第十五章 ごめんなさい
続きになります。悠人のお話です。
薄曇りの朝、リハビリ室に柔らかな日差しが射し込んでいた。窓から見える空は灰色がかり、木々の葉は冷たい風に揺れている。僕は車椅子に腰を掛け、少し緊張してリハビリの開始を待っていた。
濃いグレーのスウェット上下。薄手のジャケットを羽織り、足元は柔らかい素材のリハビリ用シューズを着けている。動きやすさを重視した服装だったが、スウェットの袖口や裾は少し擦り切れている。
車椅子のひじ掛けに手を添えて、指先を小刻みに動かしていた。手足の神経の硬直と筋肉の萎縮が進む中、日々の訓練で少しでも動きを改善しようと必死だった。
「大崎さん、今日もよろしくお願いします」
担当の理学療法士が声をかける。僕は顔を上げて挨拶する。硬い顔をしているのが自分でも分かる。
「お願いします。できる限り頑張りたいので……」
なるべくいつも通りにやろうとはしていたが、やはり焦りを隠せなかった。
(紗月さんが手術を終えたら、きっと外に出られるようになる。そのときに、僕も少しでも歩けるようになりたい──。)
まずは基本的なストレッチから始める。理学療法士が僕の腕を持ち上げ、慎重に肩関節をほぐしていく。
「ここ、少し固くなっていますね。痛みはありませんか?」
「少しだけ……でも、大丈夫です」
額に汗を滲ませながらも、平静を装って答える。理学療法士の手が腕を回すたびに、筋肉が引きつり、関節からかすかな音がした。それでも、歯を食いしばりながらなんとか耐えた。
次に、足のストレッチに移る。ベッドに横たわり、右足を持ち上げられると、一瞬顔をしかめてしまう。
「右足、かなり張っていますね。無理せず進めましょう」
理学療法士の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
(右足はずっと動きが悪い……でも、少しずつでも前に進むしかない。)
ストレッチを終えると、車椅子から歩行補助器具に移るための準備を始めた。アシスタントが体を支えながら、慎重に歩行器の前に立たせる。
「ゆっくりでいいですからね」
理学療法士の声に、小さく息を吐いて、歩行器のバーをしっかりと掴む。金属の冷たい感触が手に伝わり、全身の筋肉が緊張で強張るのを感じた。
「……行きます」
足元を見つめ、右足を前に出した。筋肉が悲鳴を上げるような感覚が広がり、全身に力を入れないと足が動かない。それでも、一歩、また一歩と前進を続けた。
額から汗が流れ、スウェットの背中は湿り気を帯びていた。歩行器のバーに握る手も力が入りすぎ、指先が白くなっていた。それでも、止まらなかった。
15分が経過し、20分が過ぎた。足元の感覚は鈍り、全身のバランスが次第に崩れ始めていた。
「大崎さん、ここで一旦休憩しましょう」
理学療法士が声をかけたが、首を横に振った。
「まだ、行けます。あと少しだけ……」
精神力だけで堪えていたが、体は限界を迎えようとしていた。
そして、右足に力を込めた瞬間、鈍い音が体内に響いた。
「……っ!」
下半身に激痛が襲う。体が崩れ落ちるように倒れ、歩行器のバーにかかる体重が一気に増した。
「大崎さん!」
理学療法士とアシスタントが慌てて支えるが、足元の激痛で動けなくなっていた。
「足が……いっ……」
その呟きは、リハビリ室全体の空気を凍らせた。
僕は車椅子に戻され、そのまま検査室へ運ばれた。
CTスキャンやX線撮影が行われ、医師がその結果を確認した後、診察室で向き合った医師の表情は厳しかった。
「大崎さん、右足の骨に亀裂が見つかりました。また、筋肉への負担もかなり深刻です」
僕は言葉を失ったまま、ただ医師の声に耳を傾けた。
「今後しばらくは、車椅子での生活に戻らざるを得ません。リハビリは安静を最優先に進めます」
その言葉は冷静だったが、それは僕の胸に重く暗く響く。
(紗月さんに会うために頑張ったのに……これじゃあ……)
医師はさらに続けた。
「無理をすれば、回復はもっと遅れる可能性があります。大崎さん、今は何より体を守ることを最優先にしてください」
その夜、病室で一人ベッドに横たわっていた。
右足にはギプスが巻かれ、固定された状態で動かすことができない。
車椅子がベッドの近くに置かれているが、今はそれに乗ることさえ出来ないほど、体は痛みに支配されていた。
窓の外には月が昇り、街の灯りが淡い光を放っている。
(これじゃ……紗月さんに会いに行けない)
彼女が手術を乗り越えたその姿を想像すると、胸が締め付けられるようだった。本来なら「頑張ったね」と励ましの言葉を伝えるはずだった。それなのに、僕は彼女に会うどころか、病室から出ることさえできない。
ベッド脇のテーブルには、リハビリの合間に書き綴っていた僕のノートが置かれている。そこには、紗月と一緒に行きたい場所や、彼女に伝えたい言葉が綴られていた。
「海に行こう……って言いたかったのに……」
深い静寂が病室を包む中、天井を見つめたまま、自分に言い聞かせた。
(今は耐えるしかない。それでも、また一緒に歩く日を作るんだ)




