灯台下は、明るくて
短編を書いてみたくなった(^^)
「ク、ソ……!」
また、逃した。
彼の盗みを称賛するが如く美しく光る月光を背に、黒いマントをバサリとひるがえし、スリンガーを射出して夜の街をいっそ気持ちのいいほどの高笑いとともにさっそうと消えていく。
上空に数機ヘリが待機しているが、どうせいつも通りに逃げられるだろう。だから期待せず、男は手錠を悔しながらポケットにしまった。
今晩もやけ酒決定だ。仲間たちを置き去りにし、男は携帯でいつもの酒屋に電話する。2コール目で反応があり、今ちょうど席が空いたとのこと。嘘つけ。いつもガラガラのくせに。
男に必要なのは酒の女神などではなく、警察の女神様なのだ。神など基本的に信じないたちの人間ではあるが、都合のいい時だけは神の存在を許可するのた。前者も後者も女神は女神。都合のいい今は縋らせていただくこととする。
財布と相談をし、あまり長居はできないことを悟る。給料日もまだしばらく先だ。たまたま財布の隙間から落ちた免許証に写る、『田中唯二』の仏頂面が自分を見上げる。
ふん、と鼻を鳴らして拾い上げ、財布に直した。
男……田中は警察官となって三年目を迎える。おかげさまで給料も少し上がり、諭吉もそれなりの蓄えがあるが、すぐさまその何人かが酒に貢がれてしまうという事件が発生している。犯人は自覚があるようで、反省はしているが、後悔はしていないとのこと。
報告書を『適当に』書いて提出、やることもないからさっさと退勤する。安いチャリにまたがって酒屋へと向かう。
気分は少しだけ軽い。
酒に溺れている間だけはあのクソ野郎のことを綺麗さっぱり忘れることができる。このご時世になってル◯ンみたいな真似をする馬鹿がどこにいる? いやいるからこうして田中は酒を飲むわけだが、それにしてもだ。
豪快に、そして華麗に。あのクソを表現するならばそれが適切だろう。きっと今日もSNSの海では名もない怪盗のことがトレンドに上り、脳内お花畑の女たちが黄色い叫びでも上げているはずだ。
アイツは脚光を浴び、そして田中ら警察は比例して噛む苦虫の量が倍増する。いったいいつから警察は苦虫の育成場になったのだろう。
そう考えると抑えていたイライラが募り、ギアを上げ、スピードを高めて一気に道路を滑走して八つ当たりとしか言えない幼稚な行為にでる。警察官の意地としてアイツを捕まえてやる。
日が変わろうとする頃に酒屋に到着する。
「遅かったじゃない。もうすぐで私が飲むところだったわよ」
簾を上げて中に入ると、痺れを切らした女店主がいつもの席の前に立っている。そこにはいつもの酒を注いだグラスがすでに置かれており、結露してグラスに水が生じ、流れる水が時の経過を静かに知らせる。悪い悪いと手を縦にきり、田中はいそいそと席に座った。
この店はどちらかというと狭いため、客との距離も近い。
「またやられたんだよ」
「んなことはわかるわよ。テレビはずっとそのことでもちきり。そんな警察事情なんてどうでもいいの。私が何より気になるのは、あんたがどれだけここで金を私に貢いでくれるかなのよ」
「貢ぐだなんて。もっと上品に言ってくれないのか?」
「酒に呑まれろ。そして私の懐を温めろ」
相変わらずどきつい店主だ。人間性としてはクズだが、仕事ぶりは確かだ。
田中に気を使ってか、ニュースは回避しているようだ。しかし見せつけるようにプリキュアを流されては気が滅入る。
田中はさっさと一口目を飲むことにした。グラスの取っ手をやや乱暴に掴み、一気に喉奥に流し込む。そしてその勢いのまま瓶から並々の量をグラスに注ぎ、また飲んだ。
酒の女神が『にっこり』微笑みながら田中に近づき、胸ポケットに領収書を一枚、忍ばせる。
「つまみもいつものでいいかい?」
「ああ、よろしく頼む」
だらしなくカウンターに突っ伏し、頬ズリをする。今日1日で微妙に伸びた髭がじょりじょりと痛い。
プリキュアの中間に差し掛かったところで一旦CMに入る。
やはりプリキュアは初代が最強だ。あの二人がいればどんな敵だろうと鎧袖一触だ。あんなお強い二人が味方でいてくれればなんて心強いのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えていると、いつの間にかつまみが前に差し出されていた。
「あんたライダー系よりこっち系だったの?」
「どっちもだ」
「うわぁ」
「引くことはない。誰しも通る道だ。それにプリキュアを観ていたからといって変態扱いされるのは不本意極まりない。世の中にはプリキュア好きなおっさんなんて探せばいくらでもいるだろう」
「この国は地獄ね」
「ああ、全くだ」
つまみを拝借し、瓶を一本注文する。するとさっきまで田中を汚物として見ていた目が一瞬でダイヤモンド以上の輝きを放って、店主が厨房の奥に消える。
しかし出てきたのはひとつグレードの高い酒。
「これじゃない」
「サービスするさ」
嘘だ。
田中が反論するよりも先に店主は栓をきゅぽんっ! と開け、とくとくとグラスに注ぐ。あーあ、これでお支払いが確定してしまった。この女は口より先に手が出る。売れない理由はこれだとなぜ気づかないのか、世界の七大ミステリーにランクインしても不思議はない。
しかし美味いものは美味い。開けた事実は覆らないため、もうどうにでもなれと半ばやけくそで飲んでやる。
つまみが進む。酒が進む。
今日の嫌なことが頭から蒸発していく。だんだん意識もふわふわと浮き沈みし、不意に眠気に襲われる。
だめだだめだと頭を振り、田中は無理やり覚醒する。この店でべろんべろんに酔ってみろ、すぐさまこの女は無用の酒を次から次へと持ち出し、酒の女神も舌を巻くほどの料金を請求してくるのが目に見えている。
CMが終わり、プリキュアの続きが始まる。
「……帰る」
その一言に反応した店主が机の上の領収書に手を伸ばしたが、それより先に田中の手がそれを掴み取った。
見るからに悔しそうな顔をして田中を見るが、すぐに営業スマイルに早変わりする。そんなもの見せつけられてももう遅いし、少しも心打たれない。これならばスマイルゼロ円の方がよっぽど価値がある。つまりこいつのスマイルは有料。可愛くないのにだ。
財布からお金を取り出すと、皿の上に置く。流石に釣りをヘソクリするようなやつではないと信じているから特に細かい計算はせず、釣りが帰ってくるのを大人しく待つ。
「いつでも開いているからね」
いつも俺しか待っていないくせに、と吐露する。どうせ今渡したお金でまた明日への命が繋がったと内心涙しているのではないか。しているはずだ。となれば行かなかった日はどうしているのかと少し興味を持ってしまう。だがこの女のことだ、どこからかのヘソクリでゴキブリのように生きながらえているのだろう。
ある種の信頼から田中はそれ以上の思考をやめた。
再びチャリに跨り、自宅まで約十分の短いドライブを楽しむ。
ため息を吐けば、暗い空の下に街灯で照らされた白い息が映し出される。ため息ひとつで幸せがひとつ減るというバカげた迷信があるらしいが、それならば田中の幸せはとうに万は消えている。これはいったい誰のせいだ。無論あの怪盗のせいだ。
あっという間に自宅ーー二階建てボロアパートに到着した。元々入居者は少ない。三分の一ほどしか人が住んでいないのだ。それもそのはず、激安家賃を謳っているのだから。そしてその金額に適したクオリティにもなっている。
「……あら」
錆のよく見える階段を上がり、薄暗い明りのみを頼りに鞄の中を漁って鍵を探していた田中の背中に声がかかる。
「……ああ浅日さん、今戻りました」
完全に気配が感じられなかった。家主である彼女はいっそ実は暗殺者だと告白されても納得してしまいそうなほどだ。
今年で39を迎えるそうだが、その美貌が衰える兆しはなさそうに見える。
「毎日お仕事大変ですね。私も何かできるといいのですが……」
夜だというのに、彼女の長い睫毛が揺れるのがなぜかよく視覚できる。
田中はそんな、とかぶりを振る。
「もったないですよ。俺なんて一年怪盗を追っているのに未だ尻尾すら掴めていないんですから。こんなダメダメ警官に与える優しさなんていりませんよ」
自嘲する。そしてこれは事実である。
いくら対策を練ろうとも必ず突破され、必ず盗まれる。それを一年もただ何もできずに味わったのだからもう気が滅入ってすらいた。
だが上から怪盗を必ず捕まえろとの辞令がある限り、さじを投げることは許されない。田中は真面目な人間であるからめげずに今日まで彼と戦った。だがそれでもなのだ。
「……やっぱ俺には無理なのかな」
そんな弱音がポロリと溢れる。
これが田中が警察官になって初めて吐露した弱音だった。
そしてすぐにそれが失言だったと激しく後悔した。目の前には田中に気を使ってくれている浅日がいるのに、なんということを。
ハッ、と息を飲み、ため息をひとつ吐く。幸せがまたひとつと虚空に霧散する。
「ほら、何の漫画でしっけ? 『諦めたらそこで試合終了だよ?』という言葉。これが今の田中さんに一番よく効くと思いますよ」
田中の胸を人差し指で突き、浅日はウインクしてみせる。
その瞬間、田中の中では何かがぶわりと舞い上がった感じがした。
その漫画、その言葉を、知っている。ずっと昔に読んだからストーリーとかは朧げなところがあるが、そのシーンだけは十年以上経った今でも深く印象に残っている。
熱が弾け、田中は身体が熱く燃え上がるのを感じた。
諦めば、そこで終わり。
そして田中は今、諦めようとしていた。
「ーーーーッ!!」
右手の拳をギリリと強く握りしめ、田中は己の頬を容赦無く殴った。
「た、田中さん⁉︎」
突然のことで驚いた浅日を無視し、田中はもう一度自分を殴った。
痛い。確かに痛みは感じた。だがそれだけではなく、自分の心に喝が入ったのも感じた。
「大丈夫、ですよ。甘ったるい、自分を叱りつけ、ただけですので」
おかげさまで酔いが覚めた。つまりさっきの酒屋でのお金はぱーになったわけだが、浅日のこの言葉を聞くための時間調整だと思えば儲けものである。
今度は一発で鍵が見つかった。鍵穴に差し込み、回す。
「ありがとうございます、浅日さん。やっぱりまだ諦めるわけにはいきません。俺の、警察官としての矜持ではなく、個人のプライドにかけて、必ず」
「そうですか。頑張ってくださいね」
「はい」
彼女には助けられてばかりだ。
このボロアパートに越してきてから、彼女に一から十とはいわずに百も千も色々なことを教わった。
一人暮らしするにあたって最も気をつけなければならないことやから、ゴミの出し方まで。まるで親のように田中に密に接してくれていた。
軽く頭を下げる。それだけで、もう頭が上がらないほど田中にとっては尊敬する人なのだ。物腰の低いまま田中は家に入る。
鞄をソファーに投げる。それは見事な放物線を描いて無事クッションの上に落ちる。
適当に冷蔵庫を漁って、梅干しひとつを丸ごと頬張る。ひょっとこのような顔をしながら田中はソファーに座ると、テレビのリモコンに手を伸ばして電源を入れた。
『だから、怪盗ドキは特殊な訓練を受けたに違いありません』
また戯言を。
怪盗ドキ、その正体に迫る! なんてテロップを左上に大文字で表示されている。ありきたりな特集をいったい何度やれば気がすむのだろうか。逆にそれがドキ信者を増やし、比例して警察へのプレッシャーが強くなるだけだというのに。
それにドキだと? そんなのあの有名なキャラの名前を反対に読んだだけではないか。誰がつけたのかは知らないが、そいつは間違いなくネーミングセンスが欠如している。
名を売りたいのか、それともドキ信者に喧嘩を売りたいのかわからない犯罪専門家の中年の男性がコメントする。用意されたコップの水は既に空だ。
『彼は盗むと宣言した物は必ず盗みます。しかしそれを何らかの方法で必ず返却するのです。おそらく彼は盗むという行為に快感を覚える類の人間なのでしょう。それに誰かを傷つけることは決してない、顔立ちはとても整っているなどの理由で世論は完全に彼を悪役にはしていません』
『近頃は怪盗ドキに対して熱狂的なファンがいるようですが、そのあたりはどうお考えでしょうか?』
このセリフは予定されたものだったのだろう、コメンテーターが言うと同時に、ふたりの背後にあるモニターにある棒グラスが映し出された。
横軸は時間、縦軸は人気度だ。
言わずもがな傾きはとても美しい右肩上がりで、下に向かった時期など一切なさそうだ。
『確かに、必ず盗むという有言実行、それに甘いマスク。特に女性たちからの好感が高いのが事実です』
これはもう出来レースに突入している。
お決まりの最後にもっていくつもりなのだろうとやすらかに悟った田中はテレビを消した。
そして鞄の中からこれまでの捜査資料をほじくり出す。分厚いそれを机の上に置き、その量にまたため息を吐く。
これまであらゆる策を労しても無駄だった。嘲笑うかのようにその悉くを回避された。その度にいったいどれだけ顔を歪ませたか、それは田中自身にもわからない。
もう何をしても彼の盗みは止められないだろうという諦め。だが浅日の言葉でもう一度田中は立ち上がることができた。
あるはずだ。何かあるはずだ。
田中は目を瞑り、指でぐいぐいと目頭を抑えながら思考の渦に沈んでいく。
大人数でひとりを捕まえようとしたら、それを逆手に取られて遊ばれる。逆に少人数で臨めば圧倒的な機動力の前に為すすべもない。
ではどうすればいいのか。獲物の前に厳重な警備を敷いても、怪盗ドキにとってそこはただの横開きのドアでしかない。開ける……ただそれだけの単純な作業レベルで網を潜り抜けるのだ。
ならば範囲をもっと拡大……いや、それだとどこかで必ずボロが出る。広くなればその分だけ人がいる。人が多ければその分だけ情報伝達スピードが落ちる。そんな悪循環になる。そこに彼の妨害が加われば悲惨な状況になるのは間違いない。
つまるところ、これまで通りの方法では全く歯が立たないのだ。
ため息をひとつ。幸せがひとつ。
「……」
さらに深く。
アプローチの仕方を変えるのだ。
そう……怪盗の気持ちになって考える。彼ならばどのような状況でどう動くか。幾度となく彼の動きを目に焼き付けた田中には、それが正確性を抜きにして予想することができた。
体力、気持ち、装備、獲物の種類……など。それら全てから逆算する。
「……きたぞ、きたかもしれないぞ……」
ひとり明かりもつけないで、夜更かしをし、薄気味悪い笑みを浮かべながら脳内シミュレートを繰り返す。
はたから見れば不審者のそれだが本人はいたって真剣だった。
彼は真面目なのだ。
彼はもう、ため息は吐かなかった。
◆
ーー時、来たれり。
寂しい風の音を聞き、怪盗ドキは目を開けた。
今宵の獲物は千カラットのダイヤモンド。テレビで紹介されていたのを見た瞬間、ビビッと電撃が全身を駆け抜けた。その感覚は今でも鮮明に覚えている。
……なんとしてでも手にしたい。
あのダイヤモンドを手に持ち、輝きを盗ったのだという優越感にその重さとともに噛み締めたい。
あの、この世全ての美を凝縮したかのような吸い込まれる輝きは怪盗ドキの心をも盗んだ。
ならば今度はこちらが盗む番である。
ビルの屋上、さらにその鉄骨の上からドキは双眼鏡で目標の建物を視認する。
「外はざっと六十人くらいかなぁ……。中はもう少し多いとみてだいたい百四十ほどかな?」
比較的高めの声でドキは呟き、音もなくそこから降りた。
装備の確認……よし。招待状はキチンと送った。今頃きっと、ドキを一目見ようと心ときめかせる野次馬たちが建物の周りを取り囲んでいるはずだ。その数、数えること能わず。
皆の注目は獲物の保管している建物それのみ。他は手薄と言ってもいい。いつもの黒いマントは羽織らず、どこにでもいる普段着で彼はその隣のビルの脇を歩く。
ーーそしてポケットに入れていた手に握られたボタンを押す。
するとさっきまでドキのいた屋上に煙が発生した。それと同時にある影が真っ直ぐに空を飛んだ。
あれはいつもドキが使うグライダーだ。だがあれはデコイ。発射装置で射出されたそれはうまい具合に目標の建物、その屋上へと降りていく。
即座に反応したのは流石だった。スポットライトがたった数秒で当てられ、まだ霞がかる雲に大きくグライダーの影が写される。
それはまるで夜空を舞う巨大な蝙蝠。
タイミングを見計らい、ドキは再びボタンを押した。
その瞬間、周辺一帯にまで響かんほどのサイレンが鳴り響いた。
下見の際、火災報知機の近くにこっそり仕込んでいたたくさんの発煙装置を起動させたのだ。
今頃中ではあまりに突然のことで混乱が起きていることだろう。ここからが本番。中に突入する……前に懐に隠していた大量の発煙筒を出し惜しみなく全て投げ込んだ。
数秒後、外からでもわかるほどの量の煙が外に漏れることを確認して、ドキはほくそ笑んだ。
「ありゃりゃ、これじゃあ中はどんちゃん騒ぎだね」
その勢いは止まることなく、柵の向こうにいる野次馬たちの足元へと流れ込んでいる。
こうなったらもう混乱は止められない。騒ぎ始めた野次馬たちが、都合のいいヘイト集めになってくれる。
ドキはその中に紛れて柵まで接近し、擾乱に紛れて軽々と超えてみせた。そして一気に駆け出し、正面ゲートから中に突入した。
その瞬間湯、黒マントに早着替え。ついでに口にくわえた爆竹を適当に放り投げ、無数の警備員の中に潜んだ。
大広間は煙で充満しているため、超近距離でも相手を把握することは難しい。
暗視スコープを装備。約二十メートル先の台に乗せられたダイヤモンドを確認する。
その美しさを拝もうと一瞥したが、すぐに視点を切り替える。
獲物を取り囲むのは四人の男。三人は鍛え抜かれたガードマン。そしてひとりはこの建物のオーナーであり、ダイヤモンドの持ち主である中年男だ。
豊かな腹を存分にゆっさゆっさと揺らしながら何かを喚き散らしているのが聞こえる。
ーーそして、爆音。
決して大きな音ではなかった。だがもう止められない混乱へと誘うには最高の、そして締めの一手だった。
サイレン。
火災報知機。
煙。
爆音。
十分だ。
あとは味方同士で阻害し合うというなんとも無様な醜態を晒すことになる。そう思うと逆に可哀想に感じる。
この豚男の性格は既に掌握済みだ。欲深い性格であるため、あれほど高価なものを自分の手元に置かないわけがない。
ゆえにあの台にあるダイヤモンドは偽物だ。なぜなら輝きがあの時見たもののような、琴線にビンビンに触れる心の高鳴りはなかったからだ。
暗視スコープ越しに豚男の身体をよく観察する。そして限界だと言わんばかりに弾け飛びそうなボタンたちの同情を覚えながらも、スーツの横ポケットに妙な膨らみを確認した。
この間、僅か二秒。
ナイフを逆手に持ち、一振り。
すると綺麗に裂かれた横ポケットのそこからごろりとお目当てのものが見えた。
……これだ! この輝きが本物だ!!
急激に興奮が高まるが、それをドキは理性で抑え込んだ。
地面に落ちるまでに素早く手を伸ばし、優しく受け止めた。ドシリと両手にかかる重さに思わず失禁してしまいそうになりそうだ。
獲物を盗むことに成功した。あとはどろんするのみ。変に走って逃げるとかえってバレる可能性がある。だからあくまで平然を装って堂々と正面ゲートから外に出た。
あとは簡単だ。
黒マントはそこに適当に脱ぎ捨てる。
また別の服に一瞬で早変わり。
既に野次馬たちが押し倒してくれた柵を越えて動乱に紛れておさらばするだけだ。ただひとつ難点があるとしたら、全くの逆走をするわけだから、人とぶつかってしまうのだ。
華麗な脚さばきで向かいくる野次馬たちを避け、ちょうどいい人気のない通路に溶けるように入り込んだ。
「……ふう〜」
壁にもたれ、肩で息をする。
確かめるように。懐にしまったダイヤモンドに触れる。目を瞑り、そのボディをゆっくりと撫で、束の間の幸せに浸る。
『帰るまでが遠足』とはなんともその通りなわけで、まだ完全に気を抜いていいというわけではない。
両頬をペチンと叩き、自分に言い聞かせる。
「帰ろっと」
後方では未だ混乱の真っ最中だ。だがあともう五分ほどで煙も晴れるだろう。魔改造した発煙筒。その量は言うまでもないが、持続時間もかなりのものだ。ネットで売り出してみたらきっといい買値で買い取ってくれるだろう。
にっこりと微笑み、踵を返した。
その瞬間。
「ーーおい」
その呼びかけに、ドキは最大のピンチを予感した。
◆
「ーーおい」
田中が呼び止めた人物は、ピクリと身体を震わせ、数秒の間の後、こちらを振り返った。
困惑している顔で尋ねてくる。
「えっと……なんでしょうか……?」
その声色は高い。
「見苦しいぞ。今、どうすればこの状況から脱するか頭をフル回転させているところなんだろう?」
「…………」
顔が無表情に戻り、みるみるうちに敵対の眼差しが鋭くなる。
「どうして?」
その意味するところは田中はもちろんわかっている。
「お前のこれまでの行動を参考に、逆算した。お前は大胆な人間だ。手紙を送ったりなど、人の目につきたいという欲があるから必ず『ああ』すると思った。逃げる手段だって、この周辺には高い建物はまったくない。だからいつものグライダーはボツだ」
「……なら」
「あそこにいなかったのは、俺がいても意味がなかったからだ。お前は必ず盗む。そうだろう?」
「それは……盗むことを確信していたということですね? はは、まったく、これじゃあ警察官失格では?」
「失格じゃないさ。ただ上に叱られるだけだよ」
田中が一歩だけ近づく。
だが相手は動じることなく田中を見上げる。
手を伸ばし、腕を掴んでぐいっとこちらに寄せる。
こいつが、かの怪盗ドキか。田中は未だ余裕のありそうな少女の顔を見て訝しむ。
人混みからさりげなく離脱する人物を見つけ、確信して呼び止めてみれば、まさか正体は女の子だとは。
これは捕まらないはずだ。なにせ世間は怪盗ドキを男性であると疑うこともなく信じているのだから。日常生活で疑われることはまずないだろう。
いつも携帯している手錠に片手を伸ばす。
「……刑事さん、今どういう状況か理解していますか?」
手が微かに手錠に触れたところで止まる。
「なに?」
クスクスと笑い、わからないのですか? と田中を煽る。
「この先何が起こるのかを」
「もちろんわかっているとも。明日の新聞の一面に『怪盗ドキ、逮捕』ってこれでもかというほどのデカさで載る未来をな」
やはりクスクス笑いは止まらない。
訝しみ、田中はその言葉の意図を探ろうとした。
状況は誰がどう見ても田中の優勢だ。あとはもう、手錠をかけてしまえば終わりだ。例え逃げられても不自由な手では何もできまい。すぐにまた捕まえられる。
相手のペースに呑まれてはいけない。主導権はこちらに。強気で田中は語気を強めがら迫った。
「ーーもうひとつの未来。刑事さんが新聞の端っこに『警察官、逮捕される』って小さく載る未来だってあるかもですよ?」
だがそれすらもひらりと躱してみせる。そして息を大きく吸い込んで、割れんばかりの大音量で叫んだ。
「痴漢ーーーーーッッ!!!」
「なっ……⁉︎」
この国は、外国からも暗黙の了解で認識されている超ストレス社会だ。何かあれば苦情、クレーム、非難のオンパレードに囲まれ、さぞ生きにくかろう国。
女の子に痴漢だと訴えられてみろ、男にまず勝ち目はない。
過度なレディーファーストは男性劣等を世間にうえつけた。警察官が痴漢で捕まる。そんな笑うに笑えない事件があってたまるか。
つい反射的に田中は手を離してしまった。そしてその時を待っていたといわんばかりのスピードで距離をとると、いつの間にか手に装備していたスリンガーを射出して一気に建物の屋根に上った。
「この……!」
それを田中はただ見上げることしかできず、苦虫を万匹嚙み潰したような顔になる。
「あははははは! ヒヤリとさせられたけど、なんだ、あなたもなかなかかわいい反応するのですね」
「るっさい。せこいぞ!!」
「せこいもクソもないし! 盗み、そして逃げる。それが怪盗なのさ!」
それじゃバイバイ! と神経を逆なでする声でドキは田中に言うと、背中を向けて闇夜に紛れて消えてしまった。
見届けた田中はギュッと口を横一文字に閉じたまま、壁にもたれてそのままずるずると腰を下ろした。
田中の中では、ドキを逃したという悔しさと同じくらい、裏を見事突くことに成功したという歓喜が沸き上がっていた。果たしてこの興奮が抑えられようか!
表情が緩んでいき、口角が上がる。
「今夜も、やけ酒決定か」
この日初めて、あの酒屋に行く時に抱く感情が別のものに変わった。いつもならば身体が鉛に全置換されたかのように重かったのだが、今回は違う。
携帯でコール。今日は珍しくすぐに相手は出なかった。だがそれに対して寛大に田中は待ち続けた。
◆
一日二十四時間ではとても足りぬ。
睡眠時間を。もっと睡眠時間を!
シャコシャコとまだ開ききっていない眼のまま田中は歯磨きをする。視線の先はテレビ。
ニュースキャスターははきはきとニュースを読みあげている。
彼らは本当に人間なのだろうか。そわな寝起きのバカな頭で考える。こんなにも朝早くからガチガチにスーツに身を包み、眠たげなそぶりひとつ見せずに仕事をこなすのだ。
結論、彼らは人間ではない。
……バカか。バカだ。
ニュースは次へと移り、つい昨晩あった怪盗ドキの盗みをいっそ賞賛しているのではないかというほどの口調で読みあげる。
今回は姿をカメラに捉えることができなかったが、過去のものを引っ張り出してモニターに写す。
『私の、私のダイヤモンドがあぁぁぁぁあ!! 絶対に許さんぞ!! 警備はいったい何をやっているんだ⁉︎』
インタビューが流れ、所有者と思しき男が汚らしく唾を吐きながら、顔をトマトの如く真っ赤にして喚き立てている。
どうせ返されるのだからそんなに焦る必要はないのに。そんなにあのダイヤモンドもんがお気に入りだったのか。
男に哀れみを覚えて田中はそっとテレビの電源を切った。
髭剃りを済ませ、さあ行こうかと鞄に手を伸ばした時、ピンポーンとインターホンの音が聞こえた。
珍しい。
田中は相手は浅日だとわかっていた。だいたいはちょっとした事務的な連絡をするために訪れることがあるのだが、これほど早い時間にとは、珍しい。
ドア横に設置されているカメラの映像を確認することもなく田中は「はいー」とドアを開けた。
「ーーーー」
しかし、そこにいたのは浅日ではなかった。
少女だった。
しかもこの顔、ふたつほど思い当たりがある。それが強すぎて頭が痛くなりそうだった。
「浅日ユウです。今日隣に引っ越してきました! ……よろしくお願いしますね? た・な・か・け・い・じ♪」
そう言って妖艶な微笑みを向ける彼女。
田中は、人生最大級のため息を吐くこととなった。