れていると思うか。
でも、岸ちゃんに手が届かないもぞもぞとした感じがストレスで、もともと嫌いな運動をしようなんてさらさら思えないんだ。
「飲みもん持ってねーのかよ」
舘別の坂を登り切って、膝に手をついてぜぇぜぇ息を切らしている俺に、かつきょーはスポーツドリンクを買ってきてくれた。
あとで金は返せよ、と言ってキャップを開けて渡してくれる。
たった百メートル先の自販機にすら自分の足で行くことのできない俺にも、今日のかつきょーはやけに優しかった。
いつも優しいかつきょーだけど、なぜか今日のかつきょーは異常って言っても違和感がないぐらい優しかった。
なにかいいことがあったんだろう。
「登山は終わったけど、ここがスタートだからな」
いつものかつきょーなら肩に手を回してくれるところだけど、今日は俺が汗でベトべトせいだろうか、ちょっと距離を取っている。
まあ、汗ダラダラの男に近づきたくないのは俺も同じだ。
早いとこスポーツドリンクを飲み切って、冷房そこそこの講義室に行かなければいけない。
今日の二限は岸ちゃんと同じ統計学。
一限の今のうちに、汗よ引けと願うしかない。
別に、汗まみれでみっともない俺を誰に見られようと知ったことではないけど、岸ちゃんは例外だ。
誰だって、好きな人の前ではかっこよくとまではいかなくても、順当な姿を見せたいと願うもの。
太っていようが痩せていようが、ちょっとかっこよく映る瞬間ぐらいあるはずだ。
岸ちゃんと同じ空間にいることができる二限、できる限り最高に近いコンディションで迎えたい。
「じゃ、お前も一限遅れないように行けよ」
おう、と返事をしてかつきょーを見送る。
かつきょーの一限は正直なところ覚えていないけれど、口ぶりからして俺と同じ講義ではなさそうだ。
8時50分と腕時計に教えられて、そろそろまずいとスポーツドリンクを飲み干した。
俺の一限は現代経済学。
東館の二階、第四講義室で講義が開かれる。
歩いて五分ぼちぼち、ってところか。
9時には講義室にいないと遅刻判定になってしまうから、早いところ動き始めよう。
*
「東尾くん、遅刻ですね」
間に合わなかった。
自分の体力のなさを舐め腐っていたみたいだ。
性根が腐ってしまっている現代経済の教授に五十数人の学生の前で晒し上げられる。
位置的にはみんなの後ろにいるのだけれど、みんながみんなこっちを向けば、それは俺が前にいるようなもんだ。
別に汗をかいている汚い俺を岸ちゃん以外の誰に見られたってどうでもいいけど、こうやって遅刻みたいなあからさまな悪行を、首を絞められるみたいに扱われるのは、どんな誰でも好き好む状況じゃない。
授業は相変わらずつまらなかった。
二限は80分後だし、この一時間半をどうやって過ごそうか考えているだけでは、そんなに時間は流れなかった。
岸ちゃんと一緒になる二限の統計学は、東館の四階にある第八講義室で行われる。
残暑が残りすぎているこのキャンパスを、東館から西館まで歩くことにならなくて本当によかったと思う。
逆に岸ちゃんはこちらまで歩いてこないといけないわけだけど、岸ちゃんの汗をかいた姿を見れると思うと、岸ちゃんはかわいそうだけれども、結構嬉しかった。
岸ちゃんが汗っかきでもそうじゃなくても、岸ちゃんが汗を垂らしているということ、岸ちゃんが首筋の汗を嫌そうに拭っているということが、もう素晴らしい。
その光景を目に焼き付けずに今日を終わろうなんて、どうにも考えられない。
現経の講義の方は、順調に進んでいるらしかった。
遅刻してきた俺に、罰として問題を答えさせるというのも有り得そうだと思っていたけど、意外にそんなことはなかった。
ここの教授は大概プライドが高い。
エリート街道を歩いてきた自分への自信なのか、教授とはそういうものだと凝り固まった考え方しかできないのか、自分のようなエリートがなぜ俺らのような馬鹿たちを教えているんだと怒っているせいなのかはわからないが、なんだか気が大きい。
そんな教授だから、そもそも遅刻をしてきたやつに構おうとすら思わないのかもしれない。
普通だったら腹が立つところだけれど、今日ぐらいはそれでいてくれてありがとうと言いたいところだ。
おかげさまでいろんなことを考えて、つまらない授業を聞かずに済んでいる。
「本日の講義はここまでです」
舘別大学にはチャイムがない。
試験のときにはさすがにチャイムがあるけど、普通の講義の日には、基本的にチャイムが鳴らない。
チャイムが鳴らないのが普通なのかもしれないけれど、噂で聞くにはチャイムが鳴る大学もあるみたいだし、チャイムの代わりに校歌やサイレンが鳴る大学もあるらしい。
舘別の講義は、九十分を基本として、あとは教授の気まぐれで短くなったり長くなったりする。
ただ、長くなることはほとんどない。
十分休憩に講義が食い込むと、教授が大学のお偉いさんからお叱りを受けるんだ、という話も聞いたことがあるけど、なんとなくそれは間違いだと思う。
ただ単純に、俺らに給与の出ない時間を使いたくないとか、どうせそういう理由だ。
さっきも言った通りここの教授たちは大体お高くとまっているのだから、給与も出ないのに、わざわざ俺らみたいな馬鹿に構う暇なんてない、と思っているんだろう。
それよりも、岸ちゃんが来る。
別に自分の家に来るわけじゃないから、そんなに準備するものもこともない。
それでもトイレに駆け込んで、できる限りかっこよく映る自分の髪型を模索する。
『ガシオお前、もうちょっと痩せたらどうだよ』
わかっている。
こんな物理的に太っ腹な男に、岸ちゃんが振り向くはずがないことぐらい。
こんな男がどんなにセンターパートやらマッシュやら決め込もうとも、髪型がぐっしゃぐしゃのやまこうの方がイケメンなのはわかっている。
それでも、勝ち目がなくても、無駄だと知っていても、恋をするということはそういうことだ。
できる限り髪型をイケてそうに整えて、とにかく顔にばしゃばしゃ水を当てて清潔にして、講義まで五分。
さすがに、さっきほど疲れてはいないから、五分もあれば二階分は登ることができるだろう。
*
「それじゃあ、講義を始めますね」
今度はさすがに間に合った。
というよりも、間に合わなかったらいくらなんでも自分の体力のなさが怖くなる。
もちろん、岸ちゃんは汗をかいていた。
もう残暑見舞いすら時期遅れなのに、暑さはまだまだ残ってやがる。
そのせいで俺らは汗をかくわけだけど、岸ちゃんの汗が見られるならなんだっていい。
舘別に限らず、大体の大学の講義の席は自由だ。
だから、俺が岸ちゃんの前に行こうと後ろに行こうと誰にも文句は言われない。
俺は岸ちゃんの二列後ろの席を陣取った。
岸ちゃんの後ろにいるということは、岸ちゃんが暑がって首元を覆わないように結んだポニーテールに、汗が少し滲んでいるのも見えるということ。
俺の目のよさを舐めてもらっちゃ困る。
講義なんてどうでもよかった。
どうせ先輩とかから過去問さえもらっておけば、試験なんて話題にするほどでもない。
それまでにFランな舘別だけど、Fランだからこそ、自由な恋愛ができるというもんだ。
それにしても岸ちゃんの美しさと言ったらこれ以上ない。
いや、語彙力が足らずに美しいとか安直に言ってしまったけれど、岸ちゃんの存在は美しいとかそういう次元じゃない。
*
岸ちゃんのうなじはきれいに整えられている。肩から垂れ落ちるぐらいの長さの髪を、いつも使っているものよりもすこし明るい色のゴムで結ってポニーテールにしている。前に座っているわけじゃないから、岸ちゃんがどんな前髪をしているかはわからないけれど、なんとなく真ん中で分けて左右に垂らした前髪になっているような気がする。岸ちゃんは暑い日、八割ぐらいの確率で前髪を作らない。直接理由を聞いたことはないけれど、男の俺でも前髪を作ると蒸れて暑いから、多分そういう理由なんだと勝手に思っている。ポニーテールにした岸ちゃんの後ろ髪は、肩を少し越すぐらいになっている。サラサラつやつやの髪を垂らして、時々ノートを取るために下を向く。舘別の学生にしては真面目な方で、岸ちゃんは講義中にちゃんとノートを取る。パソコンにしないのは、どうやら手書きの方が自分に馴染むかららしい。手書きの方が馴染む、っていうのはよくわからなかったけど、岸ちゃんがそうしたいなら誰にも文句は言わせない。俺は他の男みたいに、岸ちゃんの意思を最大限尊重できないやつじゃない。岸ちゃんが欲しいって言ったのならどこにだって行くし、何円払ったって手に入れる。岸ちゃんが嫌だと言ったのなら、それはもう全力で避ける。俺は自分を紳士的だと思っているわけじゃないけど、岸ちゃんのためならいくらだって紳士の皮を被る。今朝は岸ちゃんもあんまり話したくなかったんだと思うから、無理に話しかけようとはしていない。無理に話しかけて、岸ちゃんが嫌がるのも嫌だし、何よりも嫌われてしまったらもうどうしようもない。俺は岸ちゃんに会えなくなったり、嫌われたりしたら、もう生きようと思えない。だからこそ、俺は岸ちゃんを守ってあげたいし、岸ちゃんを大切にしていきたい。ちょっとおしゃれな白いシャツに細い肩を入れて、真剣に講義を聞いている岸ちゃんには、俺のそばにいてほしい。俺のそばにいてほしいという俺の需要と、岸ちゃんの私を満たしてほしいという需要は、絶対にお互い満ちるように運命づけられているんだ。俺が岸ちゃんを満たすし、岸ちゃんも、そこにいてくれるだけで俺を満たす。これ以上完璧で、他の者の侵入を許してはならない聖域があるのだろうか。恋愛というものは絶えず動くものだけど、俺のこの恋は、岸ちゃんという存在がある限りは絶対に揺るがないし、恋愛の先にあるところにまで影響する。家で迎えたいとか、送り出したいとか、岸ちゃんのお弁当が食べたいとか、そんな煩悩にまみれた恋じゃない。俺は、心の底から、誰よりも、何よりも、岸ちゃんを愛しているんだ。岸ちゃんは、俺の命だ。
*
「はい、講義は終わりです」
はっと我に返る。
現経の八十分とは違って、あっという間の九十分だった。
あっという間と言っても、講義が面白かったわけじゃない。
岸ちゃんを眺めていただけで、講義の内容が面白かったのかつまらなかったのかは全くわからない。
それでも、岸ちゃんのめずらしいうなじを見ることができただけでも、今日を生きている価値があったと言えそうだ。
一方の岸ちゃんは、終わったねぇ、と友達と伸びをしあって笑っている。
笑顔も、伸びも、とにかく好きだ。
何が好きとは言えないけど、何もかもが好きだ。
「おい、ちゃんと講義聞いとったんかガシオ」
なんだ、イケメン。
イケメンと聞いたやまこうはいつも通り、誰がイケメンや、と軽くツッコんできた。
こんなにもイケメンだったら、岸ちゃんをオトすのも簡単なんだろうか。
岸ちゃんが美しいというのは誰からしても当然のことだろうから、そりゃあ男に敏感にもなってしまう。
やまこうは何か言っている様子だったけど、特に聞く気になれなかった。
やまこうは俺の席を離れていく。
そのまま、岸ちゃんと話を始めた。
岸ちゃんに気安く話しかけるんじゃない。
そう言いたかったけれど、岸ちゃんにも過保護すぎるのはよくないかな、と思って口にしなかった。
でも、やまこうだけが岸ちゃんと話している状態は、ほとんど彼氏のような存在として許しちゃいけない。
なにも、やまこうに恨みがあるわけじゃないけど、やまこうからは彼女を奪い取るようなオーラが見えるんだ。
岸ちゃんは確かに彼女じゃないけど、もはや彼女みたいな存在なのだから、やまこうみたいな煩悩恋愛に│汚されちゃいけない。
岸ちゃんによく映るように、ちょっと目を見開いて、│あご《・・》を引いて、少し低めの声で、何を話してるの、と聞いてみた。
ちゃんと声は良かっただろうか、少しぐらいはキリッと映ってくれただろうか、よくわからないけど、今はとりあえず二人を見ることしかできない。
岸ちゃんの返答はというと。
声にすら出ない枯れそうな悲鳴を上げて、走っていく。
やまこうはどうだ。
俺を見てすぐに、顔を引きつらせて走っていく。
周りの学生も、なにかから逃げるように走っていく。
その全員が、俺の後ろを見ている。
俺の後ろに何がある?
振り返ってみたけど、何もなかった。
針のような日差しがあるだけだった。
日差しから逃げていたのか?
まさか、吸血鬼でもないしそんなはずはない。
それよりも、岸ちゃんとやまこうは?
もう階段にもいない。
全員どこかへ行ってしまって、階段の下からやまびこが返ってきてもおかしくないぐらい静か。
あの二人は、二人だけでどこかに?
いや、二人だけにしたのは山下だ。
岸ちゃんが、俺という存在を置いていくわけがない。
やまこうなんてあだ名呼びはやめだ。
かつきょーが仲良くさせてくれたけど、もう終わりだ。
│山下春来、いつかのテレビで報道される名前になると思う。
別に、よからぬことを考えているわけじゃない。
ただちょっと、芝生の中の石ころが邪魔なだけだ。