第三十一章
続きです。今日で最終回までいきたいと思います。
僕は電動車椅子に深く腰を沈めたまま、手に握ったスマートフォンを見つめていた。画面には紗月さんへ送ったメッセージがそのまま表示されている。
『紗月さん、体調はどうですか?最近話せてないですね。もし大丈夫だったらまた会いたいです』
送信してから、三日が過ぎていた。
これまでの紗月さんなら、どんなに体調が悪くても短い言葉を返してくれた。それなのに、今回は沈黙が続いている。
旅行はとても楽しかった。
紗月さんとの素敵な思い出が作れたはずだった。
そしてそれはこれからまた、もっと作れるはずのものだった。
「……どうしたんだろう」
小さな声が部屋の中に溶けた。
窓の外に目を向ける。陽光に照らされた道が光を反射し、まるで水面のように揺れている。その穏やかな風景は、僕の胸に押し寄せる不安を和らげるどころか、むしろそのコントラストを際立たせるだけだった。
突然、スマートフォンが振動する。心臓が大きく跳ね上がった。
「紗月さん……!」
慌てて画面を開くと、確かに紗月さんからの返信が届いている。長く待ち続けた彼女の名前がそこに表示されているのを見た瞬間、僕の胸の中に微かな希望が芽生えた。
けれども、その希望は一行目を読んだ瞬間に音を立てて崩れ去った。
『悠人くん、メッセージありがとう。そしていつも私を気遣ってくれて、本当にありがとう』
その出だしは、彼女らしい優しさに満ちていた。しかし、その後に続く言葉が、僕の心を冷たく締め付けていった。
『私たちはこれからは別々の道を歩いた方が良いと思います。色々考えた結果です。これ以上、私は悠人くんに迷惑をかけられない。あなたが私にくれたものは、どれも本当に大切なものだった。でも、それに応えられない自分がとても辛いです』
指が震えた。目を凝らして画面を見つめる。
『だから、お返事は今日で最後にしたいと思います。悠人くんは私にとって、本当に特別な人でした。重ねて本当にありがとう』
呼吸が一瞬止まった。
目を見開いたまま、スマートフォンを握る手に力が入りすぎているのが分かった。
「え……?」
その言葉が頭の中で何度も反響する。
信じたくないという思いと、彼女の決意を感じ取ってしまう苦しさが入り混じる。
スマートフォンを一度膝の上に置き、深く息を吐く。そしてもう一度、メッセージを読み返す。紗月さんの言葉には、確かに感謝の気持ちが込められていた。しかし、その裏側に彼女の強い決意と覚悟が滲んでいるのを感じる。
目を閉じ、紗月との時間を思い返す。
初めて出会った日のこと。あの時、彼女が見せてくれた小さな笑顔が、どれほど彼を救っただろうか。
二人で語り合った日々。お互いの障害や将来の不安について話し合いながらも、笑い合える関係を築いていった。そして、つい最近の夜――二人だけの時間を過ごしたあの瞬間。紗月さんの手、柔らかな声、そして初めて触れた唇の感触。それは忘れられない記憶だった。
「どう……して」
再びスマートフォンを手に取り、メッセージを打ち始めた。
『どうしてなんですか?僕は紗月さんのそばにいたい。それだけでいいんです』
文字を打ち込むたび、胸に浮かぶ感情が手を震わせる。
しかし、画面を見つめ直して、指を止めた。
そして、ゆっくりと打ち込んだ言葉を一つずつ消していく。
胸の中の喪失感がどんどん膨らんでいくのを感じる。
スマートフォンを机に置いて、しばらく動けなかった。
窓の外では、雪解け水が滴る音がかすかに聞こえる。その音が、部屋の静寂をさらに際立たせていた。
目を閉じると浮かぶ紗月さんの姿。あの優しい笑顔、恥ずかしそうにうつむく仕草。彼女の声が脳裏に響き、その声が次第に遠ざかっていく感覚に襲われた。
「僕は……」
最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。胸に広がる空白は、何をしても埋められないものだった。
窓の外に見える景色は、やがて夕陽に染まっていく。スマートフォンの画面が暗くなり、二人を繋いでいた最後の光が消えた。
その日、僕はその場にただ静かに留まり続けた。
何もせず。いや、何もすることができなかった。




