仮題「ルクレチア戦記」、三人称、戦記、騎兵、ハードボイルド
「暗闇を憶えている。狭くて、炭と埃の臭いがした。大男に引っ張り上げられて、この世界が始まったんだ。ルクレチアなんて名前の、アタシの不思議な物語が」
◆◆◆
黒煙に汚れた空に、星がひとつ瞬いた。
「急ぐぞ」
言うやケイジンは馬腹を蹴った。二十騎を率いている。皆、軽装だ。真っ直ぐに丘を駆け上がる。風に焦げた臭いが混じる。細めた目で村を望んだ。
方々に窺える火事と倒壊。切れ切れに届く悲鳴と獣声。
略奪だ。
暴力が凱歌を上げているのだ。
十五の夏に初陣してより十二年、ケイジンはこんなものばかりを見てきた。功名の裏側でたやすく踏みにじられる日常……乱世の非情というものを。
「バッシオ」
「おう」
呼ばれて応じたのは大柄の一騎。その荒々しい武者振り。肩に掛けた毛皮は彼自身が狩った猛獣のものである。
「七騎で右方から攻め込め。一番駆けだ。大いに吠えたてろ」
「わかった。派手に暴れてやるぜ」
見送って次を呼ぶ。
「グリテリ」
「はい」
羽飾りを揺らせるのは初老の一騎。灰色の口髭に乱れなし。この戦の場にあって彼ひとりだけは遠乗りの風情だ。
「七騎で左方へ回れ。クリムゾンテルの家名を出せ」
「紅家の先遣隊を騙る……後々問題になりますぞ?」
「噂は尾ひれがつくものだ。行け」
「承知」
やはり見送って、ケイジンは残る六騎へ顔を向けた。どの一名の親兄弟も思い浮かべられる。死なせればどのような悲しみが生まれるかが、わかる。
「……行くぞ」
しかし合図するのだ。並足にて前進、正面から向かう。村では既に闘争が始まっている。怒号と喧騒。土煙と血煙。平穏な日常は破かれてしまっている。
「抜剣」
半曲刀を引き抜き、突きつけた。
「突入」
駆け入る。兵装が目印だ。目につく端から斬り捨てる。
敵は多い。だが混乱している。さもあれ、財物を漁り女を犯していたところを襲われたのだ。事態の把握すらおぼつかないだろうと思われた。欲得の生々しさほど智を鈍らせるものはないとケイジンは知る。だから策を差し込んでいる。
荒武者の蛮勇、大武門の権威、三方からの騎馬……かくも流れを作ったならば。
残る一方から敵が逃げ出すことは、わかりきっていた。
「バッシオ、五騎でいいな! 残るは私に続け!」
十五騎で村から飛び出した。三々五々と無様に走る背中を撫で斬りにしていく。容赦はしない。その余裕がない。
ケイジンの見たところ、村で狼藉を働いていた敵は百数十卒余り。そろいの具足と剣と槍。野盗ではない。荷車の一台も見当たらなかった。徴発部隊でもない。十頭を超える軍馬がつないであった。それなりの士官を擁している。
だから、目の前のそれは想定の内だった。
丘向こうの陰に四十卒ほどの敵が集まっている。逃げる者を糾合して隊伍を組みつつある。掲げられた旗は青空の色。この国のものではない。世界の明るさだけを切り取ったようなそれは、南方テトラウルスラ教国の軍旗だ。
討てるか。討っていいものか。討たずに済ませられるか。どの程度まで討つか。
脳裏に駆け巡った色々を、ケイジンは一息でもって吐き捨てた。あそこに敵の指揮官がいる。討つべし。後顧の憂いを断つべく。
「納剣、弓射用意」
縦列で迫り、右方へ避けた。ぶつかるまでもないからだ。左手に敵を見るようにして周囲を駆ける。駆けながら射る。退路を与えず、散々に射すくめてから、斬りかかった。殲滅だ。一卒とて生かしてはおかない。
房飾りの兜首を刎ねると、きらめくものが地に落ちた。首飾りだ。剣先で拾い上げた。丁の形の飾りが革紐でくくられている。
「ほう、聖印ですか」
グリテリが馬を寄せてきた。面白がる口調だ。
「そこな男、聖騎士だったのやもしれませんな。乱取り自由の権を持った類の」
「また扱いの面倒な……」
やれやれとばかりにケイジンは下馬した。聖騎士らしき男の外套を剥ぎ、首級を包もうとして、困った。兜が取れない。凄まじい表情で頬を硬直させているため引っ掛かるのだ。
金髪碧眼の、まだ青年であろう彼は、怖かったのだろうか。それとも口惜しかったのか。最期に誰かを想ったろうか。あるいはケイジンを呪ったか。
「……誰だって、木の股から産まれたわけではないからな」
兜ごと首級を包む。剣も拾った。上物の両刃直剣だ。いよいよ厄介な、と思う。
「グリテリ、周辺の警戒を」
「委細承知。十騎、お預かりします」
残敵を駆け討った後、ケイジンは村へ戻った。
家並みは夕闇に浸かりきっている。争いの音は聞こえなくとも戦禍の残臭が濃い。広場には略奪者の死骸が雑に積まれている。犠牲となった村人のものは、すすり泣きの聞こえる家屋の内側であろう。
「よお、大将。ちょいと来てくんねえか」
バッシオが当惑顔で現れた。手には無造作に手槍を握っていて、その穂先には血の色が鮮やかだ。助からない者にとどめを刺して回る……誰かがやらねばならない忌み仕事を引き受けてくれていたようだが。
「村人の方か」
「ああ。どうしても話をさせろって、こう、頑張っててよ」
「……どういう傷だった?」
「滅多切りだ。戦える爺さんだったみてえだな」
小屋の壁にもたれて、その老人は待っていた。粗末な身なりながらも耕作者との筋骨の違いが察せられた。息も絶え絶えの様子だが。
「貴殿らは、真実、紅家家中の者だろうか」
ケイジンを見据える眼光は鋭い。末期の必死と思われた。
「いえ、示強の謀として偽りました。我らは領主殿の世話になっております」
「ご領主は、紅家に阿らぬがため、彼奴らに疎まれていると聞く。優秀な兵法者が身を寄せる先にあらず……何者か明らかにされたい」
只者の言動ではない。ケイジンに息を呑ませるだけの迫力は、この老人の抱えている何かを感じさせる。抱えたままでは死んでも死にきれないような何かを。
「……私は、かつて白家の禄を食んでいた者です」
背中でバッシオの緊張を察した。盗み聞く者あらば斬り捨てるという構えだろう。それほどに危険な告白だった。
白家、すなわちホワイトガルム家は、この国の双璧と謳われた大武門だ。今は跡形もない。三年前の内乱で、紅家、すなわちクリムゾンテル家に滅ぼされた。族滅されたのだ。そして今日の紅家の栄華がある。
ケイジンは、白家に従う騎士の家の長子だった。母の命と引き換えに生まれた。従軍している間に父に死なれ、家は継母に奪われた。
「遺臣か、貴殿も」
「しがない騎兵でした。決戦にも召集されないような」
「場所を得ていなかったのかな……しかしここに来てくれた」
老人はもはや咳き込む力すらないようだ。それでもなお語る。命の壮絶さを、ケイジンは目撃している。
「頼む。大殿よりお預かりした、尊き宝を、貴殿に託したい」
「お任せください」
「小屋の隅、炭櫃をどけた下に、隠し戸がある」
「承りました」
ついに失われようとするものへ、ケイジンは己の全てをもって応えた。迷わなかった。それが真心だと思ったのだ。
「ああ、幸いであった……」
目を見張った。まさかの微笑みだった。
手のこわばりが、ゆっくりとほどけていく。それで初めて、ケイジンは己が老人の手を握っていたことに気付いた。一人の武士の、見事なまでの最期だ。父はどうであったのかと、この頃は思わなかったことを思った。
「た、大将よう」
バッシオの、聞いたことのないような声だった。どうやら小屋へ先んじて「尊き宝」とやらを確保してきたらしい。その左手は長木箱を抱えていて、その右手は……一人の女童の手を引いている。
年の頃は三つか四つといったところだろうか。
一目で、尋常でないと知れた。
月明かりをきらめかせる白銀の髪。星空の深淵を思わせる紫紺の瞳。衣服の質素を感じさせない威風……幼くも天女と見紛う気品と、小さくも猛虎のごとき覇気。
この世のものとも思えないその女童が、バッシオの手を離れ、ケイジンの元まで歩いてきて、しゃがんだ。老人を見つめ、傷だらけの手首を握った。何事かつぶやいたが、意味のわからない言葉だった。手を、胸を、顔を撫でていく。
円らな眼に、涙が溢れた。やわらかそうな頬をポロポロと零れ落ちていく。
静かだった。幼子の泣き方ではなかった。
ケイジンは身じろぎもしないでそれを見守った。神々しく侵しがたいものを前にして、痺れるように、息を呑んでいた。