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アタノールの火、あるいは水銀の涙  作者: と゚わん


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第一章 炉辺の影

煤と、鼻を突く奇妙な酸の匂いが混じり合った空気が、石造りの工房に澱んでいた。窓は高い位置に小さく設けられているだけで、昼なお薄暗い。そのわずかな光を頼りに、エリアス・クラインは羊皮紙に記された難解な記号と格闘していた。インクの染みが広がった師の筆跡は、まるで解読を拒むかのように踊っている。


「……『緑の獅子が太陽を喰らい、血の涙を流す時、不死鳥は灰より蘇る』……またこれか」


エリアスは溜息をつき、羽根ペンを置いた。師、ゲオルグ師は偉大な錬金術師であったが、その記録は謎めいた寓意と象徴に満ちていた。貴金属の生成――卑金属を黄金に変えるという、あの永遠の夢――を追い求める一方で、師の真の関心は「第七精髄」、万物の根源たる生命力、あるいは霊的な変容にあったらしい。エリアスには、その深遠な哲学よりも、目の前のフラスコで起こる物質の変化の方が、よほど魅力的で、そして現実的だった。


現実。その言葉は鉛のように重くエリアスの肩にのしかかる。工房の棚には、師が遺した奇妙な形状のガラス器具――アランビック(蒸留器)やペリカン(還流冷却器)、レトルトなどが埃をかぶって並んでいたが、それらを動かすための木炭も、実験に必要な辰砂(硫化水銀)やアンチモンも、底をつきかけていた。師が亡くなって一年、父の遺産と、辺境伯からのわずかな支援金で食いつないできたが、それも限界に近かった。


壁際には、師が「アタノール」と呼んだ、卵型の燃焼室を持つ煉瓦造りの恒温炉が鎮座していた。その炉の火こそが、錬金術の心臓であり、物質を変容させる聖なる力だと師は語った。だが今、その炉は冷え切っている。


「エリアスさん、また徹夜ですか? 顔色が悪いですよ」


背後から声がかかり、エリアスはびくりと肩を揺らした。入り口には、薬草籠を提げたカタリーナ・マイヤーが立っていた。陽の光を背にした彼女の姿は、この薄暗い工房では眩しいほどだ。彼女は薬草師だった父親を昨年亡くし、紹介を受けてエリアスの助手として働くようになって三月ほど経つ。最初は錬金術という得体の知れないものに戸惑っていたようだが、今では手際よく薬品の整理や器具の洗浄をこなし、時にはエリアスの実験の失敗の後始末までしてくれる、なくてはならない存在だった。


「ああ、カタリーナか。すまない、少し考え事を……」

「考え事、というより、またあの古い本とにらめっこでしょう? ちゃんと食事はとっていますか?」


カタリーナは籠をテーブルに置くと、慣れた手つきで工房の窓を開け、淀んだ空気を追い出し始めた。薬草の爽やかな香りが、酸の匂いを和らげる。


「ほら、パンと干し肉、それと父が遺した滋養のつくハーブティーです。火をおこしますから、少し休んでください」

「……恩に着る」


エリアスは素直に礼を言った。彼女の現実的な世話は、時に師の難解な言葉よりもずっと心を落ち着かせてくれる。カタリーナが炉に火を入れ、湯を沸かす間、エリアスは彼女が持ってきたパンをゆっくりと口に運んだ。


「今日は、領主様から使いの方が来ていましたよ」

「辺境伯から?」エリアスは眉をひそめた。


“黒伯爵”ゲルハルト・フォン・シュタイン。彼の名は、その野心と容赦のない性格から、畏怖と共に領民に囁かれていた。エリアスの師は、かつて辺境伯の父君と親交があり、その縁でエリアスもわずかながら支援を受けていたが、今の辺境伯は実利を重んじる人物だと聞く。


「はい。エリアス様に、明日の昼、城へ参上するように、と」

「……そうか」


嫌な予感がした。辺境伯がエリアスのような、まだ何の成果も出していない若輩の錬金術師に直接会おうとするなど、尋常ではない。おそらく、隣国の宮廷で華々しい(と噂される)成功を収めているという、テオフラストゥス・バルテルミーの影響だろう。あの男の噂は、風に乗ってこの辺境の地まで届いていた。金を作り出し、領主を富ませているのだと。真偽はともかく、辺境伯がその噂に刺激されないはずがなかった。



翌日、エリアスは埃を払い、少しでも見栄えのする服に着替えて、シュタイン城へと向かった。城は街を見下ろす丘の上にあり、その石壁は黒ずんで威圧感を放っていた。衛兵隊長のシュルツに案内され通された謁見の間は、質実剛健を旨とする辺境伯らしく、華美な装飾は少ないが、重厚なタペストリーと、壁に掛けられた武具が、領主の力を示していた。


玉座に腰かけた辺境伯ゲルハルトは、四十代半ばとは思えぬ鋭い眼光でエリアスを射抜いた。その隣には、冷徹な表情のシュルツ隊長が控えている。


「エリアス・クラインと申します。この度は、お召しにより参上いたしました」


エリアスは恭しく頭を下げた。


「うむ」


辺境伯は短く応じ、テーブルに置かれた一枚の羊皮紙を示した。


「隣国のバルテルミーを知っておるか?」

「…噂には」

「あの男、ついに『賢者の石』への道筋を見つけたと公言しておる。真偽はともかく、我が領地にも富をもたらす『秘術』が必要だとは思わんかね?」

「それは……」


エリアスは言葉を濁した。錬金術は、一朝一夕に結果が出るものではない。ましてや師の教えは、単なる黄金生成とは一線を画すものだった。


「言い訳は聞きたくない」


辺境伯はエリアスの言葉を遮った。


「ゲオルグ師亡き後、お主を支援してきたのは、師の遺志を継ぐと信じたからだ。だが、噂によれば、お主は工房に籠り、実りのない実験ばかり繰り返しているとか」


辺境伯の目は、値踏みするようにエリアスを見据えている。


「バルテルミーは結果を出しておる(…と、少なくとも見せかけておる)。お主にも、それ相応の覚悟と成果を期待したい」


辺境伯は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓の外には、彼の領地が広がっている。


「期限をやろう。半年だ」

「は……?」

「半年以内に、『賢者の石』へ繋がる確たる証――すなわち、貴金属生成の明確な兆候を、この私に示してみせよ。それができねば……」


辺境伯は振り返り、冷たく言い放った。


「お主への支援は全て打ち切り、工房からも立ち退いてもらう。師の残した貴重な器具や書物も、この城で保管させてもらうことになるだろうな」


それは、エリアスにとって死刑宣告に等しかった。工房と師の研究記録は、彼の全てだった。


「……必ずや、ご期待に応えてみせます」


震える声でそう答えるのが、エリアスには精一杯だった。謁見の間を辞する彼の背中に、辺境伯の冷たい視線と、シュルツ隊長の侮蔑とも同情ともつかない眼差しが突き刺さるのを感じていた。工房に戻る足取りは、鉛を引きずるように重かった。


工房の重い木戸を押し開けたエリアスの顔は、鉛色をしていた。辺境伯の言葉が、冷たい鎖のように彼の思考を縛り付けていた。半年――その短い期間で、何世紀もの間、最高の知性が追い求めてきた「賢者の石」への道筋を示せというのか。不可能だ。それは、錬金術の深遠さを理解せぬ、権力者の傲慢な要求に過ぎない。


「エリアスさん、どうでしたか?」


心配そうに顔を上げたカタリーナに、エリアスは力なく首を振ることしかできなかった。事情を話すと、彼女の顔もみるみる曇っていった。


「半年で金を作れなんて……そんな無茶な」

「黒伯爵は本気だ。あの目は、決して冗談を言う目ではなかった」


エリアスは工房の中央にある大きな作業台に、どさりと腰を下ろした。


「支援を打ち切られるだけならまだしも、師の遺されたこの場所まで取り上げられては……」


それは師ゲオルグへの裏切りであり、エリアス自身の存在理由の喪失を意味した。師は、この工房で宇宙の神秘と物質の根源を探求し、その精神を受け継ぐことこそがエリアスの使命だと信じていたのだ。富や権力のための錬金術など、師が最も嫌ったものであったはずだ。


「何か……何か手掛かりはないのですか? ゲオルグ師の記録の中に」


カタリーナが、書物で埋め尽くされた棚を指さしながら言った。


「師の記録は、ほとんどが『第七精髄』や魂の浄化といった、哲学的なものばかりだ。貴金属の生成については、むしろ否定的な記述すらある」

「でも、全くないわけではないのでしょう?」


カタリーナの真剣な眼差しに、エリアスは僅かな希望を見出そうとした。そうだ、諦めるのはまだ早い。師は偉大な錬金術師だった。その膨大な知識の中に、何か、ほんのわずかでも、現状を打破する鍵が隠されているかもしれない。


エリアスは立ち上がり、埃っぽい羊皮紙の束や、革装丁の古びた書物に向き合った。カタリーナもランプに火を灯し、彼の隣で記録を紐解き始めた。寓意的な図像、奇妙な天文学の計算、ラテン語やギリシャ語、さらにはヘブライ語まで混じった難解な文章。そのほとんどは、エリアスが追い求める「現実的な成果」とはかけ離れた、精神世界の探求に関するものに見えた。


「『我が魂の暗き夜、サトゥルヌス(鉛)の重き外套を脱ぎ捨て、ルナ(銀)の衣を纏わん……』これでは詩だ」


エリアスはうんざりして呟いた。


「こちらに、鉱石についての記述がありますよ」


カタリーナが、変色した一枚の羊皮紙を指さした。それは、師が比較的後年に記したものらしく、他の記録とは少し趣が異なっていた。


そこには、ザクセン地方で産出されるという、奇妙な鉱石に関するスケッチと記述があった。銀白色の輝きを持つが、加熱すると毒性の強い煙(おそらくヒ素の蒸気)を出し、すぐに黒ずんでしまうため、鉱夫たちから「山の精霊(コーボルト)の悪戯」と呼ばれ、忌み嫌われているという。


そして、その鉱石に関する記述の隅に、走り書きのような、ほとんど判読不能なメモがあった。師自身の筆跡のようだが、いつもの哲学的な言葉とは違う、焦りのようなものが感じられる筆致だった。


『……緑礬(りょくばん)を強熱して得た油状の液体……恐るべき腐食力……コーボルトの石をも溶かす……だが、これは人の手に余る力か……封印すべし……』


緑礬を強熱して得た油状の液体――それはおそらく、発煙硫酸、あるいは濃硫酸のことだろう。錬金術師の中には、その存在を知る者もいたが、極めて危険な物質として扱われていた。師もまた、偶然それを作り出してしまい、その力に気づきながらも、危険を感じて研究を封印したのだ。


「コーボルトの石を溶かす……」


エリアスはその言葉に引き付けられた。


「もし、この液体で鉱石を処理すれば、何か……何か特別な変化が起こるのではないか?」


それは、一筋の光明のように思えた。貴金属ではないかもしれない。だが、師が「人の手に余る」とまで記したほどの力。それを利用すれば、あるいは辺境伯を驚かせ、納得させられるような、未知の現象を引き起こせるかもしれない。


「エリアスさん、それは危険すぎます」


カタリーナが、彼の顔に浮かんだ熱を見て、不安そうに言った。


「ゲオルグ師が封印したのには、理由があるはずです。毒の煙が出るとも書かれています」

「危険は承知の上だ」


エリアスは立ち上がり、冷え切ったアタノールを見つめた。


「だが、このまま座して工房を追われるのを待つよりはいい。師は恐れたかもしれないが、私はこの力を知りたい。そして、あるいはこれが、私たちの唯一の道かもしれないのだ」


彼の目には、絶望に抗う決意の光が宿っていた。カタリーナはその強い意志に何も言えず、ただ心配そうに彼を見つめるだけだった。


「まずは、あの『油状の液体』を作り出さねばなるまい」


エリアスは呟き、師の記録の中から、緑礬に関する記述を探し始めた。


「カタリーナ、すまないが、手伝ってくれるか? アタノールに、もう一度火を入れなければ」


彼の声には、もはや迷いはなかった。炉に火が入る時、それは未知への扉が開かれる時であり、同時に、後戻りのできない道へと足を踏み入れる瞬間でもあった。工房の薄闇の中で、エリアスの影が、決意と共に大きく揺らめいた。

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