第11話 影武者、皇女を慄(おのの)かせる
「ルーテシア、ひとつだけ、君たちの策には問題がある」
揚々と語られた彼女の策略に、俺は、唯一かもしれない欠点を突きつける。
「あら、そうでしょうか?」
「私が……いや、俺が、自ら進んで皇国側につくと思うのか?」
「はい、思いますわ」
ルーテシアは、一点の曇りもなく断言した。
「あなたは知ってしまわれましたもの。この国の王や大臣たちが、いかに民を苦しめていたのかを」
彼女はまた、俺の首へと手を回してきた。
しかし、ふざけている様子はない。
澄んだ瞳が、俺の瞳をまっすぐに見つめて離さない。
「降伏の直前、あなたはわたくしにこうおっしゃいました。『国民に手出しすることは断じて許さない』と。本当は国を背負う立場ではない影武者が、命をかけて敵国の皇女に駆け引きを仕掛けました」
いつしか俺も、彼女から目を離せなくなっていた。
「そんなお優しいあなたが、見ず知らずの誰かを助けずにはいられないあなたが、再び圧政を敷きに戻ってくる本物のレナード王を歓迎なさるはずがありませんわ」
ルーテシアの顔が近づいてくる。
俺は拒まず、彼女の心を受け入れた。
薄桃色の唇が、俺の唇と、数秒のあいだ重なった。
静かに顔を離した彼女に、俺は宣言した。
「わかった。俺は、ルーテシアに協力する」
「そうおっしゃっていただけると、信じておりました」
にっこりと微笑むルーテシア。
「ただ、ひとつだけ断っておく」
「わかっておりますわ。兵士ではない民を戦禍に巻き込むな、とおっしゃりたいのでしょう」
「いいや、違う」
予期しなかった答えだったのだろう。
ルーテシアが不思議そうに首をかしげた。
俺は、自分の偽らざる本心を、この場で彼女にぶつけておこうと口を開いた。
「俺は、王国民が望んで起きた戦争なら、そのための負担が民にいくのはやむを得ないことだと考える。たとえその負担が、死という代償であったとしてもだ」
影武者として育てられたからだろう。
俺は、人の命の在り方を、個人ではなく、国という組織の一部としてしか見ることができなかった。
だから、俺が王国民を助けたいと思う全ては、おそらくは人ではなく、国を守るためなのだろう。
「ルーテシア、君は戦争のために民の心を掌握した。大衆が自分を支持するように仕向けて、ひいては民たちが戦争を支持するよう意識を誘導しておいた」
ほんのわずかに、ルーテシアの目が俺から逸れた。
まぶたは震えるように瞬いて、彼女の瞳に影を落とす。
「……その通り、ですわ。わたくしは、戦争のために、民に諜報活動と扇動工作を施しましたわ」
ルーテシアの体が、俺から静かに離れていく。
机の向こうでマルティナが何か言おうとしている。
が、その前に、俺はルーテシアの肩を両手でしっかり掴み、彼女の目線を戻させた。
「ルーテシア。君は民の心を得るために、一切の努力を惜しまなかった。そんな君を、俺も心から支持している。民心を戦略的にでも掌握できる統治者は、国に最良の結果をもたらす為政者だ」
震えていたルーテシアの目が見開かれた。
俺はその目を、しっかりと覗き込む。
自分の心を、感情を、彼女に直に注ぎこむように。
「俺が協力する理由は、本物の王を歓迎できないからじゃない。王国民に心から信頼されているルーテシアを、俺も信頼するからだ。自分を慕う国民を、君が進んで戦禍に巻き込むはずがない。そんなことは、今更言うまでもないことだ」
言葉にすることで、心は形を持つのだろう。
俺は、王の影武者として、この国のために生きる使命を背負っている。
国のために必要ならば、王として振る舞う役割を背負っている。
それを求めた王は逃げ去った。
でも、ルーテシアが、この国の民たちがそれを望むなら。
「俺は王の影武者だ。国のための影武者だ。国民がそれを望むなら、いつまでも王の偽物で在り続ける」
惜しむらくは、俺個人には、それを為すだけの力がないこと。
「だから、ルーテシア。そのための力を俺に与えてくれ。逃げ出した王がこの国を害する存在なら、俺は、王を斃してでも、万難を排してでも、本物の王に成り変わらなければいけない――」
言い終える前に、俺の口は、ルーテシアの唇で塞がれていた。
「今更言われるまでもありませんわ。わたくしは必ずや、あなたを本物の国王にしてみせます」
それだけ言うと、ルーテシアは俺の胸元に顔をうずめて、目を見せてくれなくなった。
彼女はそのまま、ぎゅっと俺に抱きついて、何も言わなくなってしまった。
「えっと、ルーテシア……?」
困惑する俺。
そこへ、
「失礼します。お夕食の準備ができました」
侍女のターシャが、食事の時間を伝えに来た。
胸元のルーテシアは、顔を伏せたまま俺に言う。
「先に、食堂へ行っていただけますか。わたくしは少々、しなければならないことがございますので」
「え? ああ、わかった」
俺は、彼女の顔を見れないままに、軍議室を後にした。
***
「どうしましょう、ターシャ、マルティナ……」
夫を先に行かせたルーテシアは、頬を真っ赤に染めながら、従者たちにある相談事を持ちかけていた。
「あまりの嬉しさで、わたくし、レナードの顔を見れそうにありません」
ルーテシアの顔は、それはそれは蕩けていた。
目尻には悦びの涙が浮かび、口元は、どんなに頑張っても、すぐにふにゃりとにやけてしまう。
8年前に抱いた決意、影武者の彼を本当の国王に変えられる女になるという覚悟。
レナードは、ルーテシアならそれができると、そのために力を貸してほしいと言ってくれた。
あの瞬間、ルーテシアは、自分が本当の意味で彼に並び立つことができたのだという実感と充足感に満たされた。
いつまでも頬をおさえてふやけているルーテシアに、マルティナが静かに囁いた。
「ルーテシア様。そうしていますと、本日のレナード様のお顔を見る時間がどんどんなくなっていきますが?」
はっとして顔を上げるルーテシア。
「それは嫌ですっ! ですが、今のは、あまりに不意打ちで……」
が、その表情は、あれよあれよという間に溶けていき、ふにゃふにゃと緩みきってしまう。
惚気けの堂々巡りに入ってしまった主に対し、マルティナは軍議室らしく戦略的に提言した。
「喜ぶなとは申しません。その幸福は今晩の閨にて解き放たれるとよろしいでしょう」
知謀に優れたはずの皇女は、呆けた顔で秘書官を見た。
「今のお気持ちのままにレナード様を求めてみてください。殿方という生き物は、女性が心に帯びた熱に引き寄せられる特性がございますから」
ルーテシアの両の手が、ぐっと拳の形に握られる。
「マルティナ、助言に感謝しますわ。ターシャ、夕食後、すぐに湯浴みをいたしますので、準備しておいて」
「かしこまりました皇女殿下。しかし、まずはお化粧を直されるべきかと」
ターシャの言葉に、ルーテシアは、自分の頬が感涙で濡れに濡れていることを、初めて自覚した。
「い、急いで顔を洗ってまいります。ターシャ、部屋に来てお化粧を手伝って!」
普段の彼女からは想像もできない慌ただしさで、ルーテシアは自室に駆けていった。
「マルティナ様、皇女殿下はどうなされたのですか?」
「図らず想いが通じたことで、有頂天になられているだけです」
マルティナは、卓上の地図や書類を片付けながら、あれならばお世継ぎの誕生も早いだろうと、今後の政務のスケジュールを、頭の中で繰り上げた。
ターシャは皇女の部屋に向かおうとして、ふと、疑問が浮かんでマルティナに尋ねた。
「皇女殿下は、いつまでレナード様に正体をお隠しになられるおつもりなのでしょう?」
「今のご自分を好きになっていただくお心積りのようですが、あの分ですと、時間はそんなにかからなそうですね」




