1.前奏
第001日―1
5月のある晴れた朝。
なんの変哲もない、日本のとある地方都市の上空。
突如、空間が歪んだかと思うと、揺らめく不可思議なオーラで縁取られた、巨大な“黒い穴”が出現した。
その穴をくぐり、『彼女』と『彼女の追跡者達』が相次いで姿を現した。
「ここは!?」
「どうやら、守護者が転移するのに巻き込まれたらしいな」
追跡者達は、直ちに己の魔力を練成し、『彼女』を攻撃しようとした。
しかし、それは発動されずに中空に霧散した。
「魔力が希薄すぎる!?」
「眼下の街並み……ここはまさか、別の世界なのでは?」
追跡者達の間に、動揺が広がる。
一方、『彼女』は、無表情のまま、自身の眼前に浮遊する光球に右手を伸ばした。
と、それは一瞬のうちに一振りの剣へと姿を変えた。
『彼女』は、その剣を右手で頭上に高々と掲げた。
剣身が、揺らめく不可思議な紫のオーラに包まれていく。
「まずい! 殲滅の力!?」
「この世界でも、“守護者”は力を振るえるというのか!?」
混乱する追跡者達目掛けて、『彼女』が物憂げに剣を振り下ろした。
不可視の斬撃が、異常な密度で放たれた。
追跡者達は、自分達に迫るその攻撃に対し、慌てて何かを投げつけた。
閃光が迸り、凄まじい衝撃波が、周囲へと広がっていく。
「霊晶石は使用可能なようだが、どうしたものか」
「ここは我等の住む世界とは、明らかに異なる世界です。我等をこの地に導いたあの黒い穴が閉じる前に退却しましょう」
「だとすれば、“守護者”は、異なる世界間の壁すら超える事が出来るという事か……」
斬撃では埒が明かないと見て取った『彼女』は、左手を高々と掲げた。
『彼女』の左手の上に、黒い何かが凝集していく。
それを目にした追跡者達は、次々と“黒い穴”をくぐり、いずこかへと逃れ去って行った。
追跡者達の逃走を確認した『彼女』は、左手を下ろした。
同時に、黒い何かも霧散した。
「逃げたか。どのみち、私を捕える事など不可能なこと。なぜそれが分からぬ」
『彼女』はそう呟くと、自身も帰還のために、“黒い穴”へと向かおうとして……気が付いた。
先ほどの戦いの余波によるものだろうか?
眼下に倒壊した一軒の住宅がある事を。
そして崩れた建物の下敷きになり、血だまりの中、身動き一つしない人物が横たわっている事を。
その人物の姿を目にした瞬間、それまで無表情だった『彼女』の顔が、みるみる焦りの色に染め上げられていった。
「カケル……?」
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「え~と……どうなっているんだ、これ?」
周囲には草原が広がり、優しい風が吹き抜けていく。
のどかな春の昼下がりといった風情……じゃない!
「いや、さっきまで自分の部屋に居たよな。で、一階に下りようとして、突然家が揺れて……階段で蹴躓いて……?」
で、草原に座り込んでいる。
意味が分からないので、もう少し記憶を辿ってみる事にした。
自分の名前は……東野翔、17歳の高校二年生。
今日の朝ご飯は、焼いたパンにバターを塗って……
うん。
記憶喪失とか、そういう状況では無さそうだ。
だったらなぜ、気付いたらいきなりこんな場所に居るのか、という最初の疑問に回帰してしまうわけだけど……
「とりあえず、移動するか……」
こんな所でじっとしていても、何も始まらない。
歩けばその内、道、或いは人家に辿り着けるのでは?
そう考えた僕は、立ち上がって改めて周囲に視線を向けようとして……
えっ?
―――ブモモォォォ!
数百m程離れた場所から、巨大な何かが雄叫びを上げながら、こちらに向かって一直線に突進して来るのが見えた。
それは僕の知るイノシシとよく似た姿をしていた。
ただし、その体躯は象にも勝るほど巨大ではあったけれど。
猛り狂ったそいつの顔が、足が竦んでその場で棒立ちになってしまった僕の視界一杯に広がっていき、全身に凄まじい衝撃を感じた瞬間……
…………プツン
僕の意識はそこで途切れてしまった。
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とある場所で、カケルの様子を巨大なクリスタルに投影しながら会話する者達がいた。
『いきなり何も無しで、草原の真ん中というのは、やはりダメじゃな……』
「それでは、最低限の装備品とお金を置いて参りましょう」
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……
…………
ゆっくりと意識が戻って来る。
気付くと、僕は大きな木にもたれかかっていた。
周囲には、先程までと同じような草原地帯が広がっている。
「今のは……一体?」
僕は一応、自分の身体の状況を確認してみた。
手、足、動く。
全身……特に痛みは感じない。
さらに一応、傷その他の有無を確認してみようと自分の胸元に視線を向けて……
僕は一瞬固まってしまった。
自分が今朝から着用している茶色のTシャツの胸元が、いつの間にか、ビリビリに引き裂かれたようになっていたのだ。
ただしそのすぐ下、僕自身の身体には、傷跡一つ見当たらない。
「どうなっているんだ?」
状況が全く飲み込めず、混乱する中、僕はすぐ脇に、大き目のリュックサックのような袋が置かれている事に気が付いた。
意識を失う前には、こんな物は無かったはず。
一瞬躊躇した後、僕はそのリュックサックの中身を確認してみる事にした。
中には、銀色に煌めく短剣が一本、質素な色合いの半袖Tシャツのような服と布製のズボンが一組、外国のコインのような物が50枚、それに知らない文字が刻まれた、定期券位の大きさの金色のカードが一枚、そして最後に、日本語で書かれた手紙が入っていた。
手紙にはこう書かれていた。
『金色のカードに、自分の血を一滴垂らして下さい』
……血を垂らせば、何が起こるというのだろうか?
一瞬悩んだけれど、どうせ訳の分からない事態が連続で起きている。
若干、感覚がマヒしてきていた僕は、短剣の刃先に恐る恐る自分の指先を近付け、そっと傷付けてみた。
傷口から溢れ出て来た血が玉になり、やがて地面に滴り落ちた。
僕は、流れ出た血を金色のカードに垂らしてみた。
その瞬間、何かが自分の体の中に流れ込んでくる感覚に襲われた。
そして……
「読める!?」
何故か、先程までは読めなかったはずのカードの文字が、急に読めるようになっている事に気が付いた。
カードには、これが身分証である事、僕の名前がカケル=ヒガシノである事、そして僕が帝国臣民……えっ?
「帝国臣民? どういう事だ?」
まさか、ここは日本じゃない!?
混乱する僕の指先に、あの外国のコインのようなものが触れた。
途端に僕は、そのコインが帝国銅貨である事を瞬時に理解していた。
どうなっているのだろうか?
何者かが睡眠薬か何かで僕を昏倒させて拉致、ここ帝国なる場所まで連れてきて、何らかの理由で放り出したとでも言うのだろうか?
首を捻りながら立ち上がった僕は、改めて周囲に視線を向けてみた。
そして視線の先、1km程彼方であろうか。
周囲を簡素な壁で囲まれた、街のような場所がある事に気が付いた。
ともかく、人が住んでいそうな場所を目にする事で、僕は少し落ち着きを取り戻すことが出来た。
とりあえず、あそこまで行ってみよう。
そうすれば、少なくともここが本当はどこなのか、何らかの情報が得られるはず。
そう考えた僕は、ビリビリになっていた茶色のTシャツを脱ぎ、代わりにリュックサックに入っていた質素な色合いの半袖Tシャツのような服に袖を通してみた。
半袖Tシャツのような服は、使用されている素材の違いか、元々着ていたTシャツよりは多少ゴワゴワ、つまり言い換えれば、着心地はそんなには良くなかった。
まあ、ビリビリに破れてしまったTシャツを着続けるよりはマシと割り切るしかないな。
僕はビリビリに破れてしまったTシャツと短剣をリュックサックに仕舞い込んでから、リュックサックを背負って立ち上がった。
そして、遠くに見える“街”に向かって歩き出した。