第三章 煙と鏡
エリアスは、生成した鈍い銀白色の金属塊をビロードの布に包み、再びシュタイン城へと向かった。前回とは違い、足取りにはわずかながら自信が感じられた。たとえこれが真の黄金や白銀でなくとも、未知の金属であることは間違いない。辺境伯も、全くの手ぶらで来るよりは、この「成果」を評価するだろうと考えたのだ。
謁見の間で、辺境伯ゲルハルトはエリアスが差し出した金属塊を手に取り、窓から差し込む光にかざして矯めつ眇めつした。その隣には、相変わらず無表情なシュルツ隊長が控えている。
「ほう……これは奇妙な金属だな。銀にしては輝きが鈍く、鉛にしては軽い。錫とも違うようだ」
辺境伯は指で表面を撫でた。
「して、これがあの『コーボルトの悪戯』から生まれたと申すか?」
「はっ。師の記録にあった秘法を用い、かの鉱石を変成させたものでございます」
エリアスは、完全に嘘ではないものの、核心部分を巧みにぼかしながら答えた。
「さらなる精錬を重ねれば、より貴金属に近い性質を帯びる可能性も…」
「ふむ」
辺境伯は金属塊をテーブルに置いた。
「まだ道半ばということか。だが、全くの空振りというわけでもなさそうだな。よかろう、エリアス・クライン。期限はくれてやる。研究を続けよ。必要なものがあればシュルツに申し出よ。ただし」
辺境伯は鋭い視線をエリアスに向けた。
「次は、まがい物ではない、確かな『富』をもたらす成果を期待する。良いな?」
「ははっ、肝に銘じます」
エリアスは深く頭を下げた。ひとまず、最大の危機は脱した。安堵感と共に、再び重い責務が肩にのしかかるのを感じながら、彼は城を後にした。シュルツ隊長が、値踏みするような目で彼を見送っていた。
工房に戻ると、カタリーナが安堵の表情で迎えてくれた。
「良かったですね、エリアスさん!」
「ああ、だが、これは一時しのぎに過ぎない。辺境伯は、本物の『金』を求めている」
それでも、猶予を得たことで、エリアスの心にはわずかな余裕が生まれた。彼は、あの日以来初めて、夜にまとまった睡眠をとることができた。
しかし、平穏は長くは続かなかった。数日後、予告もなく工房を訪れた者がいた。豪華な刺繍の施された外套をまとい、香油の匂いを漂わせた、壮年の男。その顔には、作り物めいた笑みが張り付いていた。
「これはこれは、エリアス・クライン殿ですかな? お噂はかねがね」
男は芝居がかった仕草で一礼した。
「私はテオフラストゥス・バルテルミー。以後、お見知りおきを」
隣国の宮廷錬金術師、バルテルミーその人だった。エリアスは警戒心を露わにした。なぜこの男が、わざわざ辺境の工房まで?
「バルテルミー殿…どのようなご用件でしょうか」
「いやなに、貴殿が辺境伯閣下の前で、実に興味深い金属を披露されたと聞きましてな。同じ『秘術』を探求する者として、是非とも拝見し、可能ならば知見を交換させて頂きたいと思いまして」
バルテルミーは、エリアスが返事をする間もなく工房の中に入り込み、好奇心に満ちた(ように見える)目で、器具や薬品棚を眺め回し始めた。
「ほう、ゲオルグ師の工房は、噂に違わず質実剛健ですな。私のところとは大違いだ。して、あの『未知の金属』はどちらに?」
「……それは、さらなる研究のため、今は」
「おやおや、つれないことをおっしゃる。我々は同業者、いわば同志ではありませんか。互いに知識を共有し、この偉大な術の発展に貢献すべきでしょう」
バルテルミーは親しげにエリアスの肩に手を置いたが、その目には値踏みするような冷たい光が宿っていた。彼は明らかに、エリアスの「成果」の秘密を探ろうとしていた。エリアスは、彼の巧妙な言葉の裏にある敵意を感じ取り、当たり障りのない返答に終始した。
バルテルミーは、小一時間ほど工房内を詮索するように見て回り、エリアスには理解できないような専門用語や、自らの(おそらくは誇張された)成功譚をまくし立ててから、ようやく帰っていった。
「嵐のような人でしたね」
カタリーナが、残された強い香油の匂いに顔をしかめながら言った。
「ああ…そして、信用ならない男だ」
エリアスは呟いた。
「彼が嗅ぎ回っている。急がねば…」
エリアスは再び実験に没頭した。辺境伯への報告で得たわずかな資金で新しい器具を揃え、コーボルト鉱石から例の金属をより多く、より効率的に作り出そうと試みた。しかし、事はそう簡単には進まなかった。反応の制御は難しく、有毒ガスの発生は避けられない。得られる金属の量もわずかで、純度もなかなか上がらなかった。
そして何より、エリアス自身の心に、暗い疑念が育ち始めていた。生成した金属塊を詳しく調べるうちに、その性質が金や銀とは根本的に異なることが明らかになってきたのだ。それは脆く、強い酸には容易に溶け、湿気の多い場所に放置すれば、表面が青緑色に変色することさえあった。これは、師が追い求めた「不変の金属」とは程遠い、むしろ卑金属に近い性質ではないか?
(師は、これを知っていたのではないか? だから、『封印すべし』と…? だとしたら、私は辺境伯に嘘をついたことになるのか?)
罪悪感が、鉛のように彼の心を蝕み始めた。知的好奇心から始めた実験だったはずが、いつの間にか、辺境伯を欺き、ライバルを出し抜くための手段にすり替わってしまっているのではないか。眠れない夜が増え、エリアスの顔からは生気が失われていった。
そんなある日、工房の扉を静かに叩く音がした。そこに立っていたのは、質素なローブをまとった老いた修道士、ブラザー・ヨハンだった。彼は、エリアスの師ゲオルグの旧友であり、時折ふらりと現れては、エリアスに助言を与えてくれる存在だった。
「…エリアス、お主の顔には、真理を探求する者の輝きではなく、焦りと欺瞞の影が見えるぞ」
ヨハンは、工房の隅に置かれた椅子に静かに腰を下ろし、エリアスの目を見つめた。その穏やかだが、全てを見通すような視線に、エリアスはたじろいだ。
「物質を変成させようとする前に、まず己の心を見つめよ。お主が真に求めているものは何か? 黄金か? 名声か? それとも…」
ヨハンの言葉は、エリアスの心の最も痛い部分を突き刺した。
「私は……私はただ、真実を知りたいのです。師が遺した謎を解き明かしたい…」
「ならば、なぜ焦る? なぜ辺境伯の顔色を窺う? 真理への道は、権力者の望む道とは必ずしも一致せぬものだぞ」
ヨハンは静かに続けた。
「そして、忘れるな。お主が扱っている力は、扱い方を誤れば、富ではなく災いをもたらす。かのパラケルススも言っておろう、『量こそが毒を作る』と」
ヨハンの言葉は、重くエリアスの心に響いた。彼は、自分が危険な道を歩んでいることを、改めて自覚させられた。しかし、もう後戻りはできない。辺境伯との約束、そしてバルテルミーの存在が、彼を追い立てていた。
ヨハンが去った後も、工房には重い沈黙が残った。エリアスは、生成した鈍く光る金属塊を手に取り、複雑な思いで見つめていた。これが、希望なのか、それとも破滅への入り口なのか。彼にはまだ、その答えを知る術はなかった。
ブラザー・ヨハンの言葉は、警鐘のようにエリアスの心に鳴り響いていたが、迫り来る破滅の足音は、内省のための時間を与えてはくれなかった。辺境伯からの催促は日増しに厳しくなり、バルテルミーが城に出入りしているという噂も耳にするようになった。焦燥感に駆られたエリアスは、半ば自暴自棄になりながら実験を繰り返した。
(この金属が金でないなら、金に見せかければいいのか? いや、それは師の教えにも、私自身の信念にも反する……だが、他に道はないのか?)
彼は、水銀アマルガム法を試そうとしたり、硫黄と反応させて黄金色の硫化物を作ろうとしたり、様々な「ごまかし」の方法に手を染めかけた。だが、その度に、師の幻影やヨハンの言葉が脳裏をよぎり、彼の良心がそれを押しとどめた。実験は迷走し、貴重な薬品と時間が空しく消費されていく。工房には、失敗した実験の残骸と、エリアスの深い溜息だけが積み重なっていった。
カタリーナは、日に日に憔悴していくエリアスを痛々しい思いで見守っていた。彼女は、もはや錬金術の成果などよりも、エリアス自身の心身の健康を案じていた。
「エリアスさん、もうやめにしませんか? 辺境伯様に正直に話して……」
「駄目だ!」
エリアスは語気を荒げた。
「正直に話したところで、あの黒伯爵が許してくれるはずがない。我々は全てを失うことになるんだ!」
彼の瞳には、以前の知的な輝きはなく、追い詰められた獣のような光が宿っていた。カタリーナはそれ以上何も言えず、ただ黙って薬草茶を彼の前に置いた。
そして、運命の日は、嵐のように突然やってきた。
その日、エリアスがいつものように失敗した実験の後始末をしていると、工房の扉が乱暴に蹴破られた。飛び込んできたのは、厳しい表情のシュルツ隊長と、武装した数名の衛兵だった。
「エリアス・クライン! 辺境伯ゲルハルト様の名において、汝を詐欺及び領主への欺瞞の罪で拘束する!」
シュルツ隊長の声が、工房に冷たく響き渡った。エリアスは何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くした。
「な……何のことで……」
「とぼけるな!」
シュルツ隊長は、工房の隅に置かれていた、例の銀白色の金属塊を乱暴に掴み上げた。
「このまがい物! これが貴様の言う『成果』か! バルテルミー殿が看破されなければ、我々は危うくこのようなガラクタに領地の財産を注ぎ込み続けるところだったわ!」
バルテルミー! やはりあの男の仕業か! エリアスは唇を噛み締めた。
「バルテルミー殿は証明されたのだ! この金属は金銀には程遠い卑金属であるばかりか、扱い方によっては人体に害をなす毒物ですらあると! これほどの欺瞞、許されると思うてか!」
衛兵たちがエリアスを取り囲み、腕を掴もうとする。
「待ってください! 私は誰も欺こうなどとは……!」
「黙れ!」
シュルツ隊長が一喝する。
「言い訳は法廷で聞く。いや、辺境伯閣下の御前で直接申し開きするがいい! 連れて行け!」
衛兵たちがエリアスの両腕をねじ上げる。抵抗しようにも、なすすべはなかった。カタリーナが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、別の衛兵に阻まれる。
「この者も共犯の疑いがある! 同じく連行しろ!」
シュルツ隊長が非情に命じた。
「やめろ! 彼女は関係ない!」
エリアスは必死に叫んだが、声は空しく響くだけだった。
絶望がエリアスを打ちのめした。研究も、工房も、そしてカタリーナまでも失ってしまうのか。全ては、あの忌まわしい金属と、バルテルミーの悪意のせいだ。いや、違う。辺境伯の期待に応えようと焦り、真実から目を背けようとした自分自身の弱さが招いた結果なのかもしれない。
衛兵に引きずられ、工房の外へと連れ出されようとしたその時、エリアスの目に、作業台の上に散らばった実験器具の破片と、そこから流れ出した例の「緑の獅子の涙」――濃硫酸――が飛び込んできた。床の石材に染み込んだ硫酸は、そこだけ白く変色し、わずかに煙を上げていた。
(そうだ……あの液体……)
その瞬間、エリアスの脳裏に、ある光景が閃いた。バルテルミーが工房を訪れた時、彼は薬品棚の前で特に熱心に何かを観察していた。そして、エリアスが目を離した隙に、何か小さなガラス瓶を懐に入れたような気がしたのだ。あの時、エリアスは気に留めなかったが、もし、バルテルミーがあの「緑の獅子の涙」を持ち帰り、その危険な性質を利用して、辺境伯に「エリアスの金属は有毒だ」と吹き込んだのだとしたら?
それは、まだ確証のない、一瞬の閃きに過ぎなかった。だが、絶望の淵で、それはか細い蜘蛛の糸のように思えた。
「シュルツ隊長! お待ちください!」
エリアスは最後の力を振り絞って叫んだ。
「私を裁くのは結構です! しかし、どうかカタリーナだけは……そして、辺境伯閣下に、バルテルミーという男の真の姿を、必ずや白日の下に晒してみせると、そうお伝えください!」
シュルツ隊長は一瞬動きを止めたが、すぐに冷ややかに言い放った。
「戯言を。お主の言葉など、もはや誰も信じぬわ」
衛兵たちは再びエリアスを引きずり始めた。工房の扉が閉ざされ、彼の目に映った最後の光景は、床にこぼれた硫酸が放つ、不気味な白い煙だった。それはまるで、破滅の中から立ち昇る、か細い反撃の狼煙のようにも見えた。