秀才と馬鹿
「お邪魔します」
岸ちゃんが言う通り、漆畑は真面目なやつだった。
お邪魔します、の一つも言えないような俺らがおかしいのだろうが、玄関でしゃがみ込んで靴を揃える背姿は、確かな礼儀正しさを湛えていた。
「汚いんだけど、そこは許してね」
漆畑の礼儀に応えたのはガシオだった。
いや、家の主でもないお前が事言う権利はないだろう。
しかし、この家が汚いのは事実だ。
ご丁寧なメンバーも増えたことだし、今週中には目に付くところだけでもなんとなく綺麗にしておこうか。
「うるっちゃん、こっち座りなよ」
友達の間でそう呼ばれているのか、単に岸ちゃんがそう呼んでいるだけなのかはわからないが、俺らも岸ちゃんに倣ってうるっちゃんと呼ぶことにしよう。
岸ちゃんはガシオから遠く、しかしガシオと顔を向かい合わせなくていい位置に座った。
そろそろ、ガシオの好意という名の変態じみた行動に鳥肌するようになっただろうか。
うるっちゃんもガシオの話を岸ちゃんから聞いているのか、心なしかガシオを見る目が冷たいように感じる。
*
「乾杯!」
なんやかんや言って、乾杯の音頭を取るのは結局ガシオであった。
女性二人にはなんだか避けられているように見えるガシオだが、人類の進化の過程に置いていかれたとしか思えない持ち前の鈍感さで、ただ純粋に岸ちゃんに恋することが叶っている様子だ。
ちょっと、というかだいぶ気持ち悪い恋の仕方はとりあえず見なければ、一途に恋をする可愛らしいやつではあるのだけれども。
各々ガシオの掛け声に合わせて缶チューハイを掲げ、中空でお互いの缶を合わせる。
うるっちゃんはまだ控えめな缶の高さだったが、そのうち慣れていくだろう。
岸ちゃんだって最初の頃は警戒心モリモリで乾杯に参加していたのにも関わらず、今ではこうして、ガシオのことは不気味に思っていそうだが、心を開いて話に興じてくれている。
うるっちゃんに言わせれば、胸襟を開いていると言うだろうか。
「とりあえず、自己紹介からせんとな」
こういうときに音頭をとるのは、俺の仕事だと思っている。
話題がないとき、乾杯を済ませてなぜか無言になってしまったとき、俺は沈黙のタコパにしないためにどうにかして話題を引きずり出してくる。
「じゃあ、最後にうるっちゃん」
ガシオ、岸ちゃん、やまこう、俺と続いた自己紹介円卓だったが、俺らはうるっちゃん以外の情報に今更耳を傾ける必要もなかった。
「文学部日本文学科でーす」
賢い、との触れ込みだったが、あんまりこちら側に知性を感じさせるような話っぷりではなかった。
落胆した、というのはいくらなんでもうるっちゃんに失礼だと思うし、俺はこういう賢さを歓迎する。
どれだけ賢くても、俺らみたいなバカどもに合わせてくれて、気軽な空気感を作り出してくれるうるっちゃんは、今のタコパ、今の俺に一番必要だった人間かもしれない。
「日本文学科って賢いやんな?」
うるっちゃんの自己紹介に話題を見つけたのはやまこうだった。
俺らの大学は基本的に頭が悪い。
仮にも教育の最高水準に位置づけられる大学にそんなことがあっていいのかはわからないが、俺らの大学の入試は冗談抜きで、賢い中学生ぐらいだったら楽々と解けそうな問題しか出してこない。
よく言うFランというやつだが、うるっちゃんの所属する文学部は全体的に賢い。
英文学科、米文学科、仏文学科、露文学科、中国文学科と充実した区分けの中でも、一際目立って賢いのが、うるっちゃんのいる日本文学科だ。
大学の総合偏差値より30だか40だか高い偏差値を誇り、日本文学界の権威である藤村教授を抱える日本文学科は、間違いなくうちの大学の顔である。
そんな賢いを凝縮したみたいな学生が、こんなバカの集まりに来ているということにはいささか信じられないものがあった。
「そうだよ!うるっちゃん賢いんだよ!」
珍しく岸ちゃんが嬉々として話に参加し始めた。
うるっちゃんを褒められたことがそんなに嬉しかったのか、自分が所属しているわけでもない日本文学科の自慢ポイントを何個も何個も並べて喋っている。
うるっちゃんが近くにいると、岸ちゃんには饒舌になるというバフがかけられるのかもしれない。
一方のうるっちゃんは、「そんなことないよ」と微笑に肩を震わせて岸ちゃんにぴったりくっついている。
くっついているのが常なのか、岸ちゃんも意に介する様子を見せず、肩に載っている学生を推し続けている。
ガシオはといえば、相変わらず岸ちゃんをなめ回すように視線を上下している。
はっきり言って気持ち悪いどころの騒ぎではない。
うるっちゃんには見向きもせず、首っ引きで岸ちゃんの存在に見入っている様子だった。
「そんな賢い子がなんでうちのタコパに?」
これが俺の本心だった。
酒も回り始め、本心もすんなり出てくるようになってくると、うっかり新メンバーを失いかねない失言をしてしまっても、しばらくは気づかずにのほほんとしていられる。
「岸ちゃんに誘われたからかなぁ」
うるっちゃんは不快感を示すこともなくさらりと答えてみせた。
岸ちゃんもうんうんと首を縦に振っているし、なんだかうるっちゃんは自主性よりその場の流れに合わせて過ごすような人なんだということが垣間見えた。
「友達少ないから、友達が増えるのも嬉しくて」
うるっちゃんは赤面して答えてみせた。
確かに大人しそうな子ではあるが、そんなに人を選り好みするタイプではなさそうだし、逆に選り好みされるタイプでもなさそうだ。
こんな魅力的な子に友達が少ないというのは、友達が多くて、反面脳細胞が少ない俺らが、なにか申し訳なくなるほどだった。
うるっちゃんは岸ちゃんと肩を震わせ合った。
*
「じゃ、今日はありがとう」
新メンバー、うるっちゃんを主に、イツメンにも感謝を伝えて解散ということにした。
おのおのありがとうだのまたねだのと掛け合い、声が渦を巻いてどこかに飛んでいく。
ガシオは相変わらず、岸ちゃんの影を盗み去ろうとしている。
かろうじて見える曲がり角で、左に曲がるガシオとやまこう、そして直進する岸ちゃんとうるっちゃんとふた手に分かれて帰っていく。
岸ちゃんの安全が確保されているのは、ガシオの駅と岸ちゃんの駅が反対方向にあるおかげだった。
遠い家からわざわざ俺のボロいアパートに来てくれているのは、みんなのご厚意ってやつだろうか。
いつものボロエレベーターよりも、今日のボロエレベーターのモーター音はありえないぐらい静かだった。
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