番外4話 愛美の育児体験
るんるん様から頂いたご感想をヒントに考えてみました。
本編はこちらになります。
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木曜日
三泊四日の修学旅行を終え、キャリーケースを引いて帰宅した愛美の手にはほ乳瓶が握られ、その胸にはすやすやと眠る可愛い赤ちゃんが抱かれていた。
「お姉ちゃん! おっぱい出してください!」
リビングでいきなりシャツを捲り上げられ、胸が露わにされる。家族とはいえ男もいるのに。
「ぎゃっ! 出るわけないでしょう!」
抵抗しようにも赤ちゃんを抱いている愛美を乱暴に振り払うことができず、手で自分の胸を隠して立ち尽くすしかなかった。
「使えないおっぱいですね! 見た目はこんなに凄いのに」
「ひゃぁぁぁぁぁぁっ!」
勝手に揉むな!
使えないのはあんたのもでしょうが!
いきなりのことに目を逸らしていた武人が、『こんなに凄い』のとこでピクッと反応して、チラチラ見てきた。
女の子ってそういう視線には敏感なのよ!
「武人 見てるのバレてるからね」
「いや、だって、これは不可抗力っていうか」
「言い訳無用! あとでお仕置き決定」
「え!?」
お仕置きだって言ってるでしょ。なんで嬉しそうなのよ。ご褒美じゃないんだからね!?
「お母さん おっぱ...」
ゴッッ!
ターゲットを母さんに移し、母さんのシャツを捲ろうとした愛美の頭頂部に母さんの拳骨がヒットした。
父さんが残念そうだ。
「お父さん?」
母さんの父さんを見る目が冷たくなった...。
もし母さんにも『使えないおっぱい』とか言ってたら、たぶん今ごろ確実に愛美の命はなかったと思う。南無...。
「馬鹿なことやってるんじゃないの。武人、お湯沸かして。有紀子はミルクの分量をきちんと計りなさい」
この件について母さん以上に頼りになる存在はいない。私たちは命令を全うすべく、弾かれたように動き出した。
声も出せず頭を押さえてうずくまる愛美から、母さんが赤ちゃんを受け取る。
「まったく!あなたがひとさまからお預かりした赤ちゃんなのよ。何かあったらどうするの。真面目にやりなさい」
普段『お父さんラブラブ』のポワポワ母さんが真剣である。
「ひゃい...」
当然、愛美には逆らう、反論する、流す、という選択肢は存在せず、涙目で首肯する。
話は昼間に戻る。
三泊四日で修学旅行をしていた沖縄から、羽田空港に到着した愛美たち。
クラスメイトの山根雅美のスマホに2時間以上前から、多くの着信通知と留守電が入っていた。曰わく『お姉さんが救急車で搬送されてきたので連絡が欲しい』と病院から。
飛行機の中では飛び立つ前も含め、携帯電話は電源を切らねばならない。那覇から東京までは約3時間+α。連絡がつかなかったのだ。
まーちゃんは動揺しながらも病院に電話をかけ、時折愛美と電話を代わりながら病院名や容態、状況を聞き出し、サキちゃんが横でメモをとった。
空港から病院へ直行することになったが、まーちゃんの希望でサキちゃんと愛美も同行した。
まーちゃんとは、一年生のときサキちゃんが同じクラスで仲が良く、その流れで愛美やマナちゃんたちとも親しくなったらしい。
お姉さんは結婚し、隣の市に居を構えていた。しかし子供が生まれた矢先に、旦那さんの単身赴任が決まってしまい、長期なら一緒に行っても良かったが、急遽の現場立て直しまでの半年間という微妙な期間だったため、残ったのだ。
そして両親だけど、間の悪いことに?昨日から夫婦水入らずでシンガポールへ旅行中。
まぁ、わからなくもない。上の娘は片付き、下の娘は修学旅行で不在。帰ってきても週末で日常から解放されるにはうってつけ、日曜日には帰国するからご飯は勝手に食べてくれ、と事前に言ってはいたらしい。
タイミングが悪かったのだ。しかし病気やケガはタイミングを待ってくれない。
三人は病院に到着した。
看護師の説明によると、外傷はなく、倒れた時の打撲程度。頭を打ったようなので念のための精密検査。
診断としては過労。そしてかなりの貧血。血液を調べてみるとあまりまともに食事を摂っていないようだ、と。
そしてその主な原因が、現在進行形で横にいた。
赤ちゃんである。
我慢するのは美徳とされるが、我慢し過ぎるのはただのストレスでしかない。
どうもお姉さんは我慢強いというか内側に溜め込みすぎてしまったようで、掃除洗濯など普通の家事に加え、あやす、授乳、寝かせるなどの重労働。例え寝ている間でも赤ちゃんからは片時も目を離せない。苦労を吐き出そうにも旦那さんは不在、夜中に何度も赤ちゃんのために起きる睡眠遮断、頭痛や吐き気で食事はとれず、心臓はドキドキ。
『あ、いよいよヤバい』と自分で消防に電話している最中に昏倒したらしい。
そこまでストレスが高じても赤ちゃんに当たらなかったのは素晴らしい人だと思うけど、もう少し早くSOSを伝えたほうが、ね。
そして入院するのにも課題となるのが赤ちゃんである。
過労なのだから休まないといけないのに、赤ちゃんがいると休めない。
泣かれたりすると、他の患者から苦情が来るかもしれない。
まーちゃんには育児の経験がない。
最低でも3日入院して栄養と休息を摂れれば、あとは帰国する両親を頼ることもできる。
そのたった3日の目途が立たない。
「あの、よろしければ日曜日まで我が家でお預かりしましょうか? 母は看護師ですし、これまで私を含め3人の子供を育てた経験もありますけど...」
解決策がなく沈黙と赤ちゃんの寝息だけの室内を、愛美の提案する声が駆ける。
普通であればよく知らない相手に自分の大切な赤ちゃんを預けることは考えない。
しかし中学生とは思えない容姿の愛美が落ち着いた様子で、級友が「あぁ、そうだよね」と事実を肯定するように言い、妹のまーちゃんも親しそうに泣きすがって「ありがとう」と言い、その頭を愛美が聖母のように優しく撫でるのを見ている。そして自分には看護師の母も居る、という話にお姉さんは安心した。
あとで聞いたらやはり、その時は愛美を中学生とは思ってなかったらしい。
まーちゃんがお姉さんの自宅へ入院に必要なものを取りに戻る際に抱っこひもやほ乳瓶も持ってきてもらった。
愛美が家に着いてから愛美からまーちゃんに電話をかけ、それぞれお姉さんとうちの両親に電話を代わり、今回の経緯と赤ちゃんを預かる同意がなされた。お姉さんからは御礼とお詫びが涙声で何度も絞り出されていた。
そして早宮家では短期集中育児講座が実践真っ最中である。
赤ちゃんの名前は『慶太』くん。
何の相談もなく赤ちゃんを一人預かってきた愛美に『無責任すぎる』とお説教していた母さんや父さんも、久しぶりの乳児には相好を崩した。
ゴツく見える父さんも赤ちゃんを抱く手つきは柔らかく、優しい。
「やっぱり赤ちゃんは可愛いねぇ、母さん」
「そうですね。また欲しくなっちゃいました」
「今晩、頑張ってみようかな」
こらこら、そこで危ない会話を始めないように!
それにしても不思議なのは我が両親である。
意思疎通する気があるのかないのかわからない赤ちゃんを前に、
「あらあら、お腹すいたのね」
「愛美 オムツじゃないかな。換えてあげなさい」
「眠くてぐずってるのよ。抱っこしてあやせばすぐ寝ちゃうわ」
泣いてるだけなのになぜわかるの!?
父さんが笑いながら言う。
「どれだけお前たちに悩まされたと思ってるんだ」
愛美がオムツを外していく。
「わぁ、けーたくん いっぱいオチッコでまちたか~。拭き拭きちまちょうね~」
言語が退化してるわよ?
「可愛いのがついてまちゅね~。兄さんもこんな感じでしょうか」
「そんなはずないじゃない。もっと大きいわよ」
「え?」
「え? どしたの?」
「お姉ちゃん 兄さんのを見たんですか? いつ見たのです?」
「保健の授業でやるじゃない」
「あんなもの宛てにありません。もっとちっちゃくて可愛いかもしれないじゃないですか」
横で武人が泣きそうにしている。
「知らないわよ。まだ見てないんだから!」
「『まだ』? これから見る予定があるんですね?」
しまった! つい...。
「愛美! 早くしないと慶太くん風邪引いちゃうでしょ!」
母さんの拳骨が愛美の頭頂部に炸裂した。
「ひゃい...」
また慶太くんが泣き出す。
「愛美 オムツもう一度」
「さっき換えたばかりですよ?」
「いいから。ウンチかも」
なるほど~。 とにかく理由も分からず言われたままに動くしかない私たち。
オムツを外していた愛美の手が止まる。
「お母さん! 救急車! 慶太くんが、慶太くんのウンチが! 緑色なんです~!(泣)」
慌てふためき、家の電話に飛びつく愛美の頭頂部に、母さんの拳骨がめり込む。
「落ち着きなさい! 赤ちゃんのウンチが緑色なんて当たり前でしょう!」
涙目で頭を押さえてうずくまりながら、母さんを見上げる愛美。
「まだ母乳やミルクしか飲んでないから、緑色になるのよ」
「病気じゃない?」
「普通よ」
愛美が育児に慣れるのと、愛美の頭が割れるのはどちらが先かしらね?
母さんがお風呂に入るときに盥を出して慶太くんを洗い、それを一緒に入った愛美が見学した。外で父さんが慶太くんを受け取り、優しく拭いてからベビーオイルを薄く塗り、オムツや服を着せていく。オムツの締め口などこすれやすい場所にだけ、ベビーパウダーを薄くつける。
このチームワーク! この手際の良さ! この夫婦、侮りがたし。
とりあえず愛美、慶太くんを追いかけて風呂から裸で出てくるんじゃない!
夜中は、慶太くんが夜泣きして何度も起こされた。
とにかく何故泣いているのかわからない。ミルクの時もあればオムツの時もある。でも理由がわからないときもある。
慶太くんが泣く度に何度も目を覚まして頭が"おバカ"になっている愛美が、泣いている理由がわからなくて胸に抱いた慶太くんと一緒に泣く。カオスだった。
まーちゃんのお姉さんはこれを一人でやってたのね。私なら三日で倒れる自信あるわ。
でも、その苦労を乗り越えた先にある、慶太くんの笑顔が可愛いかった。
「この笑顔のためなら頑張れるって思うでしょう?」
私たちの後ろから、母さんが見透かしたように言ってくる。
その、したり顔が非常に悔しかったけど、気持ちはよくわかった。非常に悔しかったけど!
木曜夜からの生活の中心はやはり慶太くんだった。
室温や湿度の調整、食事の内容、食事中の視線、お風呂の順番。テレビ(もともとあまりテレビはみないけど)の音量。本当に生活のすべてが。
金曜日は、愛美の学年は修学旅行帰りで1日休み。幸い、母さんも公休でなんとかなった。公休じゃなかったら年休とったかもしれないとは笑っていたが。
慶太くんと寝食を共にした怒濤の三日間が過ぎ、慶太くんも私たちよりは愛美に懐いた。
調子に乗った愛美が自分のおっぱいを与えようとして、当然出ずに慶太くんは泣き、衛生面から怒った母さんにまた拳骨を食らったりもした。
そして今日、日曜日の午後。
退院したお姉さんが、まーちゃんのお父さんが運転する車で慶太くんを迎えに来た。まーちゃんと、まーちゃんのお母さんも同乗して。
慶太くんを胸に抱いた愛美が、なぜか勝ち誇ったような表情で待ち構えている。
「お姉ちゃん 慶太くんが帰りたくないって離れてくれなかったらどうしたらいいんでしょうか?」
はぁ? 何言ってんの?
「でも、こんなに仲良しになっちゃいましたし」
そんなことをボソボソと話していると、お姉さんが近づいてくる。
向こうのご両親は、うちのお父さんたちに何度も頭を下げていた。
「...慶太」
お姉さんが慶太くんに話しかける。
途端に、慶太くんがお姉さんの方を振り向いて、キャッキャッと笑った。本当に、天使のような笑顔で。
そして、慶太くんが望むように愛美はお姉さんに抱き移らせる。
「慶太 ごめんね。寂しくなかった? ううん、とても優しくしてもらったみたいね」
お姉さんが、慶太くんを見る私たちを、そして自分の腕の中から私たちを見る慶太くんを見て、涙をこぼしながらも嬉しそうに笑う。
「とても良い子にしてくれてましたよ」
私はお姉さんにそう伝える。
「はい。とても、良い子でした」
愛美の言葉は少ない。
育児のために預かっていた道具などをいれたバッグを、愛美の手からまーちゃんが受け取り、バッグを失った愛美の手をまーちゃんが握ってくれている。
向こうのご両親がこちらに話しかけてくる。
「本当に、ありがとうございました。娘と孫が大変なご迷惑をかけてしまって」
「いいえ、迷惑だなんて。とても、素敵な、三日間でした」
愛美は一生懸命、平静を装って答える。
そんなやりとりの中、慶太くんが愛美に手を伸ばす。
「ま~ ま~」
それに対し、愛美は恐る恐る手を伸ばし、その手を握り返す。
「慶太くん またね。バイバイ、バイバイ」
愛美は笑ってそう言った。言葉はそれ以上続かず、涙が頬を伝っていたが。
「お嬢さんも退院されたばかりでお身体が大変でしょう。ご実家でゆっくりされたほうがいいと思いますよ」
父さんが空気を読んでお開きを促した。
まーちゃんたちが車に乗り込み、最後の挨拶をして走り去っていった。
去ってゆく車が見えなくなるまでずっと見続けた愛美が、愛美を見守っていた母さんに抱き着く。
「どうしてですか? あんなに慕ってくれてたじゃないですか!」
母さんがゆっくりと話す。
「愛美が ”まだ” お母さんの匂いじゃなかったからよ」
「お母さんの匂いじゃない?」
「そう。赤ちゃんて目が悪いから、少し離れたらもう自分の親の顔なんてわからないわ。そんな中でどうやってお母さんを見分けてるって言うと『匂い』だと思うの」
「匂い?」
「学説なんて知らない。でも自分を守ることが何もできない赤ちゃんが活きるためには、自分を守ってくれる人のそばに行かないといけない。目が悪い赤ちゃんが自分を守ってくれる人を選ぶ方法は「匂い」なんじゃないかな?」
「匂い」 愛美は繰り返す
「そうそう。一番守ってくれそうな匂いを探す。愛美は、まだお母さんの匂いじゃなかったのよ。でもね、お母さんの匂いには勝てなかったけど、うちの家族の中では、慶太君を一番守ってあげられる匂いを出してたんだと思うの。だからお母さんがいないときは慶太君は愛美を一番に探してたでしょ?」
「お母さんの匂い」
愛美の声が 少し明るくなった。
その夜、愛美は自分の部屋から多くのランジェリーを持ってリビングにやってきた。
「お母さん! 赤ちゃんを産んでください! お父さん! 頑張ってください! 早く! これ着てください! これも! これも!」
おぉ~! 例のベビードールやキャミソールはもちろん、ベージュのスケスケボディスーツ。ってもうそれ、見た目マッパと同じじゃね?
サイドひもショーツ! サイドだけじゃなく、全体がヒモだよ...。
ちょっと! その黒いブラとショーツ、大事なところに布がないんだけど!?
勢い余って愛美は母さんを脱がせにかかった。リビングで。
愛美に押されていた母さんの反撃!
パンッパンッ!往復ビンタ一閃! 足払いで転倒させての抑え込み!
「ウグッ ヒグッ ウェェェェン! 赤ちゃんが欲しいんです~;;」
愛美が子供のように泣きじゃくる。
「愛美が一人で何でもできるようになったら、好きなだけ作ればいいでしょ。育児くらいは手伝ってあげるから」
いゃ、母さん。 いいこと言ったみたいな顔してるけど、大事なとこに布が無いショーツとブラ、今さりげなくポケットに入れたよね?
翌日、月曜日
愛美は少しだけ腫れぼったいまぶたで登校した。
サキちゃんに聞いた話だと、
クラスを含めた学年では修学旅行の余韻で高揚していたけれど、その日一日中、愁いを帯びて寂しそうにしていた愛美は校内の男子の目を一身に集めていた。当の愛美は休み時間ごとに、ずっとまーちゃんに後ろから抱きついていたらしい。
幸いにも、「慶太くんの匂い」とまーちゃんの耳元で囁いた声はまーちゃんとサキちゃん以外、特に男子に聞かれることはなかった。
お昼休み。親しい友人同士で机を寄せ合っての給食。サキちゃんたち6人でおしゃべりしながら。
愛美は目立つ上に家族以外には外面も良い。猫を被っているだけだと私は知っているけど。
ふ、と食事を口に運ぶ愛美の手が止まる。
「ん?」と周囲の話も止まる。
「...あ、赤ちゃんが、欲しいのです」
普段落ち着いた様子の愛美が、頬を染め耳まで赤くし、会話の流れまでぶった切って恥ずかしそうに、唐突に放った言葉に周囲の男子は色めき立った。
結局、昼休み後から放課後までに20名ほどの男子が自己アピールをしてきたそうだ。
「まったく相手にされてませんでしたけどね」(マナちゃん談)
その日以降、父さんと母さんへの「赤ちゃんおねだり」はなりを潜めたが、愛美の部屋には育児関係の本が増えた。
煽情的なランジェリーとともに。
暇つぶしになった、程度でも評価していただけると嬉しいです。
本編もよろしくお願いします。
※何か思いつき、気が向いたときに書けるように連載形式にしているだけですので、近々書く予定があるわけではありません。