第三十五章 いつかまた
続きです。
僕は自室の窓辺に座るように電動車椅子を寄せ、じっと外を見つめていた。
街路樹の新緑が風に揺れ、小鳥のさえずりがかすかに聞こえる。
彼女の惜別の言葉が心の中で何度も繰り返され、どれだけそれを追い払おうとしても消えない。
「紗月さん……」
自分にも聞こえないほど小さく、縋るように名前を呼ぶ。
胸の中にある諦めたくないという想い。
彼女の元に行きたい気持ちは強かった。
しかし、今はそれ以上に、無理に近づけば彼女を傷つけてしまうかもしれないという迷いがあった。
「今、僕にできること…次に会ったときに、胸を張れるようにすること」
自分にそう言い聞かせたとき心の霧が少しだけ晴れたような気がした。
このままじゃだめだ。とにかく何かをしよう。
そう言って自分を奮い立たせた。
翌朝、病院のリハビリ施設に向かった。
入口近くの受付カウンターの向こうにリハビリ用の器具が整然と並んでいる。
滑りにくいゴム製のフロアが敷かれ、患者が安全に動けるように工夫されている。
広々とした白を基調にした清潔な空間。天井には優しい光を放つ蛍光灯が整然と並び、窓からは明るい陽射しが差し込んでいた。
角刈り頭が印象的な担当の理学療法士である藤崎さんと挨拶を交わすと、彼は白い歯を見せ穏やかに笑いながら言った。
「調子はどうだ? 無理しすぎない範囲で進めような」
「はい......お願いします.....!」
電動車椅子から専用のリハビリ用チェアに藤崎さんの手を借りながら移動する。
「今日は姿勢保持の練習から始めようか」
藤崎さんの言葉に従ってゆっくりと背筋を伸ばした。
リハビリ用チェアは腰や背中をしっかりと支える設計になっており、その上で座った状態でバランスを取ることが要求される。
「まずは両手を左右に広げてみよう。.........いいぞ、そのまま」
「................っ...............くぅっ.......!」
手をゆっくりと広げたが、数秒で腕が震え始める。
体幹の筋肉が弱いので、姿勢を保つだけでも僕には負担がかかる。
「次は片手を上げるぞ」
「はい........!」
藤崎さんの指示に従い、右手を上げようとした。
しかし、バランスを崩しそうになり、慌てて左手でひじ掛けを使い身体を支える。
「いい、その感覚を覚えておこう。少しずつ慣れていけば大丈夫だ」
藤崎さんは優しく声をかけてくれるが、額には汗がにじみ、呼吸が荒くなってくる。
次に使用するのは、両手の握力を鍛えるハンドグリップトレーナーだった。
藤崎さんが軽い負荷のものを持ってきてくれた。
「これを片手ずつ握ってみて。左右交互に、10回ずつやろう」
ハンドグリップトレーナーを握りしめる。
ふつうのものに比べて負荷は軽いはずだが、手の震えが止まらず、指先の力が抜けそうになる。
「うっ..............くっ!」
「1……2……よし、その調子だ」
藤崎さんがカウントする中、歯を食いしばる。
手のひらに汗が滲み、器具が滑りそうになるたびに力を込め直した。
「紗月さんに会うとき、自分の気持ちをちゃんと伝えられるように……」
そう心の中でつぶやくたび、指に力が入った。
リハビリを終えた僕は、施設の休憩室で水を飲んでいた。
汗でシャツが背中に張り付き、肩から腕にかけての筋肉がじんじんと痛む。しかし、心地よい疲労感があった。
その時ふと目に留まったのは、壁に貼られた「リモートプログラミング講座募集」のポスターだった。
「これなら僕にもできるかもしれない……」
悠人はポスターをじっと見つめ、そこに書かれた「初心者歓迎」の文字に引き寄せられた。
「紗月さんに会ったとき、僕が何かを作れるようになっていたら、それは自信になる」
そう思うと、心の中に小さな希望の光が灯った。
数日後、講座の申し込みを済ませ、自宅のデスクにノートパソコンを広げていた。
電動車椅子の高さ調整のスイッチを入れ、机の高さを調整してパソコンの画面と目線を合わせる。
講座の内容は、プログラミングの基礎から始まり、簡単なアプリケーションの作成を目指すものだった。
「紗月さんに会えたとき、僕が変わった姿を見せられるように…」
その思いが、僕を支えていた。




