第四章 地下の火花
シュタイン城の地下牢は、冷たく湿った石と、絶望の匂いが支配する場所だった。狭い牢の床に敷かれたわずかな藁の上で、エリアスは膝を抱えていた。工房から引きずり出される際に負った打撲が痛み、それ以上に、心の傷が深く彼を苛んでいた。全てを失った。研究も、師から受け継いだ場所も、そして何より、自分を信じてくれたカタリーナまでも、この暗闇に引きずり込んでしまった。
「私のせいだ……私が、もっと早く真実を話していれば……いや、そもそも、辺境伯の要求に応えようなどと考えなければ……」
後悔の念が、繰り返し彼の心を責め立てた。
隣の牢に入れられたカタリーナは、意外にも落ち着いていた。彼女は時折、壁越しにエリアスに声をかけた。
「エリアスさん、しっかりしてください。私たちは何も悪いことはしていません」
「だが、私が辺境伯を欺いたことに変わりはない…結果的に、君まで巻き込んでしまった」
「あなたは、真実を知ろうとしただけです。その過程で少し道に迷ったとしても、罪人ではありません。それに、あのバルテルミーという男、どう考えても怪しいです。きっと何か裏があるはずです」
カタリーナの気丈な言葉は、暗闇の中のかすかな光のように、エリアスの心に届いた。しかし、絶望の闇はあまりにも深く、彼は顔を上げる気力すら失いかけていた。
数日後、牢の見張りが交代する物音に紛れて、一人の老人がエリアスの牢の前に立った。ブラザー・ヨハンだった。おそらく、シュルツ隊長が、かつてゲオルグ師と親交のあった老修道士に、憐れみから面会を許したのだろう。
「エリアス……無様な姿だな」
ヨハンの声は、いつものように穏やかだったが、その眼差しは厳しかった。
「お主は力を求め、その力に振り回された。物質を変えようとする前に、己の心が変えられてしまったようじゃな」
「……私には、もう何もありません」
エリアスは力なく答えた。
「ほう? 真理を探求する心まで失ったのか? お主が追い求めていたものは、黄金や辺境伯の寵愛ではなかったはずだ。違うか?」
ヨハンの問いかけに、エリアスははっとした。そうだ、自分は何のために錬金術の道を選んだのか? 富でも名声でもない。ただ、この世界の成り立ち、物質の奥に隠された神秘を知りたいという、純粋な知的好奇心からではなかったか。いつの間にか、その原点を忘れ、目先の成果や他人の評価に心を奪われていた。
「お主が扱っていた『緑の獅子の涙』…あれは確かに危険な力だ。だが、力そのものに善悪はない。使う者の心次第で、薬にも毒にもなる。お主は、その力を正しく理解し、制御しようとしたか?」
「私は……ただ、辺境伯を納得させたい一心で……」
「うむ。そして、あのバルテルミーという男は、その力をおそらく己の欲望のために利用した。お主が工房で閃いたという疑念…それは、真実やもしれぬぞ」
「!」
エリアスは顔を上げた。
「やはり、あの男が硫酸を持ち出し…?」
「かもしれぬな。だが、証拠は? 直感や推測だけでは、誰も信じまい。お主が真に己の名誉を回復し、彼女を救いたいと願うなら、感情に溺れるのではなく、理性と知性で戦わねばならぬ」
ヨハンの言葉は、エリアスの心に新たな火を灯した。そうだ、まだ終わってはいない。諦めてはいけない。バルテルミーの詐術を暴き、そして、自分が発見したこと――たとえそれが黄金でなくとも――の真の価値を証明すること。それこそが、自分自身と、カタリーナを救う唯一の道だ。
彼は牢の壁に背を預け、目を閉じた。師の研究記録、これまでの実験の記憶、バルテルミーの言動、工房で見た硫酸の反応……断片的な情報が、頭の中で組み合わさり始めた。
(バルテルミーは、おそらく派手なデモンストレーションを好む。きっと、辺境伯や民衆の前で、再び何かを見せるだろう。その時がチャンスだ。彼のトリックを暴く…)
(そして、私の発見…あの金属自体は貴金属ではない。だが、あの『緑の獅子の涙』、硫酸は? あれほどの腐食力を持つ液体、何かに利用できないか? 金属の洗浄や、あるいは…薬として?)
パラケルススの言葉が蘇る。「量こそが毒を作る」。ならば、量を調整すれば、毒も薬になりうるのではないか? カタリーナの薬草の知識と組み合わせれば……?
(そうだ、道はあるはずだ。金を作り出すことだけが錬金術ではない。物質の性質を理解し、それを役立てること…それこそが、真の『賢者の石』に繋がる道なのかもしれない!)
エリアスの目に、再び力が戻ってきた。それは、以前のような焦りや狂気ではなく、冷静な思考と、真実を探求する者としての強い意志の光だった。
彼は牢の格子越しに、隣のカタリーナに声をかけた。
「カタリーナ、聞いてくれ。まだ希望はある。私たちは、ここから出られるかもしれない」
「エリアスさん…?」
「バルテルミーの嘘を暴き、そして、私たちが本当に見つけたものの価値を証明するんだ。そのためには、君の知識も必要になる」
エリアスは、牢番の目を盗んで、ヨハンが密かに差し入れてくれた小さな木炭の欠片を使い、牢の壁に何かを書きつけ始めた。それは、化学式のような記号であり、実験手順のメモであり、そして、反撃への計画の第一歩だった。
地下牢の冷たい闇の中で、エリアスの心には、アタノールの火にも似た、熱い決意の炎が再び燃え上がっていた。これが、彼の第二の誕生、真の錬金術師としての覚醒の瞬間だったのかもしれない。




