龍の領域
西の山脈の向こうには全く違う景色が広がっていた。変わった。山の麓までは針葉樹の豊かな森が広がっているのに、その先にはほとんど樹木が見当たらなかった。草原を抜けると白っぽい地面が顕になり、その上に灌木の緑が苔玉のようにポツポツと群れをなしていた。遠くにはゴツゴツとした岩山が連なっているのが見えた。
「この方角、ひときわ突き立った岩盤の山が見えるでしょう」ソフィアがコンスタンツァの横に顔を出して前方を指差した。
確かにたくさんのナイフを焚き火の形に組んだような尾根線の鋭い山が見えた。
「あれがロックホーンのコロニーよ」
アトラス・ロックホーン。大型のドラゴンで、背中側が黄土色、腹側が鮮やかな青色の鱗を持つ。あらゆる他の龍のブレスを弾き返す盾のような硬い額を持ち、顎には矛のような太く曲がった一対の牙が生えている。その武器をもってすれば一対一でロックホーンに勝る龍は一種もないと言われている。あのレイですらロックホーンには一方的に屠られるという。
しかしその名前はあまり知られていない。ロックホーンは人里離れた岩山に定住し、専ら他の龍を捕食して生きているので、人間の営みに影響を及ぼすことがほとんどない。したがって狩猟対象とされることもなく、その肉や鱗が市場に出回ることもなかった。骨格や生体のサンプルが少ないせいで研究が進んでいないのだ。
「そう考えるとちょっと複雑ですね」
「複雑?」
セラが言うとソフィアが訊き返した。
「龍を殺すことが龍を知る近道になる、ということですよね」
「そうね。確かに」
「憎めば憎むほど、人は深く龍を知ることになる。遠ざけようとするほど、近づいていく」
「でも、どうかしらね」ソフィアは座布団に座り直して呟いた。「何かを『知る』というのは、程度の差はあれ、必ず相手を害することなのかもしれないわ」
セラは首を傾げた。
「つまり、よく観察しようと思ったら檻に閉じ込めなければならないでしょ? そんなのは極端な方で、例えば、ただただ人間が近づくことだって、人慣れしていない龍には大きなストレスになる。それどころか、人が生活圏に入っただけでも、人を恐がる鳥たちが逃げて獲物が減るかもしれないし、逆に人を追ってきた龍と争いになるかもしれない。論文に書かれている以上のことを知ろうと思ったら近くで観察するのは必然だから、ね? そういうこと」
「ソフィアはそれを自覚して、それでも踏み込んでいくんですね」
「そうね。もちろん、できる限り影響を与えないように、って気は遣っているけど、たとえ肩書きが学者でも、覚悟は狩人に通じる。そういう気持ちでやっているのよ」
山の下まで来ると傾斜40度以上の崖が行く手を阻んでいた。
セラ、サーシャ、ソフィアの3人は鎧を背負い、登山用の装備で岩壁に挑んだ。機材を運び上げる前に少人数で偵察するのだ。
幸い岩壁は遠くから見るよりゴツゴツしていて、スイッチバックのように緩い傾斜をたどって歩いて登っていくことができた。
そうして200m以上は登ったはずだ。稜線の上には思いの外なだらかな高原が広がっていて、ロックホーンたちは互いに距離を取りながら点々と地面から突き出した岩の下で丸くなっていた。
一行はひとまず休憩した。高原を見渡せる稜線の上に座ってお茶を飲んだ。冷たく乾いた風が吹いていた。
「気づいているのに、気にしていないみたいですね」セラはロックホーンの様子を見ていた。
「彼らは縄張り意識があまり強くないのよ。仲間内の争いもほとんどない。積極的に立ち向かおうとするのは大型の龍くらいで、人間だと小さすぎて獲物にもならない。だから気にしない」
風向きが変わった。今まで崖の方へ靡いていたソフィアの髪が逆に流れるようになった。
200mくらいだろうか、一番近くにいたロックホーンが首を伸ばし、それから立ち上がった。
「ロックホーンは人間に対する警戒心が薄いの。気が向くと近くまで来て逆に人間を観察していることもあるそうよ」とソフィア。
確かにそのロックホーンはこちらに向かってきていた。
「でも、それにしては勢いがありすぎるような……」セラは言った。
ロックホーンは地面を蹴り上げて迫ってきていた。その足音は地面を震わせ、その震動で背後の崖っぷちがポロッと崩落した。
「逃げた方がいい」サーシャがドスの利いた声で言った。
それを聞いてソフィアが来た道を戻ろうと駆け出した。
「そっちはだめだ。上で龍が暴れたら確実に落石にやられる」
ソフィアは足を止めた。
サーシャは開けた方へ走りながら地面の窪みを探していた。身を隠せる空間を探しているようだ。幸い溶岩台地のように入り込む隙間はたくさんあった。
「飛び込め!」
3人は地下の小さな洞穴に飛び込んだ。洞穴は水平に伸びていて、奥まで入り込むとロックホーンの牙も届かなかった。
こういう時のサーシャの勘はとても頼りになる。
ロックホーンは入口の岩盤を軽々と1つ剥がしたけど、そこで小休止してドスドスと頭上を歩き回っていた。
3人はとにかく鎧を身につけた。
「でも、一体どうして……?」とソフィア。
「……私だ。きっと私が龍だってことに気づいたんです」セラは言った。
「メタモーフだ、って? それにしては怒り狂ったような感じだったわね。メタモーフの大きさならむしろ獲物でしょう」とサーシャ。
「ロックホーンとメタモーフの関係の研究なんて見たことがないわ。分布も被っていないし」とソフィア。
「じゃあ、別の龍の匂いがしたのかもね」サーシャ。「レイとか」
「どうしようかしら」
「私が気を引きます。その間に下山のルートを確保できませんか」セラは提案した。
「それは難しいよ。それに、たとえレイでもロックホーンには叶わない。いざという時の保険がない」
「……」
「連中の気が収まるまでここで待とう」サーシャはそう言って荷物から自分のタオルを取り出し、セラの全身をゴシゴシ拭った。
「あいつ、風向きが変わった途端に気づいた。匂いか何かを感じてるのよ」
やがて地面の震動は収まった。諦めてくれたようだ。
恐る恐る洞穴から顔を出すと、ロックホーンの姿は見えなかった。3人はそっと這い出し、姿勢を低くしたまま崖を目指した。
しかしそこでロックホーンがにゅっと姿を現した。
地面の窪みに隠れて待ち伏せしていたのだ。しかも1頭ではなかった。仲間を呼んだのか、5頭が取り囲んでいた。
「ソフィア、すまない、やるぞ」
サーシャはそう言って杖を構え、〈切断する火線〉を放った。
「伏せて!」
サーシャは杖をぐるりと回して5頭全部のロックホーンに攻撃した。
それだけで肉を断つには至らない。でも鱗を焼かれたロックホーンたちはよろめいた。
セラはその隙に前に出てレイピアを抜き、正面の1頭を狙って爆竹を投げて脅すと同時に腕の付け根に切り込んだ。
ロックホーンが爆竹に驚いて懐を開いた。
レイピアを構える。
と、爆竹の煙を突き破って何かが目の前から突進してきた。
いや、ロックホーンの牙ではない。体勢を戻すには早すぎる。
何――?
それは人だった。ロックホーンの体を乗り越えて飛び込んできたのだ。
セラが気づいた時にはすでに彼女の構える突撃槍が左の肩口に突き刺さっていた。
セラはその衝撃で仰向けにぶっ倒れた。まさか人に攻撃されるなんて思わない。避けられなかったのはそのせいだ。
サーシャは杖で狙いをつけたが、撃たなかった。流れ弾を恐れたのだ。最悪彼女はセラを盾にするかもしれない。
彼女はセラから槍を抜いてさらに進み、サーシャと切り結んだ。
と、思ったのも束の間、彼女は足を後ろに蹴り出して身軽にサーシャの頭上を飛び越え、かろうじてガード姿勢だけとったソフィアを槍ごと叩き潰した。
彼女が距離をとったところでサーシャはやっとレーザーブレイズを放った。
しかし彼女は振り向きながら足を肩幅に開き、両手で突撃槍の柄を握ってスイングした。
火線は細長い円錐形の槍に当たり、上下に割かれながらも芯の部分だけはスイングの方向に跳ね返った。
そして起き上がろうとしていたソフィアの足元に着弾、地面の石くれを跳ね上げた。その破片を頭に食らったソフィアは今度こそ昏倒した。
「この地は龍の領域、ゆめゆめ人間が踏み荒らしてよいものではない」
彼女はスイングのまま槍の先端をサーシャに差し向けた。
「お前も人間じゃないか」サーシャは言い返した。
このままじゃいけない。
セラは朦朧とする意識の中で必死に起き上がろうとした。
左腕の感覚がなかった。それ以外の全身の肌が泡立つのを感じた。私は龍に変身しようとしているのか?
「ほう……?」
気づくと彼女がそばで顔を覗き込んでいた。
セラは腹部を締め付けられるのを感じた。重力の方向が目まぐるしく変わり、いつの間にか高いところに担ぎ上げられていた。
彼女はセラを担いだまま龍の額の角の間に飛び乗っていた。
自分は連れ去られるのだ、と気づいた次の瞬間にはセラは気を失っていた。




