132. 墜落
1日目――1
―――つんつん。
頬に何かの刺激を感じて、僕はゆっくりと目を開いた。
「ここは……?」
目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは、丈の短い芝生のような植物。
日差しが眩しく、暖かい風が吹き抜け、頬を心地よく撫ぜていく。
どうやらどこかの草地に、うつぶせに倒れているらしい。
「確か、巨大な魔法陣から攻撃?を受けて……」
ぼんやりとしていた頭がゆっくりと覚醒していく。
と、またも何かに頬をつつかれた。
同時に、まだあどけなさの残る声が掛けられた。
「……生きてる?」
「!?」
声の方向に視線を向けると、小枝を手にした一人の少女の姿が目に飛び込んできた。
僕はそのままの姿勢で問い掛けてみた。
「君は?」
「うわっ! 喋った!」
そう口にした少女は、僕からすると、やや大袈裟な感じで仰け反った。
それはともかく、先程から頬に感じていた刺激は、どうやら彼女が小枝でつついていた事によるものらしい。
僕は、ゆっくりと上半身を起こしてみた。
全身のあちこちが痛い。
その痛みに顔を顰めつつ、改めて周囲の状況を確認してみた。
やや起伏のある丘陵地帯。
目に見える範囲には草原が広がり、ぽつぽつと灌木も見える。
そして目の前には、先程の少女が、目を丸くしてちょこんと座っていた。
見た感じは、メイより少し年下位であろうか。
肩までかかる亜麻色の髪に、いわゆる貫頭衣のような質素な服装を身に着けている。
傍らには、ドングリに似た木の実でいっぱいの、何かの植物で編まれたバスケットが置かれている。
よく見ると、彼女の頭には、ピコピコ動く動物のような耳があった。
どうやら彼女は獣人と呼ばれる種族に属しているように思われた。
それにしても、ここはどこであろうか?
あの巨大魔法陣、イクタスさんは、何者かが僕をあの世界から連れ去ろうとして発動させたのだ、と話していたけれど……
少なくとも、先程までの南海の洋上では無いどこかへと、強制的に転移させられたのは確実のように思われた。
僕はとりあえず、目の前の少女に聞いてみた。
「ねえ君、ここはどこかな?」
少女の耳がピンと立った。
「ここは、ピリアの丘だよ」
……知らない地名だ。
「えっと……ナレタニア帝国って分かる?」
「ナレ……?」
しかし少女は小首を傾げてしまった。
ナレタニア帝国は、少なくとも僕が先程までいた世界では、北半球の大陸を、北方の魔王領を除き、ほぼ制覇していた。
少女が、単に幼過ぎてナレタニア帝国と言う言葉を知らないだけなのか、それとも本当にここはナレタニア帝国があったあの世界とは無関係な別の世界なのか……
幸いと言うべきか、ここにはあの巨大魔法陣の術者らしき人物の姿は無さそうであった。
今の内に霊力を使用すれば、イクタスさんやハーミル達の所に戻れるのでは?
そう考えた僕はゆっくりと立ち上がると、目を閉じて光球の顕現を試みた。
しかし何故か光球は顕現しない。
僕は右腕に嵌めた腕輪に意識を集中してみた。
普段ならすぐに全身を駆け巡る膨大な量の霊力の流れを感じるはずなのだが、今は殆どその流れを感じ取ることが出来ない。
それでもなんとか無理矢理霊力を搾り出し、とにかくどこでもいいから転移門を開こうと試みたけれど、全くうまくいかない。
あたふたしていると、目の前の少女がおずおずといった感じで声を掛けてきた。
「あの……お兄さん、誰? どこから来たの?」
「あ、え~と……僕はカケル。ちょっと遠くから来たんだけど。帰り方が分からなくなっているというか……」
少女は、僕の反応を試すような素振りを見せながら、問いを重ねてきた。
「その……なんで、空から落っこちてきたの?」
「空から?」
少女が頷いた。
「うん。空からビューンって落っこちて来て、ここでグシャって」
彼女の話によれば、僕は急に上空から落下してきて、ここで墜落死(?)していたらしい。
しかしなぜか勝手に傷が治り、こうして起き上がったのだという。
なるほど。
だから最初の時、僕に話しかけられた彼女は、あんな大袈裟に見える位仰け反ったのだろう。
いきなり生き返ったら、そりゃびっくりする。
僕は苦笑しながらも、少し安心した。
理由不明に、霊力を殆ど使用出来なくなってはいるけれど、元々の不死性は失われていないようだ。
ただし、さっきもしばらく身体が痛かったし、回復速度に影響が出ている可能性はあるけれど。
気を取り直した僕は、改めて少女に声を掛けた。
「ところで、君は?」
「私はセリエ。今日の食材集めが終わったから、家に帰るところだったの」
「そっか……」
言葉を返しながら、僕は素早く頭の中で考えてみた。
ここがどこであるにせよ、僕にとっては初見の地である事だけは確実だ。
だとすれば……
「良かったら、君の住んでいる村か街まで連れて行ってくれないかな?」
どのみち、こんな野原のど真ん中に留まっていても、何も始まらない。
ならば少しでも人の集まっている場所に行った方が、より多くの情報が手に入るのでは?
そんな心積もりで頼んでみたのだけど、セリエと名乗った少女は意外そうな顔になった。
「いいけど。お兄さん、変わっているね? 獣人の村に来たがる人間って、初めて会ったよ」
「そうなの? なんで皆、獣人の村に行こうとしないの?」
「人間の住んでいる所と比べたら、臭いし汚いんだって」
「!」
僕の脳裏に、ボレア獣王国を巡る一連の出来事が想起された。
ボレア獣王国周辺の村や街では、獣人達はあからさまな差別を受けていた。
もし獣王国国王ゲシラム様のような立派な人物がいなければ、その相互不信が、帝国・獣王国双方に破滅的な悲劇をもたらしていたに違いない。
だから僕はセリエに向き直った。
「いいかい、君が住んでいる村は、決して臭くないし、汚くない。そう言う事を平気で口にする人間の心の方が、臭くて汚いんだと思うよ」
セリエは一瞬きょとんとした後、すぐにはにかむような笑顔を見せてくれた。
セリエの住んでいる村への道すがら、僕はこの世界に関する情報収集を試みた。
ちなみに僕自身の状況に関しては、空から落下して死にかけた――実際は即死していたみたいだけど――せいで、今までの記憶が曖昧になっている、という事にしておいた。
セリエは明るく素直な少女だった。
彼女は僕の事情――と言っても、半分、作り話だけど――を気の毒がりつつ、色々話してくれた。
「この世界は神様が創ったんだ」
「へ~、どんな神様?」
「お姿は分かんないけど、私達獣人達にすら、住む場所と名前を与えて下さったんだって」
彼女の話では、神都という場所があり、そこに神様がいるのだという。
ナレタニア帝国でいう所の帝都みたいな場所であろうか?
しかし神様がいるって事は、大聖堂みたいなのがあって、そこの司祭達が権力を握っているとかなのかもしれない。
それはともかく、彼女の話を聞いている内に、僕はこの世界が、ナレタニア帝国が存在したあの世界とは全く異なる秩序に支配された別の世界である事に気が付いた。
ならば神都なる場所に行けば、誰が自分をこの世界に召喚したのか、或いは元の世界に帰るにはどうすれば良いのか、分かるかもしれない。
「神都って、ここからどれ位離れているの?」
「歩いて3日くらいかな……そうだ! 神都にはお父さんがいるんだ」
「神様が住んでいる所にいるなんて凄いね。セリエのお父さん、神都で何をしているの?」
「ケンドをしているんだよ。すっごく強いんだって。でも、もう3年会ってないから……」
セリエが寂しそうに微笑んだ。
ケンドって何だろう?
剣道とか?
その言葉の連想から、元帝国剣術師範を父に持つハーミルの事を思い出した。
彼女はいつも僕を支えてくれていた。
今頃きっと、心配してくれているに違いない。
心の中を切なさが満たしていく……




