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アタノールの火、あるいは水銀の涙  作者: と゚わん


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第五章 アタノールの審判

地下牢での日々は、絶望から希望へと、そして静かなる闘志へとエリアスの心を変えていった。壁に刻まれた計画は、日増しに具体的になっていく。彼は、牢番の目を盗んでヨハンと短い言葉を交わし、必要な情報を得ていた。バルテルミーは、数日後に迫った聖燭祭(キャンドルマス)の祝祭で、辺境伯と民衆の前で「錬金術の奇跡」を披露する予定だという。場所は、城の中庭。これ以上ない、対決の舞台だった。


「問題は、どうやってここから出て、あの場に行くかだ…」


エリアスは呟いた。


「きっと、道は開けます」


カタリーナは静かに答えた。


彼女はエリアスの計画を聞き、自身の薬草や毒物に関する知識を提供していた。バルテルミーが使うかもしれない薬物や、その解毒法など、彼女の助言はエリアスの計画を補強するものだった。


エリアスは、ヨハンを通じてシュルツ隊長にも働きかけていた。バルテルミーへの疑念、持ち出された可能性のある硫酸の危険性、そして聖燭祭でのデモンストレーションに潜むかもしれない罠について、断片的に伝えたのだ。シュルツ隊長は、表向きはエリアスの言葉を無視していたが、その実直な性格から、一抹の不安を感じ始めていたようだった。バルテルミーの傲慢な態度や、彼の実験に関する不確かな噂は、隊長の耳にも届いていたのだ。


聖燭祭の前日、予想外の形で事態は動いた。牢の扉が開き、現れたのはシュルツ隊長だった。しかし、その表情は以前のような厳しさだけではなかった。


「辺境伯閣下がお呼びだ」


隊長は短く告げた。


「お前たち二人ともだ」


エリアスとカタリーナは顔を見合わせた。処刑の宣告か、それとも…。衛兵に連れられ、再び謁見の間へと向かう。辺境伯ゲルハルトは玉座に座り、その傍らには得意満面のバルテルミーが控えていた。


「エリアス・クライン」


辺境伯の声は冷ややかだった。


「明日の祝祭で、バルテルミー殿がその偉大なる術を披露される。その成功をもって、我が領地の輝かしい未来が始まるのだ。それに先立ち、お前にも最後の機会を与えようと思った」

「機会、と申されますと?」

「バルテルミー殿は寛大にも、お前の罪を許し、助手として傍に置いても良いと申されておる。お前がこれまでの非を認め、バルテルミー殿の指導を仰ぐならば、牢から出してやろう。どうだ?」


それは、屈辱的な提案だった。バルテルミーの足元で、彼の詐術の手伝いをしろというのか。エリアスは唇を噛んだ。隣のバルテルミーが、嘲るような笑みを浮かべている。


エリアスは辺境伯と、そしてバルテルミーを真っ直ぐに見据えた。


「…辺境伯閣下。私は罪を犯したのではありません。道を誤りかけましたが、真実から目を背けはしませんでした。バルテルミー殿の助手になるつもりはありません。しかし、明日の祝祭、この目で彼の『偉大なる術』を拝見し、そして、私がこの手で見出した『真実』を、皆様の前でお示しする機会を頂きたいのです」


その言葉は、牢獄で練り上げた決意に裏打ちされ、力強く響いた。辺境伯は眉をひそめ、バルテルミーは一瞬顔色を変えたが、すぐに余裕の笑みに戻った。


「ほう、まだそのような戯言を。よかろう、エリアス・クライン。明日の祝祭、お前の好きにさせてみよ。だが、もしバルテルミー殿の術の邪魔をし、あるいは再び我らを欺こうとするならば、その場で命はないものと思え」


辺境伯は言い放った。


「シュルツ、この者たちを解放せよ。ただし、明日の祝祭が終わるまで、城から一歩も出すな。監視をつけよ」


予期せぬ形での解放だった。エリアスとカタリーナは、城内の一室に軟禁されることになったが、それでも地下牢よりははるかにましだった。そして何より、明日の対決の場に立つ権利を得たのだ。


「よかった…」


カタリーナは安堵の息をついた。


「ああ。だが、時間は限られている」


エリアスは部屋を見回した。幸い、簡単な筆記用具と、暖炉、そして水差しなどが置かれていた。ヨハンが密かに手配してくれたのだろうか、部屋の隅には、小さな木箱が一つ置かれていた。中には、少量の硫黄、硝石、木炭の粉末、そしていくつかの薬草と、あの「コーボルト鉱石」の欠片が入っていた。反撃のための、最低限の武器だった。


「カタリーナ、手伝ってくれ。明日のために、準備をしなければ」


エリアスは木炭の粉を手に取り、壁に再び計画を書きつけ始めた。カタリーナも薬草を仕分けし、すり鉢で粉にし始める。限られた時間と材料で、彼らは最後の準備に取り掛かった。窓の外では、聖燭祭を翌日に控え、城下が祝祭の準備で活気づいているのが見えた。それは、嵐の前の静けさのようにも感じられた。エリアスとカタリーナは、互いの目を見て頷き合う。彼らの戦いは、まさにこれから始まろうとしていた。



聖燭祭の日は、冬の澄んだ空気に祝祭の熱気が混じり合う、不思議な高揚感と共に訪れた。シュタイン城の中庭には、辺境伯ゲルハルトをはじめ、着飾った貴族たち、そして領内の有力者や多くの民衆が集まっていた。皆の視線は、中庭の中央に特設された舞台、そしてその主役である宮廷錬金術師、テオフラストゥス・バルテルミーに注がれていた。


バルテルミーは、金糸銀糸で飾られた深紅のローブをまとい、自信に満ちた笑みを浮かべて舞台に立っていた。背後には、奇妙な形をしたガラス器具や、火の灯されたランプ、そして助手が持つ物々しい箱などが並べられている。彼は、両手を広げ、朗々とした声で語り始めた。


「皆々様! 本日は、長きに渡り我々錬金術師が追い求めてきた究極の秘宝、『賢者の石』の御業の一端を、この私が皆様にお目にかけましょう!」


観衆から、期待と興奮のどよめきが起こる。舞台の隅では、エリアスとカタリーナが、シュルツ隊長を含む数名の衛兵に監視されながら、その様子を静かに見守っていた。エリアスの手には、彼が昨夜のうちに準備した、いくつかの小さな包みと、水で満たされた革袋が握られていた。


「まずは、この卑しき鉛をご覧いただきたい!」


バルテルミーは、助手が差し出した灰色の鉛塊を高々と掲げた。


「だが、『賢者の石』より抽出されし霊液――エリクサーを注ぐ時、奇跡は起こるのであります!」


バルテルミーは、水晶製の小さな瓶を取り出し、中の赤みを帯びた液体を、芝居がかった仕草で鉛塊の上に数滴垂らした。そして、その鉛塊を、特殊な形状をした坩堝に入れ、助手に命じて強い火力で熱し始めた。坩堝からは、怪しげな色の煙が立ち昇る。


エリアスは目を凝らした。あの坩堝は二重底になっているのではないか? そして、あの『エリクサー』と称する液体は、おそらく硝酸か何かで、鉛の表面をわずかに溶かし、下地を処理しているだけだろう。本物の金は、おそらく坩堝の底か、あるいは助手が使う火掻き棒の先にでも仕込んであるに違いない。


やがて、バルテルミーは頃合いを見計らい、助手に命じて坩堝を冷水で冷やさせた。そして、厳かに坩堝から取り出されたのは……まばゆい黄金色の塊だった。


「おおっ!」


観衆から感嘆の声が上がる。辺境伯も満足げに頷いている。


「これぞ、錬金術の奇跡! 卑しき鉛が、完全なる黄金へと転じたのであります!」

バルテルミーは黄金(と見える塊)を掲げ、得意満面に叫んだ。


(やはり、すり替えか…)エリアスは確信した。


次にバルテルミーは、「万病を癒す」という触れ込みで、様々な色の液体を混ぜ合わせ、派手な発泡や色の変化を見せるデモンストレーションを始めた。しかし、その手つきはどこか危うく、知識に基づいたものというよりは、見世物の手品に近いものだった。


そして、彼は最後の切り札として、一つの大きなガラス容器を取り出した。中には、例の「緑の獅子の涙」に似た、油状の液体が入っているように見えた。


「そして、これぞ『アルカヘスト』! あらゆる物質を溶かし、その根源へと還す究極の溶媒! この力を制御することこそ、真の錬金術師の証!」


バルテルミーは、その液体を、別の容器に入った奇妙な黒い粉末(おそらく硫黄や硝石などを混ぜたものだろう)の上に注ぎ始めた。彼はおそらく、エリアスが硫酸を扱っていたことを逆手に取り、その危険な力を制御できることを見せつけようとしたのだろう。あるいは、エリアスから盗んだ硫酸そのものを使っていたのかもしれない。


しかし、彼の知識は、エリアスが苦難の末に得た実践的な知見には遠く及ばなかった。注がれた液体の量が多すぎたのか、あるいは粉末の混合比が悪かったのか。


「ドクンッ!」


鈍い音と共に、ガラス容器の中で激しい反応が始まった。黒い粉末が赤熱し、容器から強烈な刺激臭を伴う黄褐色のガスが噴き出し始めたのだ!


「なっ…!?」


バルテルミーの顔から余裕の笑みが消えた。ガスは瞬く間に周囲に広がり、観衆は悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。


「下がれ! 毒の煙だ!」


シュルツ隊長が叫び、衛兵たちが辺境伯を守ろうとする。


ガラス容器は異常な高温となり、ついに「パリン!」と音を立てて砕け散った! 中の反応物が周囲に飛び散り、近くにあった可燃物に引火し、炎が上がり始めた!


「火事だ!」

「逃げろ!」


中庭は、一瞬にしてパニックに陥った。バルテルミーは狼狽し、なすすべもなく立ち尽くしている。


「今だ、カタリーナ!」エリアスは叫んだ。


彼は、準備していた革袋の水を、燃え始めた飾り布にかけ、消火を試みる。カタリーナは、薬草を浸した布を取り出し、ガスを吸って咳き込んでいる人々に配り始めた。


エリアスは、さらに別の包みを取り出した。それは、石灰と砂を混ぜたものだった。彼は、床にこぼれてジュージューと音を立てている危険な液体(硫酸や硝酸が混じったものだろう)の上に、それを手早く撒いた。白い煙が上がり、酸が中和されていく。


「シュルツ隊長! バルテルミーが使っていた薬品の瓶を確保してください! あれが、彼が私から盗んだ証拠です!」


エリアスは叫んだ。


混乱の中、シュルツ隊長は部下に命じ、バルテルミーが使っていた薬品類を押さえた。その中には、エリアスの工房にあったものと酷似した、特殊な形状のガラス瓶もあった。


さらにエリアスは、木炭、硫黄、硝石を混ぜた少量の黒色火薬を取り出し、燃え広がり始めた炎の進行方向の少し先に撒くと、長い棒の先につけた火種で、離れた場所から点火した。


「ボンッ!」


小さな爆発音と共に、粉末が一瞬で燃え上がり、周囲の空気を吹き飛ばした。その衝撃で、燃え広がろうとしていた炎の勢いが弱まり、延焼が食い止められたのだ。


人々は、あっけにとられてエリアスの行動を見ていた。彼は金を作り出したわけではない。だが、その冷静な判断と、奇妙だが効果的な知識は、明らかに多くの人々の命と財産を救っていた。


混乱が収まり始めると、人々の目は、舞台の上で呆然と立ち尽くすバルテルミーと、彼の足元に散らばる割れたガラス器具、そして明らかにすり替えのために用意されていたと思われる金塊に向けられた。


「バルテルミー!貴様、我らを欺いていたのか!」


辺境伯が、怒りに震える声で叫んだ。


「ち、違うのです! これは事故で…」


バルテルミーは言い訳をしようとしたが、もはや誰も彼の言葉を信じなかった。シュルツ隊長が押収した薬品瓶も、彼の不利を物語っていた。


「この詐欺師め! 衛兵、者ども、あの男を捕らえよ!」辺境伯が命じる。


バルテルミーは観念したかのようにその場に崩れ落ちた。あるいは、一部始終を見ていた衛兵たちが、あっという間に彼を取り押さえた。稀代の宮廷錬金術師と謳われた男の権威は、その危険な虚飾と共に、一瞬にして地に墜ちたのだった。


中庭には、まだ煙の匂いと混乱の余韻が残っていたが、人々は静まり返り、煤で汚れたエリアスと、彼を助けたカタリーナを、畏敬とも驚嘆ともつかない表情で見つめていた。

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