第二十五章 別れ
続きです。いつもより長い章となっています。
最近、茉莉さんの姿をリハビリセンターで見かけていない。私と茉莉さんは、ほぼ毎日のように顔を合わせていたはずなのに今日も彼女の姿はどこにも無かった。それがしばらく続いていたので、さすがに心配になり私はそれを担当の作業療法士の女性に尋ねた。
そう言えば最近見ませんね、と彼女は笑顔で答えた。けれどそれはどこか、緊張感に満ちていた。
どこかはぐらかされていると思った私はどうしても気になり、良くないとは思ったが何度もしつこく聞いた。すると療法士の方は今の茉莉さんの様子を躊躇しつつも教えてくれた。
頭の中に浮かんだ言葉はどうして、だった。
私の手は震えていた。口の中が乾く。胸が締め付けられる。
リハビリ室から出てくる私のその様子を見て何かを察したのか麻衣子さんが覗き込んでくる。喉が詰まるような感覚で言葉が出てこない。ようやく小さく声が出る。
「茉莉さんが……危ないって……」
麻衣子さんは私を車に乗せて茉莉さんの病院へと向かってくれた。面会時間になんとか間に合い、すぐに茉莉さんの病室へと向かう。
モーター音を響かせ、麻衣子さんと共に電動車椅子が茉莉さんのいるベッドサイドに近づく。
窓際に沈む夕日が淡い橙色に染めた病室の中で彼女は深い呼吸を一つ、また一つと繰り返していた。小さな体はベッドの上で静かに横たわり、痩せた頬や細い指が、病魔に侵された彼女の過酷な状態を物語っていた。酸素マスク越しのかすれた呼吸音が部屋の静寂を埋めている。
「茉莉…さん…」
声が震えて、かすれてしまう。それでも茉莉さんは、その声を聞き分けると、酸素マスク越しにほとんど見えない微笑みを浮かべた。
「紗月……来てくれたんだ・・・・・・ありがとう」
酸素マスク越しの声は弱々しく、今にも途切れそうだった。必死に腕を動かし、茉莉さんの手に触れようとしたが、補装具に縛られた体はそれを許さなかった。
茉莉さんは、わたしの姿を目にするだけで十分だと言わんばかりに微笑みを絶やさなかった。
「ごめん、あんまり……こうなってるとこ、みせ・・・たく、なくて・・・・・・でも・・・紗月が来てくれて・・・・・・ほんと・・・うれしいよ」
「茉莉さん、すごくリハビリ頑張ってたからね。少し身体、休めたほうがいいんだと思う。きっとまた元気になるから」
茉莉さんは目を潤ませて言葉を紡いだ。
療法士さんの話では体調の不調を訴えた茉莉さんが緊急入院したのは一か月ほど前の事だったという。ついこの間までお互いを励ましあう、いや、どちらかと言えば励まされていた人がこのような状態になっている事に私は驚きを隠せなかった。
けれど茉莉さんの前ではそれを絶対に出したくなかった。心の中でどれほど動揺していたとしても努めていつも通りの姿で私は茉莉さんと接しようとしていた。
「そうだね……紗月の……言う通り……だよ……いい機会だから……しっかり…ねて…おこう…かな」
酸素マスク越しに茉莉さんは笑顔を浮かべる。私もそれに合わせて笑みを返す。
分かっていた。そして茉莉さんも恐らく分かっている。これまでとは少し事情が違って居ることを。
私には茉莉さんにかけるべき本当の言葉が分からなかった。暫く沈黙が続いた所で麻衣子さんが茉莉さんの体調を気遣い一旦今日の所は帰ろうという話になった。
「また…来るね」
帰り際に声を掛けると茉莉さんは僅かに首を動かして答えた。
麻衣子さんと並んで病室を出ると、反対側からスーツ姿の男性が歩いて来るのが見えた。麻衣子さんと比べて一回りほど大きくジャケットがはちきれんばかりのその男性は私たちの姿を見てややぎこちなく笑い頭を下げた。
-------ウエイトリフティングが趣味らしくて、なにかと筋肉の話になるからハイハイ、って聞き流してんだけどね
私は茉莉さんの話を思い出していた。病室へとむかうその人を申し訳ないと思いつつも私は呼び止めた。
「あの、、、寺尾さん、、、ですか」
自分の名前を知っていた事に寺尾さんは少し怪訝な表情を浮かべたが、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「ああ、どうも、、、以前どこかでお会いしました?」
寺尾さんの声は低く渋い、けれども優しい声だった。私は慌てて答える。
「あ、、、えっと、その、茉莉さんからお話を聞いていて、、、」
それを聞いて寺尾さんは恥ずかしそうに頭の後ろを掻く。プロレスラーみたいにも見える大きな身体の寺尾さんがそんな風に照れた顔をしているのが、なんとなくほほえましかった。同時にこんなに強そうで優しそうな人と付き合っていた茉莉さんがうらやましかった。
「あ、茉莉ちゃんのお友達の方ですね。私、茉莉ちゃんのパートナー、寺尾正人と申します」
いきなり茉莉さんのパートナーと紹介する寺尾さんの言い方が面白くて私は笑ってしまいそうになる。麻衣子さんが笑ってしまい、おそらく私と同じように感じたのだと思った。
「ふふっ、寺尾さんって、なんだか面白い方ですね」
「え、そうですか?いやぁ、実はよく茉莉ちゃんにもよく言われるんですよ。あなた昔から変わった人って言われない?ってね」
得意げに語る寺尾さんに、私たちは茉莉さんの深刻な状況を少しだけ忘れてしまう。
それから何度かお見舞いに行く度に、私たちは寺尾さんと茉莉さんの家族と顔を合わせるようになった。六十歳になる同い年同士のご両親と少しシャイな感じの弟さんは茉莉さんの事で大変にも関わらず、車椅子で訪れた私に嫌な顔をせず和かに接してくれた。
ご両親が茉莉さんの思い出話や寺尾さんの熱心なトレーニングの話をする度に茉莉さんはベッドの上で困ったような顔をしていたが、そんな雰囲気が私たちと茉莉さんを決して悲壮な間柄にせず、励ましに来ていた私たちが逆に助けられていた。
それは茉莉さんへの気遣いでもあった。家族や寺尾さんは私たちよりも近い立場で見守っていたからこそ、もう茉莉さんが回復する見込みの無い事を感じ取っていたのかもしれない。一日でも長く茉莉さんには生きていて良かったと思って貰いたかったのだと思う。
ある日、お見舞いに訪れると病室には茉莉さんしかいなかった。
「茉莉さん、調子はどう?」
「うん…今日は………最近だと……いい方だね………どこがっ………て…思うかも…だけど」
短く息継ぎをしながら茉莉さんは酸素マスク越しに笑ってみせる。辛そうな様子は一目瞭然だった。
「……紗月に…どうしても……言っておきたい………事があっ…て」
「うん、何?」
茉莉さんは少し顔を強張らせる。私を見つめるその眼は真剣そのものだ。
「私さ……本当に……今まで……幸せ…だったよ……あなたや、正人君…病院の人たち…友達………家族みんなに……こんなに……いい人たちに……恵まれて」
私と麻衣子さんは、静かにその話を聞いていた。
「こんな身体………だけど………色んなとこ…ろに行けて………おいしいものも……いっぱい…食べれて…………………きれいな………所.........一杯...みれて......外国にも......行ったんだよ....京都も...札幌も.......グランドキャニオン.......まさか行けるなんて思わなかったけ……ど………すごかったな......」
「茉莉さん...」
「......私、幸せだったよ.......だから........紗月ちゃん...........あなたも............幸せに........なって欲しいの.........たとえ…何があっても......わたしは.........紗月の…幸せを...望んでるから.......ね」
「う…ん」
茉莉さん、なんかそれじゃあ…まるで本当のお別れだよ。泣きたい気持ちをぐっと堪えて、私は茉莉さんの方へ車椅子を寄せると、麻衣子さんの力を借りずに茉莉さんの手に震える自分の手を重ねた。本当は手を握りたかった。だけど、私の今の力ではこれが限界だった。
茉莉さんは私の方を見て、いつもの優しい笑顔を私に見せてくれた。
その次の日、茉莉さんのお見舞いに訪れると、病室前が慌ただしくなっていた。
銀色のストレッチャーを運ぶ看護師が病室内に入っていくのが見える。他にも色んな器具を持った人達が足早に茉莉さんのいる病室内へと入っていく。
「何かあったのかしら...」
麻衣子さんが独り言のように呟く。嫌な汗を身体に感じる。動く所全ての身体の部分がガクガクと震えていた。
病室からひと際大きな体つきの人が出てくる。寺尾さんだった。
「.........秋山さん」
いつも素敵な笑顔で迎えてくれる彼の顔から感情が消えていた。私に何かを言おうと唇が少し開いている。けれども言葉は出てこず、彼の唇の周りに震えだけが広がっていく。
「茉莉っ!しっかりして!」
「姉ちゃん!頑張れ!負けんなよ!」
叫ぶ様に呼びかける声が聞こえる。寺尾さんは一瞬振り返るが、すぐに顔を戻した。
私と麻衣子さん、寺尾さんは茉莉さんの病室からすこし離れた場所で成り行きを見守るしかなかった。重い空気が流れる中、寺尾さんが口を開いた。
「今朝から、茉莉ちゃん、あまり良くはなかったんですけど、、、急にくるしくななっちゃったみたいで、、、、、、」
腰掛に身体を丸めて座る寺尾さんの姿。本当はとても大きいはずなのに、今日は縮こまってとても小さく見えた。
茉莉さんの事も、寺尾さんのことも私にはどうする事も出来ない。寄り添って手を取り合おうとしても私の身体は自由にならないし、怖くてガタガタと震えるだけだ。
情けなかった。悔しかった。そして、怖かった。私がいつか、周りの人をこんな不安な目に合わせてしまうかもしれないということに。こんな時に自分のことや心配ばかりをしてパニックになろうとしている自分の心を醜いと思った。
麻衣子さんが、寺尾さんの肩に手を置く。
「今はお医者さんにまかせるしかありません。私たちに出来る事は、何もありませんよ。少し落ち着きましょう」
落ち着いた、どこか安心できる声。本当に麻衣子さんにはいつも助けられてばかりだ。私の身体の震えが少し、収まった。
飲み物を買って来ますね、と麻衣子さんは自販機へと向かった。
「僕、やっぱり茉莉さんの所へ行ってきます」
寺尾さんは病室へと戻っていった。私は黙ってそれを見送る。
麻衣子さんが暖かいホットティーを二本買ってきて戻ってきたとき、再び病室から悲鳴が聞こえた。
「茉莉ちゃん!茉莉ちゃん!しっかりして!!」
お母さんの声だ。男の人が何かを言っている。声が重なって誰の声か分からないが口々に大きな声で何かを叫んでいる。
「姉ちゃん!おい!頑張れよ!目開けろよ!お姉ちゃん」
あのいつも控えめな弟さんからこんなに大きな声が出ている事にびっくりした。
呼吸が乱れてる。茉莉さんはもっと苦しいのかな。
心臓の音がうるさい。
手足が痺れる。汗がすごい。
「紗月ちゃん?............................」
麻衣子さんの声がだんだん遠ざかっていく。なんか私、ちょっとダメ見たい。
病室からストレッチャーに乗せられた誰か。看護師さん達。泣いている茉莉さんのお母さん。それを支える茉莉さんのお父さん。呼びかける弟さんと、寺尾さん。
頭が真っ白になってくる。麻衣子さんが何か言っている気がする。
ストレッチャーがこちらに近づいてくる気配が私の存在を引きつぶしに来ているように感じる。
そして私の意識はすうっと奥の方へと閉じて行った。
麻衣子さんから茉莉さんが亡くなったのを知ったのは、その次の日の事だった。
私が気絶してしまった後、集中治療室に運ばれた茉莉さんはそのまま帰らぬ人となった。全身の急激な筋組織の低下による呼吸器と心臓機能の低下。それが茉莉さんの死因だった。
お葬式は車椅子の私が行っても迷惑だろうし、私の為に場を乱すことになれば申し訳ないとは思ったが、どうしても最後にお別れを済ませておきたいと麻衣子さんや寺尾さんにお世話になりながらも弔慰を済ませた。沈痛な雰囲気の中、寺尾さんは私に茉莉さんが最後に感謝の言葉を述べていた事を教えてくれた。
茉莉さんが亡くなったことを悠人くんに話すべきだろうか。
痛みを分かち合うことが出来るのなら楽になれるのかもしれない。
だが、本当にそうだろうか、と私は逡巡する。悠人くんはその話を聞いてどう思うのか。無暗に話題にすることなのだろうか。悠人くんには前向きに生きて欲しい。
私はそれを話すことを辞めることにした。自分の心の奥へと封印をし、蓋をする事を決めた。




