第6話 皇女、昔を思い返す 上
「ターシャ、ルーテシア様はどうでしたか?」
政務秘書官のマルティナは、ルーテシア付きの侍女ターシャに、不在の主について確認した。
「やはりレナード様のお部屋でした。昨夜の余韻が抜けきっておられませんでしたので、朝食は1時間遅らせますとお伝えしました」
ターシャの台詞から、マルティナは主の状況を正確に把握した。
「わかりました。あと1時間は、王の寝室に誰も近づかないよう伝達しておきます」
「その、もしかしたら、1時間では済まないかも……」
「それもわかっているわ。こちらも柔軟に対応します。なにせルーテシア様は、8年越しの恋を成就されたのですからね」
優しく微笑むマルティナに、ターシャもにっこりと笑みを浮かべて、今も恋を叶えているであろう主人を祝福した。
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きっかり1時間後になって、ルーテシアは自身の執務室に現れた。
昨日、首を刎ねた大臣が使っていた部屋を、急遽自分用に模様替えさせた仮の仕事部屋である。
「遅くなってしまったわね」
マルティナは、遅刻した主を咎めることなく、
「いかがでしたか?」
とだけ問いかけた。
ルーテシアは、うっとりと目を閉じて、陶酔しきった声色で答えた。
「とても……とても素敵な、魔法のような一夜でしたわ」
この言葉でマルティナは、ルーテシアが昨晩、どれほど濃密な幸福の中に身を置いていたかを理解した。
「大願成就、お喜び申し上げます」
部下より贈られた心からの祝言に、頬を赤らめ、満ち足りた顔で笑うルーテシア。
昨日1日で、8年分の想いを昇華しきった彼女は、夢見る乙女のように華やいだ気持ちで、これまでのことを振り返った。
***
それは、わたくしが10歳の時のことでした。
気の弱かった当時のわたくしは、皇帝である父に命じられ、ある舞踏会にひとりで参加していたのです。
いくつもの国の王族や有力貴族が参加する、とても格式高い舞踏会です。
なのにわたくしは、黒髪であることを隠すため、ブロンドの鬘を頭につけておりました。
「黒い髪は、不幸を呼ぶ、なんて……」
妾の子として父に嫌われていたわたくしは、正当な扱いを受けておりませんでした。
髪色が珍しい黒色だったことも、『呪われた子』であるとして忌避される要因でございました。
ですが、皇帝の血を引いているという事実によって、政略的な価値だけは見出されていました。
父は、まだ10歳だったわたくしを、歳が30以上も離れた貴族の誰かに、贈答品も同然に嫁がせようとしていたのです。
「わたくしは、少女性愛の貴族に、嗜好品として売り渡されるのですね」
今日はそのための品評会。
大勢の幼女趣味の変態たちが、着飾らせたお人形を踊らせて、感触を、匂いを楽しんで、最後は誰が落札するか、父と水面下で交渉する。
「誰に買われようと、そのあとは、奴隷のような生き地獄……」
そうなる前に命を絶とうと、わたくしはここに来るまでに決めていました。
父に逆らえないわたくしの、初めてにして最後の反抗。
そのはずでした。
「このお池は、深そうですわね」
会場となったお屋敷には、大きなお庭がありました。
その一隅には、大きな池もございます。
時刻は夜。
辺りは暗く静まり返って、近くには灯りもありません。
入水するには、およそ最適な環境だったのです。
「あとはこのまま、体を水に委ねれば……」
迷いは一切ございません。
冷たい池の中に、一歩を踏み出した、その時でした。
「お待ちください!」
背後から声をかけられました。
こんな暗がりの池のほとりに、他にも誰かが潜んでいたのです。
「失礼。どうにも思い詰めているご様子でしたので、ついつい声をかけてしまいました」
声の主は、私の傍まで近づいてきます。
そのお顔には、見覚えがございました。
「レナード王子、で、ございますか?」
ノーラン王国の王位継承者。
今日の舞踏会のリストにも、上の方に名前が載っていた高貴なお人です。
そんなお方が、どういうわけかこんな場所に隠れていて、どういうわけだか、わたくしに声をかけておりました。
ですが、それがなんだというのでしょう。
「たとえ、王族の方であろうとも、わたくしの覚悟を打ち砕くことはできません」
更に一歩、わたくしは池に向かって歩き入れました。
「お待ちを……いや、待ってくれ! 大事な話がある!」
あるはずがありません。
彼とは、たった今出遭ったばかりなのです。
わたくしは無視して、三歩目を踏み出し――
「俺は、本物のレナード王子じゃないんだ!」
――足が、止まってしまいました。
今、あの人はなんとおっしゃったのでしょう?
思わず、彼の方を振り向いてしまいました。
「俺は影武者、王子の身代わりとして育てられてきた。今日のパーティーは、俺が務めを果たせるかどうかの試金石なんだ」
なんでも、彼は幼少の頃に親元から引き離されて、ずっと影武者としての教育を受けてきたそうです。
この舞踏会は最終試験。
途中までレナード王子として各国の参加者たちに挨拶し、誰にも偽物だと気づかれずに、本物の王子と入れ替わらなければならなかったと、そんなことを説明なさいました。
「ところがさ、待機していた王子が、暇にあかせてワインを飲み過ぎちゃって……」
王子の酔いが覚めるまで、会場内で身を潜めていなければならなくなったと、彼は言います。
わたくしが入水に最適だと思ったこの池は、彼が隠れ潜むのにも最適でもあったのです。
「そのようなこと、わたくしに教えて、どうされるおつもりなのですか?」
彼は眦を決すると、わたくしにむかって、こう叫びました。
「俺の命を救って欲しい!」
驚いて、わたくしは目を見開きました。
あまりに予想外なひと言です。
まっすぐな強い瞳で、彼は、このように続けます。
「君の死の直前に、俺が君と会話していたと知られたら、間違いなく不合格になって殺処分だ」
「殺……処分……」
不穏な言葉に、わたくしは思わず息を呑みこみます。
「影武者の絶対のルールなんだ。王子になりきるため、俺は外部に知られちゃいけないことまで教えられてる。身代わりとして不適格なら、秘密をあの世に持ってかなきゃならない」
彼が何を言いたいのか、わたくしは理解いたしました。
「わたくしが死なずに会場に戻れば、あなたが助かるというのですね?」
静かにうなずく彼を見て、心の内側に、黒いものが渦巻いてまいりました。
わたくしの虐遇など知りもせず、よくも身勝手な善意を押しつけて……
「そのために、わたくしはまた、地獄の日々を送らねばならないというのに?」
今度は、彼が息を呑む番でした。
「わたくしはいずれ、いえ、今晩にでも、少女趣味の変態貴族に売り払われる身分です。あなたが仮に、本物のレナード王子だったとしても、この運命は変えられません」
彼は、わたくしの立場のおおよそを、これで察したようでした。
「なにか、なにか手立てがあるはずです」
惨めなわたくしは、ゆっくり首を振りました。
「手遅れですわ。聞こえるでしょう。もう、ダンスの曲が始まりましたわ。父の意に背いて逃げ出したのが、すでに知れ渡ってしまいました」
お父様は、決してわたくしを赦さないでしょう。
本当に今日にも、どなたかにわたくしを嫁入りさせてしまうかもしれません。
そんな悲痛な告白に、彼は何を思ったのか、わたくしに手を差し伸べて、こんなことをおっしゃいました。
「よろしければ、私と踊っていただけますか?」




