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 ◇ ◇ ◇


 さて、初めて見掛けた、あのカンカンを打ち鳴らしていた子についてですが。


 あの子は誰なのですか、と椿さんに質問したことがありましたが、彼女もよくわからないという事でした。


 この建造物は、雲さえ突き抜けるほどに高層なのですが、その実中身は三階までの居住空間しかしつらえがありません。


 その三階の内で暮らす者は、あの子と椿さんの二人しか居ないようなのです。


 しかも、あの子はカンカンを鳴らすために居る存在であって、椿さんのように外出したりする事などは、滅多にないそうで。


「先生? 新海先生?」

「ふん、どうしました?」


「先生は大人なんですよね?」

「大人ですよ。年齢的に」


 またその質問かと思いました。


 椿さん、あるいは彼女と似た境遇の子達にとっては、大人という存在が身近ではないようなのです。それ故に、私の存在が珍しく、彼女は様々な事を聞きたがるのが常でした。


 また、この建物の二階には、本の虫でも住んでいたかというほど大量の書物が保管されていました。


 本の中身は様々で、特に「先生」という人物が出てくる物も中にはありました。


 椿さんのイメージする先生は、きっとその本達によって形作られていった物だと思われます。


 砂嵐や台風の日のような、外出の難しい日などは、本を読む事くらいしか時間の使い道が無いのです。それだけに彼女は、いくらか博識で、いくらかませていました。


 時々、私もはっとしてしまうような、意表をついた事を言うような女の子でした。


「新海先生は、本当に先生なんですか?」


「先生でしたよ。前に居た場所では、子供達に色々な事を教える立場でした」


「へぇー、いいなぁ。私も早く大人になりたいなぁ」


 私達はちょっとしたテーブルと椅子に腰を掛け、些細な言葉のやり取りをしていました。


 ここへ来た初めこそ、私は元居た世界へ帰りたいものだと強く願っていました。


 ですが、数週間も過ごしてしまうと、椿さんと過ごす日々が、だんだん私の心を掴むようになってきていました。


「大人になりたいだなんて、急ぐ必要はありませんよ」


「そうなんですか?」


「そうです。椿さんは、大人になって何かしてみたい事があるんですか?」


「そう言われると、別に今は無いけど。それはそのうち見つかるかもしれないじゃないですか。それに、私も大人みたいに、子供の世話をしてみたくて」


 椿さんの言う「子供の世話」というのは、おそらく物語の中でそれらしく語られている学校や、家庭の事なのだろうなと推測しました。


 彼女は、私が元居た世界と同等の生活を送っているわけではありません。


 親の愛も、他人を好きになる感情も、誰かに憧れる気持ちも、全て空想から着想を得た空想でしかありません。


「否が応でも」


「新海先生……?」


 椿さんは、純粋な瞳で私の事を見つめていました。


「否が応でも、あなたは大人になってしまうのです。急ぐ必要がどこにあるでしょうか」


「そうです、けど……」


「大人は、子供に何事かを上から言いたがる生き物です。そんな事をしなくても、どうしたって子供側に勝ち目なんてあるはずない。それなのに、言いたがるのです。それがなぜか、わかりますか?」


「私には、わかりません」


「それは、唯一大人が子供に負けてしまう点があるからです。そのために、言いたくなってしまうんです」


「そんな点があるんですか……? それって一体……」


「唯一大人が子供に負けてしまう点は、純粋さです。どれだけ高名で名誉を得た大人であっても、素直でまっさらな子供の心には敵いません。私達大人は、まだ幼いあなたや、他の子達の事が、ずっとずっと羨ましいのです」


「そういう物なんですか?」


「ええ。……そしてまた、どれだけ欲望を満たそうと、感情を満たそうと、子供の頃ほど楽しかった感情を超える事など、到底できないのです。けれど、少しでもあの時の感情を取り戻したくて、私達大人はそれを人生の指針にしようとする。それは、恐ろしいほど早い段階でやってきます」


「それって、いつ頃やってくるんですか……?」


「十代も半ばを過ぎれば、もうとっくに人生は下り坂です。幼い頃の楽しさを超えるものは出てきません。そこで、生涯楽しめる物を偶然掴んだ人だけが、その後も本当の意味で楽しく過ごせるのです」


「掴めなかった人は……。掴めなかった人の事を考えると、暗くなってしまいそうです……。そんなの、あんまりじゃないですか……」


「だからこそ、人は誰かに託すのかもしれませんね。自分が掴み損ねた楽しさを、次の世代こそはと願うのかもしれません。そうでなければ、我が子の事を自分の事のように楽しんだりしないと思いますよ。多様な人生がある中で、人間は思いのほか単純な身勝手さで生きています。


 私達は、誰かに託された血でありながら、無数に掴み損ない続けてきた楽しさを、脈々と追い続けている途中なのかもしれません」


「……先生の言葉は、私にはまだちょっと難しいです」


「……そうですか。これは言葉を選び間違えたかもしれません。でも、子供であるあなたが羨ましい事は確かなのです。……本当に楽しい瞬間は、あなたが一番よく知っているはずです。あるいは、椿さんなら、まだこれからなのかもしれない。ちなみに、私は国語の授業が人生で一番楽しい瞬間だったように思います」


「へぇー。国語の授業ですか。いいなぁ。私も、その授業を受けてみたいです」


 椿さんのその言葉を聞いて、私ははっと我に返ったような思いでいました。


 そうです。今のこの状況で、彼女が学校のような場所へ、通えるわけもないのです。


 自分と同い年の子供達と、同じ空間で、同じ内容の授業。


 そんな物を受け取れるほど、豊かな境遇ではありません。


 一歩外へ出れば、右へ左へと砂が舞う、言葉通り殺風景で寒々しい現実しか待っていません。


「いつかそんな授業、私も受けたいです。新海先生」


 彼女の言葉に、私はどう返事をすべきかわかりませんでした。


 何事かを言いたがる大人のくせに、大変歯痒い思いでした。


 ここが、私の勤める学校ならば、多少無理にでも彼女の机を教室に設けてあげたいとさえ思いました。


 叶うなら、それが一時的にでもいいからと願いました。


 これだけ切なく願い事をするなんて、私の人生にそうあった事ではありませんでした。


 私が次の瞬きをしてしまうと、椿さんや、私達の間にあったテーブルが、一瞬にして消えてしまいました。



 急に視界が明るくなり、初めはその明るさに慣れず、目を開けていられませんでした。


 明るさに慣れてくると、そこは、いつもと変わらない中学校の職員室。


 座り慣れたキャスター付きの事務椅子に、相変わらず乱れ気味のデスクがそこにありました。


 ファイルの背中には、受け持ちのクラス、何年何組などと色々書かれていました。


「あれ? 新海先生、いらっしゃったんですか⁉」


「浅木先生……」


 私に声を掛けてきたのは、理科の担当をしている浅木先生でした。


「どうかされたんですか?」


「いえ……」


 私は、デスクの上に無造作に置かれていた一番上のファイルを手に取り、ぱらぱらとめくっていきました。


 生徒達のプリントが何枚も綴じてあるのですが、昔ほど熱心に赤ペンで添削していないような気がしました。


「浅木先生は、学生の頃、どんな授業が好きでしたか?」


「え? うーん。……私はこれといって無かったですかねぇ。あ、でも国語は苦手でした! 正解に納得がいかなかったりして……」


「そうなんですね」


「え、何かあったんですか?」


「いえ。今日も授業頑張ろうって、そう思っただけです。では」


「あっ、もう!」


 私は授業のための道具をまとめ、席を立ちました。



 教室へ向かう自分の足が、妙に力んでいるようでした。


 私が国語の授業を行なう理由。

 それを、椿さんから教えてもらったような気がしたのです。

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