第三十二章 記憶
続きです。
それは僕が事故に遭い、自分の身体の自由を失った直後のことだった。
リハビリは苦痛そのもので、生活のほとんどが電動車椅子に頼るものとなった。家族は励ましてくれたけど、その言葉はどこか遠く他人ごとのように感じられた。学校に行けない日々は、友人たちとの距離もどんどん広げていくばかりだった。
孤独の中で、何かに繋がりたいとインターネットの世界に身を投じた。SNSに登録したのは、もしかするとそこで自分を受け入れてくれる誰かに出会えるかもしれないという淡い期待からだった。
最初は、他愛もないやりとりに救われた。画面越しの繋がりは、顔を合わせる必要がなく、僕にとって安心できるものだった。しかし、やりとりを続けるうちに、障害の話を切り出すと途端に返事が途絶えることが増えた。
それでも、SNSを手放せなかった。日常の中で唯一、孤独を少しでも薄めるものだったからだ。
そんなある日「障害者同士のコミュニティ」というタグを見つけた。そこには、似たような境遇の人たちが日々の思いを綴っていた。
「ここなら、分かり合えるかもしれない」
そう思い、初めてその扉を開いた。
紗月さんの名前を初めて目にしたのは、ある投稿へのコメントだった。
『最近、リハビリが思うように進まなくて辛いけど、同じように頑張っている人たちの話を聞くと、自分も前を向こうと思えます』
そのコメントには、言葉以上の何かがあった。真摯で誠実で、どこか優しさに溢れたその文章に、目が釘付けになった。
メッセージを送るかどうか、迷いに迷った。
ローマ字でsatsukiと書かれた彼女の名前をタップし、文字を入力しては消し、また書き直した。
ようやく完成した短いメッセージを送信ボタンに乗せるとき、心臓が痛いほど高鳴った。
『初めまして。僕もリハビリ中で、satsukiさんのコメントにすごく励まされました。ありがとう』
送信後、画面を凝視し続けた。返事が来る保証などないのに、彼女の言葉が届いた証がどうしても欲しかった。
数分後、通知音が鳴った。
『メッセージありがとうございます。私の言葉が誰かの力になれたなんて、とても嬉しいです』
その短い返事が、僕の胸に温かな灯をともした。
それからやりとりが始まった。
紗月さんは、高校生のときに原因不明の病気を発症し、リウマチや痙性麻痺の症状に苦しんでいることを話してくれた。
『今はリクライニングの電動車椅子に頼る生活だけど、本を読んだり小さな趣味を見つけたりして、少しでも楽しく過ごそうとしています』
その言葉の中には、困難の中で自分なりに生き抜こうとする強さが滲んでいた。その時の僕にとって、彼女の話はどれほど眩しく響いただろうか。
僕も少しずつ自分のことを話すようになった。事故のこと、身体が動かなくなったこと、未来への漠然とした不安。画面越しの会話だからこそ、言葉にできることがあった。
『未来は分からないことばかりだけど、今を生きることが大事だと思うんです。それだけで、十分すごいことだから』
紗月さんのその言葉に、僕の胸は静かに震えた。それは、自分の重い扉を開けてくれる鍵のように感じられた。
数週間のやりとりを経て、実際に会うことになった。
その日、悠人は電動車椅子に乗り、約束の場所へと向かった。
(彼女はどう思うだろう)
自分の姿に対する不安と緊張が胸を支配していたが、待ち合わせ場所に現れた紗月さんはそんな心配を一瞬で消し去ってくれた。
電動車椅子に座った彼女が少し恥ずかしそうに微笑みながら、穏やかな声で僕に挨拶した。
「初めまして、悠人くん」
その一言。その笑顔。それは、僕にとってすべてを包み込む光だった。彼女の声、笑顔、言葉。紗月さんとのやりとりは、僕にとって生きる力そのものだった。
けれど、その光はもう遠く手の届かない場所へ行こうとしている。
机の上のスマートフォンは静かに伏せられ、僕には何も語りかけない。
窓の外では、春が進んでいる。
だが、僕の胸の中には、まだ冷たい冬の風が吹き続けていた。




