第十六章 希望を
続きです。紗月の話です。
冷たい空気が漂う冬の朝、病室には静寂が満ちていた。
窓の外に広がる薄い灰色の空。街路樹の枝が風に揺れているのが見えた。
ベッドに横たわる体は、ギプスと補装具で完全に固定されていた。寝返りを打つことも、自分で手足を動かすこともできない。硬直した筋肉と痙性麻痺の症状が、自由を根こそぎ奪っていた。
「……ふぅ……」
わずかに漏れる息すらも、全身に響くような痛みを伴う。両腕は硬直して肘から肩にかけてギプスで固定され、手首はリウマチに似た炎症を抑えるためのサポーターが装着されていた。指はこわばり、わずかに動かすだけでも激痛が走る。
脚には太腿から足首にかけてギプスが巻かれ、外側には姿勢を支えるための補装具が取り付けられている。腰や背中には硬直を和らげるための特殊なベルトが巻かれ、胸元にも動きを制限するための柔らかなサポートが施されていた。
身体のどこにも力が入らず、私の体はベッドという檻の中に閉じ込められているようだった。
私が最も苦しいのは、この拘束された状態そのものではなかった。リウマチに似た症状からくる関節の炎症と痙性麻痺の硬直が、まるで体中に刺すような痛みを生み出していた。
「っ……痛い……」
その声は誰にも届かないほど小さく、か細い。痛みを紛らわせるために目を閉じても、体のどこかで常に違和感や苦痛に苛まれる。
(こんな体で……何ができるんだろう)
胸に浮かぶのは、自分の無力さへの絶望だった。
「紗月さん、少し体位を変えますね」
看護師が静かに声をかける。柔らかな声にわずかに安心して、目を閉じたまま小さく頷いた。
「お願いします……」
看護師は手際よくギプスや補装具の位置を確認しながら、体を慎重に横向きにしてくれた。
動作のたびにギプスの擦れる音が小さく響く。
「これでどうですか?少しは楽になりましたか?」
「はい……ありがとうございます」
看護師の優しい手は、わずかな救いだった。
日々の中で人の温もりを感じられるのは、この瞬間だけだった。
「お水、飲みますか?」
「少しだけ……」
ストローが差し込まれたコップを口元に運ばれ、一口だけ水を飲んだ。
その動作でさえ疲労を感じるほど、体力は衰えていた。
夜になると、病室はさらに静まり返る。窓の外には月がぼんやりと浮かび、街灯の光が微かに部屋の天井を照らしていた。
天井を見つめながら、深い息をつく。
(悠人くん……)
心に浮かぶのは、手術前に彼が訪れた日のことだった。彼が笑顔で励ましてくれた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
(紗月さん、絶対に大丈夫だから。僕も頑張るから、一緒に前を向こう)
その言葉に、どれほど救われたことか。だが、今の自分はその期待に応えられていない気がしてならなかった。
(こんな状態の私を見たら、悠人くんはどう思うんだろう)
痛みと孤独が、心を少しずつ蝕んでいった。
翌朝、看護師にお願いをした。
「……紙とペン、持ってきてもらえますか」
看護師は少し驚いた様子を見せたが、すぐに微笑んで頷いた。
「もちろんです。少しお待ちくださいね」
数分後、紙とペンが渡された。
「書けるか分からないけど……」
震える手でゆっくりとペンを握ってみる。指は硬直しており、看護師が手を添えなければ動かすこともできない。それでも、一文字ずつ、懸命に書き始めた。
「悠人くんへ。
手術が終わりました。でも、今の私は全然動けなくて、体中が痛い毎日です。ギプスや補装具に囲まれて、寝たきりの生活が続いています。
それでも、悠人くんの言葉を思い出すと、少しだけ力が湧いてきます。『一緒に前を向こう』って言ってくれたあの言葉が、私を支えてくれています。
正直、不安でいっぱいです。体がこのまま動かなかったらどうしようって、そんなことばかり考えてしまいます。でも、悠人くんのことを考えると、少しずつでも進まなきゃって思えるんです。
また会える日を楽しみにしています。どうか元気でいてくださいね。紗月」
書き終えた手紙を託し、紗月は再びベッドに横たわった。
窓の外から差し込む朝日が、柔らかく彼女の顔を照らしていた。
(これでいい……少しでも伝わるといいな)
心の中でそう呟き、静かに目を閉じた。ギプスに覆われた体は依然として重く、痛みは消える気配もなかった。それでも、心には小さな希望の灯がともっていた。
「また……会おうね、悠人くん……」
その声は小さく、病室の静寂に溶け込んでいった。




