八歳 すべてはここから
婚約者が決まった。
ウェルズが一度も会ったことのない、侯爵家の娘だ。
ウェンズ王国は永世中立国という立場上、他国から王族の伴侶を娶ることがない。
中立性が失われるからだ。
そのため、国内から将来の妃となる人間を選ぶ。
その基準は世相によってさまざまで、実力を重視することもあれば、貴族間のバランスを重視する場合もある。
ウェルズの婚約者の場合、後者の理由で選出された。
ウェルズ本人には選出理由は告げられなかったものの、そう結論付けるのは難しいことではなかった。
ウェルズの年齢はこの時八歳。
相手の少女も同年齢で、その年齢であれば実力などまだまだ計りかねる。
であれば、本人の才覚以上に貴族間のバランスが重視されたのは火を見るより明らか。
件の婚約者となる少女が天才であるとか才媛であるといった噂を聞かないことからも、それが裏付けられていた。
それくらいの予測ができる程度には、ウェルズは聡い子供だった。
ウェルズは八歳にして、すでに理想の王太子としての基礎を固めつつあった。
文武両道で人柄もよく、真面目で誠実。
それでいて柔軟な対応や、時に非情な決断をせねばならないことも理解している。
その能力の高さは、本人の才覚によるところもあるが、それ以上に普段からの努力のたまものだった。
尊敬する父母の背中を見つめ、その背に追いつこうと、奮起し続けた結果だった。
この時点でウェルズには将来王としてウェンズ王国を治めていく覚悟が備わっていた。
王になることも、婚約者を決められることも、王族の務めとして受け入れていた。
しかし、それはそれとして彼はまだ八歳の幼い子供でもあった。
いかに覚悟ができていようとも、疲れてしまうことはある。
ましてや、将来の伴侶を会ったこともない少女に決まったことを、事後報告として侍従から聞かされたならば。
父母の関係の在り方を見ているだけに、ウェルズが将来への不安を覚えても仕方のないことだった。
ウェルズの両親は理想の王と王妃だ。
よく国に尽くし、民を思いやり、善き統治をしている。
しかし、公人として善き王と王妃であるが、私人として善き父と母であるかと言えば、そうではなかった。
そもそもこの二人には私人としての顔が存在しない。
ウェルズと接する時でさえ、王と王妃の顔を剥がすことはない。
彼らは根っからの王族であり、ウェルズと接する時でさえ、息子として扱うわけではなく、王太子として扱う。
親としての情はそこにはない。
そもそも王と王妃の間には恋愛感情がない。
お互いにビジネスパートナーと思っており、夫と妻の前に王と王妃なのだ。
同様に、ウェルズに対しても息子である前に王太子だという思いがある。
ウェルズはそんな両親のことを尊敬している。
滅私奉公を体現するその在り方を、理想の王と王妃だと思っている。
だが、同時に肉親としての愛情を与えられないことに、一抹の寂しさを感じていたのも事実だった。
埋められない愛情を、王族としての義務感で誤魔化しているのを、ウェルズ本人さえ自覚していなかった。
ウェルズは本人さえも気づかずに、愛情を欲していた。
ウェルズがよき王太子となるべく奮起していたのは、両親から褒められたいという欲求の発露でもあった。
そして、両親は王太子としての出来の良さを褒めることはあれど、親が息子に対して愛情をこめて褒めることは、一度としてなかった。
ウェルズは疲れてしまっていた。
心が折れるほどではないが、まだ見ぬ婚約者の存在がその疲れを表出させたのは間違いなかった。
善き王と王妃である両親を理想としつつも、密かに愛情を求めるウェルズ。
婚約者の存在は愛のない両親の姿と、自身の将来の姿を重ね合わせてしまった。
愛のない王と王妃を理想としつつも、愛情を求めてしまう矛盾。
その矛盾から生じる心の軋轢が、ウェルズを疲れさせてしまっていた。
だからだろう。
普段ならば絶対に乗らない、将来の側近候補たちの提案に乗ってしまったのは。
それは王城を抜け出して市中を散策するという、他愛もない提案だった。
ウェルズ王国は比較的治安がいいこともあって、貴族の子供でも出歩くことはある。
しかし、それは大人の護衛をきちんと伴っての話。
側近候補たちがしたのはそれとは違う、自分たちだけでこっそりと抜け出しての散策だった。
比較的治安がいいとは言っても絶対に安全とは言い難い。
子供だけで散策するなどもってのほかだが、聞き分けのいい子供ばかりではない。
一部の子供たちは度胸試しのような感覚でこっそりと市中を冒険するのが流行だった。
理想の王太子を体現するようなウェルズは、そんな流行に流されることは今までなかった。
しかし、精神的に疲れ、気分転換を必要としていたのも事実だった。
普段は一切疲れなど見せない完璧王子のウェルズが、誰が見ても憔悴していたのだ。
それを見て側近候補たちが気晴らしに誘ったのは善意からであり、それがわかったからこそウェルズも強く拒むことはできなかった。
ウェルズ本人も気分転換の必要性は理解しており、この提案に乗ることにしたのだ。
あるいは、いい子でいても両親は自分のことを見てくれないことに対する、一種の意趣返しだったのかもしれない。
いろいろな人間に迷惑をかけることや、その日の予定をすっぽかすことに対する後ろめたさなど、すべてを放り投げた。
そうしてウェルズは市中に出向き、一人の少女と出会う。
そして、運命の歯車が回りだす。