01
心を透かすような風が、どこからともなく吹いてきていました。
私が目を開けると、一面砂で覆われた景色がどこまでも続いているばかりでした。
高低様々な砂の山と、人でも登れそうな勾配の緩い砂丘が、巨大化した植物の畝のように向こうまで延々。
ここの大地は、そうした砂が激しく波打つようで。
私は、今自分が、どうしてこのような、荒み切った辺鄙な地に居るのか、わかった物じゃありませんでした。
年季の入った白のワイシャツ。
そのシャツの折り曲げた襟から出て結ばれた紺のネクタイ。
物ぐさからしばらく洗っていなかった黒のスラックス。
この装いが私の一張羅でした。
はてなと思いました。
私は確か、授業を終えて、教室から職員室へ移動している途中だったはずです。
今回も漏れなく授業を学生相手に行ない、たったんと職員室までの階段を下っていたはずです。
……ふんふん。
私の記憶に誤りがなければ、階段を下るも何も、足を滑らせて転んでしまったような記憶がちらついていました。
一度か二度は、正確に踏み板へ足を下ろしたような気もしたのですが、それも曖昧なものです。
それからは視界が急転して、危うく股の裂けるような思いまでして、鈍い音を奏でながら転げ落ちた気がしています。
漫画のような、ころんころん・ごろんごろん、という調子の良さげな音などしませんでした。
至って平凡な、言ってしまえば取るに足らない物音しか鳴りません。
はてなと思いました。
そこで、階下へ転がり落ちたはずの私が、しねくられたような痛みに耐えつつも目を開くと、ご覧の有り様だったわけです。
ここはなんという土地なのでしょうか。
さっぱり見当もつきません。
昔、鳥取の辺りで見た景色を思わせます。
否、図書館で気ままに開いた世界旅行大辞典の、エジプトの項目で見掛けた砂漠のよう。
しかしながら、私の前に開けた景色とそれらの記憶には、明かな差異がありました。
砂粒は大抵、土の色に似た具合であるのに、私の足元や目の前をぼうぼうと舞う砂粒は、灰の色にしか見えませんでした。
時々、胡椒のような黒い粒もある。
ひょっとしたら砂ではないのかもしれません。
なんぞこれらは砂ではないのか?
ならばこれらはどういう成分のものか?
私は理科の先生ではありませんので、地質に対する造詣なども深くはありませんでした。触れてみて思うのは、砂粒よりも一回りくらい粒が大きい事と、色彩的な明度が低い事。
手触りも固く、砂のようにさらさらとすくえるというわけでもありません。
私が一人、状況に頭を悩ませていると、背後から甲高い、何かの音が響いてきました。
金属の打ち合うような音でした。
はっとして振り返ると、私の背後には、何階建てとも言えない超高層の建物が聳え立っていたのです。
くすんだ黒色のその建物は、途中に一切窓が見られませんでした。
いえ、もしかするとこれは、私の見ている角度からは窓が無いだけで、反対側にはあるのかもしれません。
いつまでもぽつねんとここへ立ち尽くしているわけにもいきませんので、私は建物をぐるりと一周してみる事にしました。
金属音の原因を探ってやろうと考えたのです。
私が歩き始めると、乾いた足音が生まれました。
以前として吹き付ける砂の風は、私の紺のネクタイをはためかせていました。
七三に整えていたはず私の髪を、放埓なくらいめちゃくちゃにしてしまうので、これにはとても参りました。
建物の外壁に沿って進んでみると、砂の地表からおよそ二メートルと離れていない高さに、幹のような出っ張りが見えてきました。
その出っ張りの先端に腰を掛け、手にトンカチのような物を持っている子供が居ました。
反対の手には、金属でできた板を提げているようでした。
ははん。どうやら、あのトンカチを、まるで金床に打ち付けるようにして鳴らしていたらしいのだと、私は推察しました。
建物の陰からひそかに様子を観察していると、その子は適当な時間を置いて立ち上がり、カンカカンカとそいつを打ち鳴らすのです。
砂の吹きすさぶ中に、その打ち鳴らした音はずいぶん遠くまで届くようでした。
鏡かと思うほど静止した水面に石を投げ入れた時と、ほとんど変わらない波紋をそこから発するのでした。
けれども砂の風は相変わらずで。
出っ張りに居たその子は、被っていた紫色のキャスケット帽を、それまで以上に深く被り直し、改めてカンカカンカとやり始めました。
誰かに向けた信号なのでしょうか?
そう疑問を抱いた時、私の後ろから遠慮がちな声が聞こえてきました。
「誰……ですか?」
反応して振り返ると、出っ張りで金属音を鳴らす子と大して変わらぬ年の子が、そこにしれっと立っていました。
「あ、こんにちは、ですね?」
「こんにちは……?」
小首を傾げるその子は、どうやら女の子のようでした。
着ている服には、ここらで舞い上がる砂粒をいくらか付着させていて、思いのほか不潔そうに見えてしまいました。
出っ張りの子と同じく、紫のキャスケット帽を目深に被っていて、身長はあの子よりもやや高いでしょうか。
私のおへそを軽く超えるくらいの背丈ですが、愛らしき声の高さと顔付きから、私はこの子が女の子であると判断したのでした。
「私は新海というんです。あなたは?」
「私は椿っていいます。新海さんは、もしかして大人なんじゃないですか?」
「え?」
もしかしてと言われても、私は平気で大人でした。
二十代後半でそこそこ大人なつもりでいました。
ですがこの子からすると、私はどことなく子供のように見えたのでしょうか?
外見も、声も、雰囲気も、さすがに私を十代だと判断するには若干無理がありますが。
「大人ですよ。ええ、大人ですとも」
「あは。じゃあ私、初めて大人の人としゃべりました!」
椿さんは、そのあどけない顔のままに笑いました。
不可解な事を口にする娘でした。
私としゃべった事。それが、初めて大人とした会話だと言うのです。
いえ、それならまず、不可解さで挙げるべきはこの砂の世界なのでしょう。
一歩踏み出せば、右に左に砂塵の舞う景色。どこか荒廃した情景。
呼吸さえ異色で、内側から肺の形さえ自覚できてしまうこの大気。
長らくここで足を止めていれば、おそらくは身体に異変をきたすに違いありません。
「椿さん、移動しませんか?」
「え? あ、そうですね」
私の危機感は当たっていたようで、椿さんは元々身に着けていた首巻のような衣類で口元を覆いました。
「じゃあ、中へ行きましょうっ」
椿さんの小さな手に手を引かれ、私はその黒い建物の中へ入る事となりました。
最初私が立っていた位置の、ちょうど真裏に当たる場所。そこに、とても小さな扉が建て付けられていました。
「さあ、新海さん早く」
「待ってください。私がここを潜り抜けるには、いささか時間が必要です」
大人の図体では、場合によっては通れない事もあると思われるその扉に、私はまず顔を突っ込みました。
顔は無事に入ったのですが、今度は肩が引っかかってしまい、これはうまくありませんでした。
「身体を回さないと難しいと思います、新海さん」
「回す……のですか?」
椿さんに肩の辺りを押してもらい、体勢を九十度捻ると、精々入り進む事ができるといった塩梅でした。
「あ、でも今度は胸板が引っかかってるかも」
入口の横幅が、胸板の厚さと同じくらいだったのかもしれません。
絵画で言うところのバストアップの部分まで入れた辺りで、止まってしまいました。
「こうすれば、どうかなぁ……」
一時的に身動きの取れなくなっていた私でしたが、椿さんは思わぬ方法で私をそこから脱出させてくれました。
彼女はなんと、胸と扉の枠の接触部分に多量の砂を流し込み始めたのです。
道具を用いたのか、手で砂をすくい上げたかは見えないのでわかりませんが、とにかく「流し込む」と形容できるほどの量でした。
砂は、私と扉の枠の隙間に入り込み、見事に私を建物の中へ通してくれました。
「大人が入るのは初めてかもです。新海さん」
私の後ろから新たに入ってきた椿さんは、後ろ手に扉を閉めて、そのように言いました。
建物の内部は思いのほか広く感じられ、その階には、私と彼女以外誰も居ないようでした。
そこは、焼いた杉板のような浅黒い木材で出来た、割合立派な家屋のようでした。