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第二章 緑の獅子の咆哮

冷え切っていたアタノールに、再び火が灯された。赤々と燃える木炭の熱が、工房の石壁に揺らめく影を作り出す。エリアスは師の記録を睨みつけながら、慎重に準備を進めていた。カタリーナは、薬草を煎じる時のように慣れた手つきでふいごを操作し、炉の温度を上げていく。しかし、その表情には隠しきれない不安が滲んでいた。


「本当に大丈夫なのですか? ゲオルグ師は『封印すべし』と…」

「大丈夫だとは言えない。だが、やるしかない」エリアスは、分厚い革の手袋をはめながら答えた。「師は恐れたかもしれない力を、私は理解し、制御してみせる」


彼の言葉には強い意志が込められていたが、声がわずかに震えているのをカタリーナは聞き逃さなかった。


最初の工程は、緑礬(硫酸鉄の結晶)を準備することだった。幸い、これは染色などに用いられる比較的ありふれた物質で、師の薬品棚にも十分な量が残っていた。エリアスはそれを乳鉢で丁寧に砕き、土製のレトルト(フラスコに似た形状で、横に長い管が付いた蒸留器)に詰めた。


「師の記録によれば、これをアタノールで強熱し、発生する蒸気を冷却して集める…」エリアスはレトルトの管の先に、ガラス製の受け器を接続した。接合部は、粘土と亜麻布で念入りに密閉する。わずかな隙間も許されない。漏れ出た蒸気は、それ自体が有毒である可能性が高いのだ。


準備が整うと、エリアスはレトルトをアタノールの燃焼室のすぐ近く、最も高温になる場所に慎重に設置した。炉の熱気が顔を炙る。


「カタリーナ、少し下がっていてくれ。何が起こるか分からない」

「…はい」彼女は心配そうに数歩後ずさり、いつでも水差しを手に取れるよう備えた。


時間が経つにつれ、レトルト内の緑礬の色が変わり始めた。最初は淡い緑色だった結晶が、熱せられて水分を失い、白っぽい粉末へ、さらに黄色、そして赤褐色へと変化していく。工房内に、硫黄が燃えるような、鼻を刺す刺激臭が微かに漂い始めた。


「む…!」エリアスは思わず口元を布で覆った。

「エリアスさん!」

「大丈夫だ、想定内だ。だが、換気はしっかり頼む」


カタリーナは慌てて窓をさらに大きく開けた。刺激臭は強まり、レトルトの管の先端から、白っぽい煙のようなものが流れ出し始めた。その煙が、受け器の中でゆっくりと冷やされ、壁面に油のような、わずかに黄色がかった液体の粒が付着し始める。


「これか…!」エリアスは目を凝らした。師が記した『油状の液体』。それは、水のようにさらさらとはしておらず、粘り気があるように見えた。一滴、また一滴と、それはゆっくりと受け器の底に溜まっていく。しかし、その量はあまりにもわずかだった。


数時間が経過し、アタノールの火が熾火になる頃には、レトルト内の変化は止まっていた。エリアスが慎重に受け器を取り外してみると、底に溜まった液体は、指の先ほどの量にも満たなかった。


「これだけか…」

エリアスは落胆の声を漏らした。これでは、コーボルト鉱石を処理するには到底足りない。


「でも、ゲオルグ師が書いていた通りのものが出来たのでしょう?」

カタリーナが励ますように言った。


「これを繰り返せば…」

「ああ、そうだな。だが、この臭いだ…」


エリアスは工房に満ちた刺激臭に顔をしかめた。


「これを毎日続けるとなると、体にも良くないだろう。それに、このレトルトも…」


彼が指さした土製のレトルトには、内側にひび割れが生じていた。強熱と、発生したであろう腐食性の蒸気に耐えきれなかったのだ。高価なガラス製の器具を使うのは、まだ危険すぎる。


その夜、エリアスはわずかに得られた液体を、小さなガラス瓶に移し替えた。栓をしようとした指先に、誤って一滴触れてしまった。


「うっ…!」


瞬間的に、焼け付くような激痛が走った。見ると、指先の皮膚が白く変色し、じくじくとただれている。


「エリアスさん、どうしました!?」

「いや、大丈夫だ…少し触れただけだ」


彼は慌てて水で洗い流したが、痛みはなかなか引かなかった。カタリーナが薬草軟膏を塗ってくれたが、その液体の持つ恐るべき力の一端を、エリアスは身をもって体験した。


「やはり危険すぎます。こんなものを使って、一体何をしようというのですか?」


カタリーナの声には、非難の色が混じっていた。


「これを…あのコーボルトの石に注げば、あるいは…」


エリアスは指の痛みを感じながらも、目を輝かせた。


「師が恐れたほどの力だ。きっと、普通の酸では起こせないような、劇的な変化が見られるはずだ」


それは、錬金術師としての本能的な直感だった。貴金属への道ではないかもしれない。だが、未知の現象への扉が、すぐそこまで開かれている。その誘惑は、指先の痛みや、辺境伯の脅しよりも、強くエリアスの心を捉えていた。


彼は、痛む指を見つめながら呟いた。

「明日も、炉に火を入れよう。もっと効率よく、安全にこの液体を集める方法を考えなければ」


工房の外では、夜の闇が深まっていた。遠くで教会の鐘が鳴るのが聞こえる。その音は、まるでエリアスの前途に待ち受ける困難と、それでも進もうとする彼の決意を告げているかのようだった。アタノールの残り火が、彼の横顔を不気味に照らし出していた。


それからの数週間、エリアスの工房は、まるで地獄の釜のように熱気と刺激臭に満たされていた。彼は来る日も来る日もアタノールに火を入れ、緑礬を熱し続けた。最初の失敗から学び、土製のレトルトの内側に耐火性の高い粘土を塗り重ね、受け器の冷却効率を上げるために流水を使う仕組みを考案した。カタリーナは、工房の全ての窓を開け放ち、時には扉すら開け放って換気に努めたが、それでも咳き込むことは避けられなかった。


「エリアスさん、今日も顔色が悪いですよ。少し休んでは?」

「休んでいる暇はない。辺境伯が定めた期限は刻一刻と迫っているんだ」


エリアスの頬は痩け、目の下には濃い隈が刻まれていたが、その瞳には狂的なまでの集中力が宿っていた。カタリーナは彼の身を案じながらも、もはや止めることはできないと悟っていた。彼女は、滋養のあるスープを作り、工房の隅で仮眠をとる彼に毛布をかけ、そして、発生するガスから身を守るため、薬草を浸した布で覆面を作るなど、自分にできる限りの助力を続けた。


苦労の末、濃緑色をした油状の液体――エリアスが内心「緑の獅子の涙」と名付けた硫酸――は、少しずつ、しかし着実にガラス瓶の中に溜まっていった。それは、光にかざすと不気味なほど美しく輝いたが、その内に秘められた破壊的な力は、指先の火傷の痕を見るたびにエリアスに思い出させた。


そして、ついに十分な量の「涙」が集まったと判断した日、エリアスは次の段階へ進む準備を始めた。師の記録にあった「コーボルト鉱石」。幸い、師は研究のために少量の標本を工房に残していた。それは、鈍い銀白色の金属光沢を持つ、見た目には何の変哲もない石ころだったが、エリアスはその石が持つ秘密の可能性に胸を高鳴らせていた。


「いよいよだな…」


エリアスは、工房の中央にある頑丈な石の作業台の上に、厚手のガラスビーカーを置いた。換気を最大限に行い、水差しと濡れた布をすぐ手の届く場所に用意する。カタリーナも固唾を飲んで、少し離れた場所から見守っていた。


彼は、金槌でコーボルト鉱石を細かく砕き、その破片をビーカーに入れた。そして、深呼吸を一つすると、ガラス瓶から「緑の獅子の涙」を、慎重に、一滴ずつ鉱石の破片の上に垂らし始めた。


液体が鉱石に触れた瞬間、激しい反応が起こった。


「シュウウゥゥ…!」


まるで蛇が威嚇するような音と共に、白い煙が勢いよく立ち昇った。鉱石の表面が泡立ち、液体は毒々しい緑色に変色していく。ビーカーは触れられないほど熱くなり、刺激臭がさらに強まった。


「エリアスさん、煙が!」


カタリーナが叫んだ。


「大丈夫だ、想定している!」エリアスは叫び返しながらも、後ずさりそうになるのを堪えた。これは、師が恐れた力の一部なのだ。


彼はさらに液体を注ぎ続けた。反応はますます激しくなり、ビーカーの中身は沸騰しているかのように泡立ち、緑色の液体は、やがてインクのような深い青紫色へと変化していった。鉱石の破片は、その毒々しい液体の中に溶け込んでいくように見えた。


やがて反応が少しずつ収まってきたのを見計らい、エリアスはビーカーに慎重に水を加えた。さらに、師が中和剤として使っていた石灰の粉末を少しずつ加えていく。液体は中和され、底には泥のような沈殿物が溜まり始めた。


彼は、その沈殿物を丁寧にろ過し、洗浄を繰り返した。最後に残ったのは、湿った灰色の粉末だった。これがあの輝く鉱石の成れの果てか、と一瞬落胆しかけたエリアスだったが、師の記録には続きがあった。この粉末を、木炭と共に強熱するのだ。


再びアタノールに火が入れられ、坩堝に入れられた灰色の粉末は、木炭と共に灼熱の炎に晒された。エリアスは、炉の覗き窓から、坩堝の中の様子を食い入るように見つめていた。


数時間後、炉の火を落とし、坩堝が冷えるのを待って、エリアスは震える手で中身を取り出した。坩堝の底には、木炭の燃えカスに混じって、親指の先ほどの大きさの、鈍い銀白色の金属塊が残っていた。


「……できた」


エリアスは、金属塊をピンセットで慎重につまみ上げた。それは鉛よりは軽く、錫よりは硬いようだった。表面を磨くと、鈍いながらも美しい金属光沢が現れた。それは、決して銀ではない。しかし、見たこともない、不思議な輝きを放つ金属だった。


「エリアスさん、これは…?」


カタリーナが恐る恐る尋ねた。


「分からない…だが、師の記録にあったコーボルト鉱石から、これを作り出したんだ。これは…あるいは、貴金属へと至る、第一歩なのかもしれない!」


彼の声は興奮に震えていた。この未知の金属こそ、辺境伯に見せるべき「成果」だ。これならば、あの黒伯爵も文句は言えまい。期限までに、さらにこの金属を精錬し、あるいは別の処理を施せば、もっと貴金属に近いものに見せかけることもできるかもしれない。


エリアスは、その小さな金属塊を、まるで宝石のように手のひらに乗せた。長かった苦労が報われたような気がした。安堵と興奮が、彼の全身を満たしていた。工房の薄暗がりの中で、その金属はエリアスの希望を映すかのように、鈍く、しかし確かに光っていた。


彼はまだ気づいていなかった。その金属の輝きが、どこか不安定で、すぐに曇りがちであることにも、そして、その「成功」が、さらなる試練と、バルテルミーという狡猾な敵の注意を引き寄せることになるということも。工房の外では、衛兵隊長シュルツが、最近工房から漂ってくる奇妙な臭いと煙について、訝しげに眉をひそめていた。

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