第二十章 紗月の戦い、再び
再び紗月のリハビリが始まります。
冬の朝、リハビリ施設は静かな活気に満ちていた。
白い壁と天井に反射する陽光が、空間に冷たい清潔感を与えている。
無機質な平行棒、滑車装置、ストレッチ台、エルゴメーターが整然と並び、どれも訓練という目的のために存在している。その無言の威圧感が、施設を訪れる人々の心に重くのしかかる。
かすかに漂う消毒液の匂い。
人々の話し声や機器の稼働音が絶え間なく耳に届き、ここが「回復を目指す戦場」であることを告げていた。
施設の入り口が静かに開く。
私はヘルパーの麻衣子さんに付き添われ、リクライニング式電動車椅子に身を委ねていた。
肩から腰、股関節は補装具でしっかりと支えられている。
重苦しい金属製のギプスに覆われた、足を開いた形で固定されフットレストの上に乗せられている両足。
無防備で、そして無力な自分。
クリーム色のリハビリ用ジャージの袖からは腕を覆うギプス兼補装具、手首には安定を図るための補助具が装着されている。
首にはライトグレーのタオルが掛けられ、その上には淡い花模様の小さなブローチが控えめに光っていた。それは、麻衣子さんが私に贈ってくれたものだった。
「おはようございます、紗月さん」
30代前半の女性で、機能的な黒いポロシャツとベージュのパンツを身につけた理学療法士は柔らかな微笑みを浮かべていた。名札には「早川」と書かれている。
その表情はプロフェッショナルでありながら、相手を安心させる温かさを持っていた。
「今日からまた最初の一歩です。ゆっくり始めていきましょう」
その言葉に小さく頷いた。
「……よろしくお願いします」
か細く、まるで風に消えてしまいそうな声でなんとか答える。
最初の訓練は、上半身のストレッチから始まった。
早川さんは慎重にリクライニングの角度を調整し、肩にそっと手を置く。
「少しずつ肩を回していきますね。もし痛みを感じたら、すぐに教えてください」
「……はい」
ぎこちなく答えた私の白いギプスに覆われた両腕は、補助具で動きを制限されていたため、自力で持ち上げることはできない。早川さんは私の腕を支え、肩甲骨を意識しながらゆっくりと関節を回す。
動かすたびに、かすかな突っ張り感に堪える。
「痛いですか?」
「少し……でも、大丈夫です」
どこか諦めにも似た小さな声で答えを返す。
次に行われたのは、股関節周辺のストレッチだった。
早川さんは私の腰をしっかりと支えながら、両脚をゆっくりと広げる動作をサポートする。
ギプスと補装具が装着されていることで動きの範囲はごくわずかに限られている。
「この動きで、少しずつ股関節を柔らかくしていきましょうね」
早川さんがそう説明するたびに、私の額には汗が滲み、苦痛に耐える時間が続く。
「無理はしなくていいですからね」
早川さんの声が優しく響いたが、なんとかぎりぎりまで我慢しようとした。
(動けるようになるためなら……痛みくらい……)
内心で自分に言い聞かせるように唇を噛む。
最後に挑戦したのは、滑車装置を使った腕のトレーニングだった。
天井から吊るされた滑車に両腕を通し、早川さんが装置を動かしながらゆっくりと私の腕を上下させる。
「これは肩や腕の筋肉を少しずつ鍛える運動です。動きに慣れてきたら、ご自身でも少しずつ力を入れてみましょうね」
目を閉じたまま、言われるがままに腕を動かされていた。動くたびにギプスが微かに揺れ、その音が耳に重たく響く。
(これで本当に良くなるの?)
不安と焦りが混ざり合い、涙が瞳の端に浮かびそうになる。
それでも唇を結び、声を漏らさなかった。
訓練が終わったとき、緊張のほぐれと疲れから全身から力が抜け、私はリクライニング車椅子に深く体を預けた。
麻衣子さんがタオルで私の額の汗を拭いながら優しく声をかける。
「お疲れさまでした。本当に頑張りましたね」
タオルを受けながら、小さな声で呟く。
「私って……ちゃんと前に進めているのかな」
その言葉に、早川さんは静かに微笑みながら答えた。
「少しずつでも、進んでいますよ。それが一番大事なことです。」
帰り道、リハビリ施設の大きな窓から見える庭をぼんやりと眺めていた心には、わずかだが光が差し込んでいた。
(まだ遠い道のりだけど……またここに来て、少しでも動けるように)
そう自分に言い聞かせるように、紗月は静かに目を閉じた。




