隠し芸の店
これは何年も前の話だが。実話である。
私は当時、入社1年目のサラリーマンだった。まあ、大した会社ではなかったが。
この頃、1年目の社員は朝早くに出社して職場の清掃をしたり、お茶を沸かしたりする悪しき風習が残っていた。
先輩から聞いた話だと、以前はさらに灰皿を準備したり、コーヒーも用意せねばならなかったそうだ。
あの人はミルクと砂糖、あの人はミルク無しとか、そんなことを覚えなくてはならなかったそうだ。
無駄な雑用が多かったが、おおらかな時代でもあった。
とはいえ、無駄な雑用のために早朝出勤は気だるい。
ギリギリまで寝ていたかったので、朝食もとっていない。
腹ペコという訳ではないが、後でコンビニでパンでも買って腹に入れておこうと思っていた。
入社1年目の社員には、もうひとつ悪習が残っている。
自家用車を所持できないのだ。例え、免許を持っていてもだ。
この悪習には何の意味があるのか、さすがに分からなかったが。
私は、高卒で入社したため、まだ自動車の免許を取得してなかった。
だから、結果的には害はない。
通勤は、路線バスである。
季節は春先の少し暖かい頃だった。
私は、いつものように眠い目を擦りながら大きなあくびをする。
そして死んだ魚のような目をして、バスが来るのを待っていた。
仕事や社会のルールに未だ馴染めず、それなりに疲れていた。
毎日着ている同じグレーのスーツもくたくただ。
冴えない新入社員を絵に描いたような状態だった。
しかし、その日そんな私に声をかけてきた男性がいた。
「あのー。すみません」
やや、遠慮がちな男性の声。バスの行き先でも聞きたいのだろうか?
私は、男性を見て少し「おや?」と思う。中性的だが整った顔をしている。年も若い。19の私とそんなに変わらないだろう。
だが、パーカーにスウェットを少しラフに着こなしており、私のような冴えないリーマンには見えない。大学生だろうか?
その男は、少し笑みを浮かべて私に尋ねてきた。
「すみません。この辺りに【隠し芸の店】はありますか?」
「隠し芸? あの宴会芸みたいなやつですか?」
私は、予想外の質問に質問で返してしまった。
男は少しはにかんで「はい」と答える。
隠し芸の店とは?
隠し芸を教える教室のようなものだろうか?
ただ、私はこの街に赴任してまだ間もない新入社員。
男の言う隠し芸の店の情報は、まったく把握してなかった。
近所の小さいスーパーと離れた所にあるコンビニくらいしか知らない。
「すみません。ちょっと、そういう店は分からないですねえ……」
素直に、そう答えると。
「そうですか…… ありがとうございます」
少し残念そうな顔色が伺えたが、丁寧に頭を下げ、そして去っていた。
バス停にひとり残された私は、ひとりでバスを待つ。
やがてバスが到着して乗り込み席に着くと、若い男に声をかけられたことなどすぐに忘れてしまった。
【推理編】
この時のことを思い出したのは、一週間くらい経ったある日のことだ。
夜、布団に入り、灯りを消して真っ暗になった天井を見ながら思ったのだ。
声をかけてきた若い男は、色白で中性的で美形と言えば美形だ。
彼が探し求めていたのは、「隠し芸の店」である。
その時、違和感を少し感じた。
そもそも「隠し芸の店」とはどんな店なのか?
私が最初に思い浮かべたのは、隠し芸を教える。店というより教室のような場所だ。どっちにしろそんな場所があるかは知らないが。
しかし、あの時出会った美形の男は隠し芸を必要とするタイプには見えなかった。普通にモテそうだし。
そうなると、もうひとつ。お店の人が隠し芸を披露するバーみたいな店だろうか?
それなら合点は行くが、声をかけられたバス停の周辺は住宅街で。居酒屋もない場所だ。
そうなると、最後のもうひとつの仮説が残った。
「隠し芸」というのは隠語ではないか?
「芸」は「ゲイ」。つまり「隠しゲイの店」だ。
ゲイの人たちが、己がゲイであることを隠し。こっそり隠れて集まる店。忍者の隠れ里のようなものを連想した。あるいは隠れキリシタンの集会か。
私に声をかけてきた美形の男は、実はゲイの方だったのだ。
しかし、そうなると私の方もゲイだと認識されて、あるいは確かめるために声をかけてきたのかもしれない。
私は、男性の方から遠回しに誘われたのかもしれない。
【解決編】
残念ながら、この話は解決できなかった。
声をかけてきた美形の男と、その後出会うことがなかったからだ。
まあ、仮に「隠しゲイの店」だったとしてもそれほど興味はなかったが……
もし、あの時。男ともっと話していれば……
私にも新しい世界が待っていたのかもしれない。
最後にもう一度言うが、この話は実話である。