179. 旅立
16日目―――1
翌早朝、まだ空に星々が瞬く時刻、僕、『彼女』、そしてシャナの三人はシャナの家を出て、村と外界とを隔てる結界へと歩みを進めていた。
『彼女』の話によれば、通常、神都は聖空の塔含めて、特に霊力による転移を阻害する結界が張られたりはしていない。
しかし今は、僕と『彼女』という二人の霊力を使用出来る存在が、神都の外で“逃亡中”という状態のはず。
ヨーデの街の時の様に、事前に霊力に対する対策を施されていないとも限らない。
だから僕と『彼女』は、まずは神都の郊外に一度転移して、街の様子を探る事にしていた。
大丈夫そうなら、日の出の時刻直前に聖空の塔直下の庭園へと再度転移、転移出来そうになければ、一旦、リーデルの村に戻ってくる。
僕達は既にそう申し合わせていた。
「聖空の塔直下の庭園で、神様と鉢合わせしたらどうしよう?」
「“門”さえ開けば問題ない。女神は“門”を通れない」
やがて村と外界とを隔てる結界の手前に辿り着いた。
僕は村に残るシャナの方を振り返り、感謝を伝えた。
「色々ありがとう」
「私の方こそ、カケルには感謝しかない。あなたが救世主で良かった」
「僕はまだ世界を救ったりしてないよ?」
「私には分かる。消滅するはずだった私をあなたが救ってくれた。だからきっと、あなたはこの世界も……」
そう話すと、シャナが僕の右手を両手でそっと包み込んできた。
彼女の手の中には、何か小さくて硬い物が握られていた。
「これは……?」
手の中に託された品について問い掛ける間も無く、『彼女』が慌てて僕達を引き離しにかかった。
そしてシャナに詰るような視線を向けた。
「ま、またお前は!」
シャナは素直に僕の手を離すと、一歩下がった。
「守護者よ、単なる別れの挨拶だ」
「別れの挨拶なら、言葉だけで良いはずだ」
『彼女』が抗議の声を上げる中、シャナが僕に囁きを届けてきた。
『私は言葉通り、私の全てをあなたに託す。あなたが願いを込めてその石に触れれば、どんなに離れていようとも、私は必ずあなたの下へ駆けつける』
一方、シャナが僕に近付く事にイライラを拗らせていたらしい『彼女』は、シャナに抗議を続けていた、
「大体お前は、口では私とカケルの仲に割り込まないと言いながら、いつも真逆の行動を取っているではないか」
シャナが小首を傾げた。
「あなたからカケルを奪うような行動は取っていないはずだけど……?」
「自覚が無いのか? 自覚無くそういう行動を取るのは、お前が邪な感情を抱いているからだ」
「人を愛するという気持ちは、邪な感情では無い」
「や、やはりカケルに邪な感情を抱いているのだな!?」
「だから、人を愛するという気持ちは……」
『彼女』とシャナが不毛な論争(?)を繰り広げる中、僕はそっと、託された右手の中の品を確認してみた。
小指の爪の半分くらいしかない小さく平らな小石。
それは浅緑色をした、彼女の瞳と同じ色に輝く美しい宝石に見えた。
シャナの囁きから推測すると、つまり彼女を“召喚”出来るアイテム、という事だろうか?
僕は以前、『彼女』から貰った紫の結晶を盗まれた時の事を思い出した。
この石は紫の結晶よりも遥かに小さい。
普通に落としてしまったらどうしよう?
そんな事を考えていると、再びシャナから囁きが届けられた。
『心配しないで。その石は決してあなたから離れない。懐にでも忍ばせておいて』
見ると、まだ『彼女』とシャナは論争(?)を続けている。
『彼女』と話しながら、同時進行で僕にも囁きを届ける事が出来るのは、さすが精霊というべきか?
僕は言われた通り、その宝石を懐に入れてみた。
すると、まるで磁石の様に身体にその宝石が吸い付くのを感じた。
どんなに動いても決して外れない。
しかし手で触ると、すぐ取れる。
そして決して、地面に落下しない。
僕にとっては、少し不思議で面白い感覚。
つい調子に乗って、色々試していると、それに気付いたらしい『彼女』が怪訝そうな声を掛けてきた。
「カケル? どうしたのだ?」
「あ、ごめんごめん。大丈夫だよ」
僕は慌てて何でもないという感じで、腕をわざと大きく動かして見せた。
しかし『彼女』の表情は、逆に険しくなった。
「カケル……まさかその奇妙な動き、精霊の邪術によるものか?」
そして『彼女』は、再びシャナに詰め寄った。
「見ろ、お前の邪術でカケルがおかしくなっているぞ? 早く術を解け!」
「私は邪術など掛けていない」
このままでは、的外れな会話が再開される。
危険を感じた僕は、慌てて『彼女』の手を引いた。
「さあ行こう。時間が勿体ないよ?」
「そ、そうだな……」
『彼女』はそのまま、引いた僕の手に自分の腕を絡めてきた。
そして少し頬を染めて俯いた。
その様子を目にしたシャナが、呟くのが聞こえた。
「なるほど、これが嫉妬と言う感情……」
その呟きがよく聞こえなかったらしい『彼女』が問い返した。
「む? 何か言ったか?」
「少しあなたの気持ちが分かったから、安心して。これからは、あなたが見ている前では、カケルの手を握ったり唇を重ねたりしない」
「な、な、な、何を言っているのだ、お前は!?」
シャナの不穏な言動に、真っ赤になって再び声を荒げる『彼女』を宥めながら、僕は結界を抜け、村の外へと足を踏み出した。
結界を抜けた瞬間、視界が切り替わった。
湖畔ののんびりした獣人達の村は消え、どこまでも深く濃い緑のジャングルが広がっていた。
リーベルの村が幻想であったかのような錯覚に捕らわれた僕は、思わずシャナに念話を送っていた。
『シャナ……』
『カケル、何かあった?』
すぐに囁きが戻って来た事に少し安心した僕は、思わず苦笑してしまった。
「あ、ごめん。何でもないんだ。ちょっと間違えて……」
シャナと村が幻で無かったかどうか確認の念話を送った、と正直に説明するのは少し気恥ずかしかった僕は、“間違い電話のふり”をする事にした。
『さっき別れたばかりなのに、もう私の声が聴きたくなった?』
『え? いや、そういうわけじゃ……』
『冗談よ。じゃあ気を付けて』
シャナの思わせぶりな囁きに、思わずしどろもどろの念話を返してしまったけれど、とにかく気持ちを切り替えた。
そして隣の『彼女』に声を掛けた。
「さあ、行こう」
僕達は手を取り合い、霊力を展開した。
次の瞬間、僕達は神都の北の橋のたもとに転移していた。
周囲に視線を向けてみたけれど、空が白み始めるこの時間帯、幸い人影は見当たらない。
そして街の中心方向に視線を向けると、天を衝く威容を見せる、あの聖空の塔が聳え立っているのが目に飛び込んできた。
久し振りの神都。
自然と、心の中を様々な想いが掛け巡る。
しかし今はまだその感傷に浸る時ではないはずだ。
気を取り直した僕は、前方の神都中心部に向けて霊力の感知の網を広げてみた。
聖空の塔周囲まで感知網を広げてみたけれど、特に異常は感じられない。
強いて言えば、異常を感じないのが異常、という気がしないでもなかった。
女神は、僕と『彼女』が神都にやってくるとは、予想していなかったのだろうか?
僕は隣で身を固くしている『彼女』に囁いた。
「じゃあ、聖空の塔直下へ転移しようか?」
『彼女』が緊張した面持ちで頷いた。
夜明けまであと10分少々のはず。
シャナの言葉通りであれば、間も無くポポロが“門”を開く事の出来る時間帯。
僕は『彼女』と手を取り合い、再び霊力を展開した。
次の瞬間、聖空の塔直下の庭園に立っていた。
僕は『彼女』と共に霊力を展開しながら、周囲に警戒の視線を送ってみた。
しかし僕達の緊張感とは裏腹に、美しい花々が風に優しく揺れるだけ。
「なんだか、平和だね……」
「油断するな。まだ分からぬ」
最悪、女神か守護者達が待ち構えていると覚悟していた僕は、少し拍子抜けした。
このまま何も起こらなければ、ポポロが開く“門”を通って、彼女に会いに行くだけ。
と、その時……
上空から光輝く何かがゆっくりと降りて来るのが見えた。
それに気付いた『彼女』が呆然とした顔になった。
「主が……」
「もしかして、君の神様?」
僕の言葉が耳に届かないのか、『彼女』は光り輝く何かをただじっと見つめている。
やがてその輝きは、地上すれすれで停止すると、次第にその光を弱めだした。
それと同時に、輝きの中から細身の女性の姿が浮かび上がって来た。
身を包むは、ゆったりとした白く輝く不可思議な衣装。
美しく纏め上げられ、装飾品で彩られた金色の髪は輝きを放ち、
エメラルド色の双眸に優しい笑みを宿し、
しかし有り得ない程に完成され、均整の取れた顔に浮かぶ表情には、少しも温もりを感じる事は出来ず……
女神が直接、僕達に語り掛けてきた。
「久し振りじゃな。アルファ、そして冥府の災厄よ」




