〝家族〟
一般的に、家族とは強固な絆を持った関係というイメージがある。必ずしもそうではないだろうが、少なくとも私のイメージはそうだ。では、その強固なつながりを持った家族とは何なのだろうか。その関係に強固なつながりが生まれる所以はなんなのだろうか。
様々な意見があると思う。見方もいろいろあるだろう。例えば「血縁関係」、例えば「容姿が似ている」、例えば「一緒に暮らしている」などなど、ほかにもたくさんあるだろう。
しかし、私にとってその意見はすべて〝否〟だ。決して、家族の強固な絆はそんなもので生まれるわけではない。
それならば、何が理由で家族のつながり、つまりは〝家族〟というものは生まれるのか。それは唯一つ。偏に「信頼関係があること」だ。
いくつか理由はある。例えば「血縁関係」だが、これは某映画で実話をもとに主題にもされているが、それであるように調べてみる、もしくは誰かに教えられない限り気づくことはほとんどない。つまり極論にはなるが、親、或いは子供だと思っていた人間が実はよその子だったりすることもありうるのだ。あの映画の登場人物のように。だとしたらそれまで気づいてきた家族の絆は偽物だろうか。いや、決してそうではない。
例えば「容姿が似ている」だ。これも決して強固なつながりの所以にはならない。根拠は単純、世の中にあまり似ていないのに家族としてやっている人がごまんといるからだ。それに、隔世遺伝によって黒髪の両親から金髪が生まれることも間々ある。それならば、容姿もまた理由にはなりえないだろう。
例えば「一緒に暮らしている」だが、これもまた簡単だ。これで家族として成立するのならば、ルームシェアをしている人間は皆家族になってしまう。そんなわけがない。
以上が、私が今まで聞いたことがある〝家族〟の家族たる所以に対する反対意見である。
そして、私が〝家族〟を家族たらしめる理由と考える「信頼関係があること」は先程も言ったとおりだ。もし、家族が実は血のつながっていない家族だったと知ったとき、今まで築いてきた関係はすべて白紙に戻るのだろうか。今までの思い出はすべて無に帰すのだろうか。そうではないだろう。
例血がつながってなくても、今までの思い出が消えることはない。今まで構築してきた関係性が消滅することはない。その理由は、それができないほどに愛情を与え、またそれをしっかりと受け取ることができる信頼関係がそこにあるからだ。逆にこれがある家族は、例え血がつながってなくても、例え一緒に暮らしていなくても、例え容姿が全く似ていなくても家族として関係性を築けている。一般的に思われる固い絆を持った家族が形成されている。
そしてこれは、逆の場合も然りだ。例えそこに血のつながりがあっても、互いに愛情を与えず、また相手の愛情を受け取れない家族は家族として成り立たない。大人になって縁を切る家族なんてごまんといるだろう。
私が話したいことは一つ。今回の話を通して、今一度家族について考えてみてほしい。親の立場の人たちは、自分がやってることは相手への愛情なのか、それとも自らのエゴなのか。そして、自分の子供はそれを曲解して受け取っていないか。子の立場の人たちは、相手の言葉をすべて悪いように受け取っていないか。特に、反抗期に入った子供は少し難しいかもしれない。どうしても、大人の言葉がすべて悪い方向で聞こえてしまうかもしれない。でも、今一度素直に受け取るように意識してほしい。
忘れないで。私たちが築いている〝家族〟というものは、決して当たり前に存在するものじゃない。長年かけて作り上げた信頼関係の上に成り立っている関係だ。そして、その信頼関係というものは、簡単に壊れてしまう。だから、そこを念頭においてほしい。
そしてあと一つ、また忘れないでほしいことがある。それは、一度壊れた信頼関係も、また作り直すことはできるいるということだ。確かに、決して戻ることはない。一度砕けた信頼はもう取り戻すことはできない。ただし、一から作り直すことはできる。時間はかかるけど、一から作って、以前と全く同じではなくても、また別の形でされど似たような信頼関係を結ぶことはできる。一度切れた家族の縁を作り直すこともできるだろう。
だから、これを読んでくれた人は家族の関係が良い悪いにかかわらず一度家族と話してみてほしい。関係が良い人は、この作品をネタに「なんか変な説教書いてるんだけど」と笑ってみて。
逆に、家族関係が今よくない人は、よく家族とはなしてみよう。案外くだらない理由でこじれている可能性もある。ただまあ、そうじゃない場合もあるだろう。その場合は、怖くて、怖気づいて、話しかけにくいかもしれない。
ただ、一つだけわかっていることがある。もしも、怖気づいて、気まずくて、口数が減って、そのまま話すことが無くなったとき、確実にその関係がもとに戻ることはない。「時間が解決する」という言葉があるが、あれは完全なる正解ではない。一人が、自らの勇気を振り絞って一言話しかけるからこそ、あの言葉は正しくなるのだ。
説教臭くてすみません。
私が以前「コウノトリのゆりかご」について議論を交わして、そこから生まれた疑問と、そのあと親やほかの人に聞いて、また自らの考えを突っ込んで出した自分なりの〝解〟でした。




