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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私の世界の支配者

作者: Katzenliebhaber

一週間くらいで勢いのままに書き上げたものなので、クオリティの粗さが目立つかもしれませんが、お時間の許す限り、お付き合いいただければ幸いです

 ――彼女の事を書こうと思う。

 私自身、彼女の事を本当はどう思っているのか。

 そして、本当はどう思うべきなのか、いまだに分かってはいない。

 そもそも書いた所で、まともな文章として纏まるのかも怪しい。

 それでも書いておこうと思う。

 誰の為になる訳でもない。単なる私の自己満足かもしれない。

 それでも、せめて何か形に残さなくてはいけないと思ったのだ。

 それが、彼女と生まれた時から一緒に過ごしてきた私の、せめてもの義務だと思うから。



 

 私には姉がいた。

 双子の姉だ。ただ、双子と言っても二卵性なので、姿形はそこまで似ていなかったように思う。

 何より、これも二卵性だからかは分からないが、私達は性格が真逆だった。


 私は、どちらかと言えば引っ込み思案な方だと思う。

 我を通して波風を立てるのは好まないし、物事が穏やかに進むためなら多少の我慢は苦にならない。

 周りの評価も、大体「大人しい」「真面目」「優しい」などといった当たり障りの無いものになるだろうし、そういう自覚も少なからずある。


 対して、姉は――良く言えば、強い人だった。

 悪く言うならば、身勝手。あるいは傍若無人と言うべきだろう。

 彼女は、心底自分の価値観が正しいと信じて疑わない人だったのだ。


 例えば、子供の頃に二人で服を買いに行った時の話だ。

 赤色を好む姉は、赤を基調とした服を選んだ。

 対して、私は青が好きだったので、青を基調とした服を選んだのだ。

 二人とも納得して自分の好きな服を選んできたのだが、彼女は私が選んだ服を見て、こう言ったのだ。


「そんなダサい服より、私がもっと良いのを選んであげる」と。


 そして気付けば、私はほとんど姉とお揃いと言ってもいいような服を買わされていた。

 私の主張も反論も一切入り込む余地はなかった。

 青が好きだと、この服が良いのだと重ねて言っても、姉は程度の低い冗談を聞いたように苦笑いを返すだけだったのだ。


 自分の感性が否定されて、姉の感性を押し付けられた。

 あの時は幼心に傷付いたのをよく覚えている。


 

 ――今にして思えば。

 あの時、泣き喚いて喧嘩してでも、自分の主張を通していれば、何かが変わっていたのかもしれないと――たかが子供の振る舞い一つで何が変わる訳も無いと、頭では理解しているのだが――心の片隅で思ってしまうのだ。


 

 この歳になれば、その程度のエピソードも大した事ではないと笑い飛ばす事も出来る。

 なにせ、分別も効かないような幼い頃の話だ。誰だって身勝手、無謀、生意気が服を着て歩いているような時代はあるのだから、仕方がない話である。

 だが、彼女のそういった所は、むしろ成長する程に酷くなっていった。


 次は、少し成長して、小学校の高学年になった頃の話だ。


 ある日、私は道端に捨てられている子犬を見つけた。

 薄汚れていて痩せていたが、興味本位に近づいていった私に対して、甘えるように擦り寄ってくる仕草が、何とも言えず愛らしかったのを覚えている。

 しかし、残念ながら、私の父も母も犬が苦手だった。

 家に連れ帰って飼う事など、まず望めない。

 それでも、その子犬を置き去りにできなかった私は、家の近くにある橋の下に子犬を連れて行った。

 そして、給食の余りを持ち帰ったり、夕食をわざと残して、その残飯を子犬に与えて、こっそりと飼う事にしたのだ。

 学校を終えると、真っ先に橋の下に行って、子犬の世話をする。

 夜になってからも、親の目を盗んでは家を抜け出して様子を見に行き、世話をした。

 気付けば、子犬の成長を見守るのが私の最大の楽しみとなっていた。

 餌をやり、身体を拭いてやり、一緒に遊んでやり……。

 そうして、痩せ細ってみすぼらしかった子犬が、徐々に大きく育っていくのが、何とも言えず嬉しかったのだ。


 そんな生活が一ヵ月程続いた後の事だ。


 私は、いつものように学校帰りに給食の余りを持って、橋の下に訪れていた。

 最近は私の持ってくる餌か、それとも私の匂いでも覚えたのか、私が来るとすぐにあの子は駆け寄ってくるようになっていた。

 しかし、それがこの日はなかった。

 少し妙にも思ったが、まぁそういう日もあるだろうと、私は気にせず、子犬が棲家としている場所まで近寄っていった。


 そこに、子犬の死体が転がっていた。


 無造作に、まるで投げ捨てられたゴミのように。

 腹部を刺され、臓物をぶちまけながら、転がっていた。

 

 正直な所、その光景を見ても、私は何も思わなかった。

 いや、思えなかったと言うべきだろう。怒りも、悲しみも、嫌悪も、恐怖も、何もなかった。

 何も思えず、真っ白になった頭のままで、ただ、私はその光景を呆然と見ていた。

 どれだけ見ても、その光景が何を意味するのか。何が起こり、何が失われてしまったのか、いつまでも私には理解できなかった。



 呆然としたまま、気付けば、私は自宅へと帰りついていた。

 あれからどのように歩いて家まで辿り着いたのか、まったく記憶もないし、興味も無かった。

 もしかしたら、背後から刺されても意に介する事すらなかったかもしれない。

 あの時の私は、それくらいに無気力で呆けていた。

 機械的に靴を脱いで、玄関に上がり、居間に入る。

 居間には、先に帰っていた姉がいて、お帰り、と私を出迎えた。

 思考が麻痺したままの私は、そんな姉の言葉に反応する事もなかった。

 ただ、まるで幽鬼のように、フラフラと居間を通り抜けようとして――


 そこで、ふと、血に塗れてゴミ箱に捨てられていたハサミを見た。

 先の尖った、何か赤黒い液体で刃を濡らした、小さな小さな、凶器が――


 今の今まで麻痺したままだった私の頭が、そのハサミを見た瞬間に驚異的な速度で回転しだした。

 そのハサミを持った何者かが、橋の下のあの子を手にかけ、見るも無残なまでに切り刻む。その一部始終が、頭の中でこれ以上ない程の臨場感で再生されたのだ。

 怒り、悲しみ、嫌悪、恐怖。あの子を見た時に溢れさせるはずだった感情が、今になって堰を切ったように溢れ出してきた。瞬く間に私を飲み込み、一瞬にして許容量を突破する。堪え切れずに、思わず胃の中の物を戻しそうになった。


 ――駄目だ。まだ崩れるな。まだ早い。

 ――まだ、あのハサミを見ただけだ。それで勝手に崩れる訳にはいかない。

 ――聞かなければ。その、目の前にいる何者かに、そのハサミが一体何なのかを。


「そう言えばさぁ」


 急に蹲ってしまった私から興味なさげに目を逸らした姉が、何でもない事の様に口を開いた。


「アンタが勝手に飼ってた犬、処理しといたよ。お父さんとお母さんに見つかったら怒られるからさ。感謝しなさいよ」と。


 まるで欲しがってた雑誌を買っておいた、くらいの気楽さで、私の友達を殺した事に感謝を求めたのだ。

 動悸も、吐き気も、あれほどはち切れそうに溢れていた激情も。そのすべてが、この瞬間に引っ込んだ。

 顔を上げて姉を見る。姉の方も私を見た。姉は笑っていた。

 私を見下し、馬鹿にする。そんな笑顔じゃない。

 もっと純粋な、お互いの幸せを祝うような、それはそんな笑みだった。


 

 この時、私は姉が怖くなった。

 悲しみ、怒り、一度溢れかけて引っ込んだ激情のすべてが、今度は恐怖一色で塗り潰されていた。


 私が大切にしていた友人を惨たらしく殺した事も。

 私が大切にしていた事を知りながら、それを奪い取っておいて、感謝されるべきと信じて疑わないその態度も。

 その上で、何もかもを信じ切った笑みを浮かべられる、その思考も。


 彼女のすべてが恐ろしかった。目を合わせる事すらもう出来なかった。

 彼女はきっと、私とは異なる生き物なのだ。

 二卵性とはいえ、双子なのだから、多少は外見は似ているのかもしれない。

 しかし、その在り方、精神性、外見以外のすべてにおいて、私とはかけ離れ過ぎている。

 およそ人ではない何かに思えた。人らしく見せようとしているだけの、人の皮を被った、恐ろしい何かに。

 

 目の前に見える姉の姿が、輪郭が歪んで見えた。

 恐怖がそう見せるのか、それとも本当に得体の知れない何かに変貌でもしようとしているのか。

 どちらでもないと気付かせてくれたのは、何かが頬を伝う感触だった。


 気付けば、私は泣いていた。

 止めようと思っても止まらない。むしろ止めようとする程に涙が溢れてくる。

 悲しかったからなのか、それとも怖かったからなのか。

 自分がなぜ泣いているのかもよく分からずに、私はただ蹲って泣き続けていた。

 きっと、姉はそんな私をおかしなものを見るような目で見ていたのだろう。

 それを確認する余裕はその時の私には無かったが、何故かその視線は今でも覚えているような気がするのだ。




 この日から、私は得体の知れない宇宙人と同居しているような錯覚に囚われた。

 自室の隣、壁一枚隔てた向こうに姉がいると思うと、家にいても心が休まる事は一時としてなかった。

 とは言え、学校に行っても、双子である私達は同じ学校で同じ学年だ。

 学校に行っても、家に帰っても、姉の目から逃れる事など出来なかった。


 やがて私は、学校が終わると日が暮れるまで街をふらついてから帰る生活を送る様になった。

 学校でも家でも心が休まらないのなら、どこか別の場所で過ごすしかないという苦肉の策だ。

 街をふらつくと言っても、当時小学生だった私に遊びまわる様な財力がある訳はない。お小遣いは月に五百円だし、そもそもゲームセンターやカラオケなどといった娯楽施設は、今でも私には未知の領域だ。

 必然、私に出来る事は、知らない道をしらみ潰しに歩いてみたり、公園でずっとブランコに乗っていたり、何をするでもなく川の水面をずっと眺めていたりといった事だけだった。

 特別面白いと思った事はないが、姉の目から逃れて過ごせるのなら何でも良かった。許されるのなら、一日中でもそうしていただろう。

 

 だが、残念ながらそれが許される事はなかった。

 今の私なら少し頭を捻れば分かる事だが、小学生が学校帰りに街に繰り出しているという表面的な事実が、周りの大人の眼にどう映るのか、当時の私にはまったく理解が及ばなかったのだ。


 

 ある日、学校でよく知らない先生に「放課後に教室に残る様に」と言われた。

 当時の私は覚えていなかったが、胡乱な記憶を呼び覚ましてみると、あれは確か教頭先生だったように思う。

 言われた通り、教室に残っていると、しばらくしてから再び教頭先生がやってきて、付いてくるように言われた。

 大人しく言われた通りにすると、通されたのは随分と立派な部屋だった。来客用の応接室なのだが、生徒が普段入る事が出来ない部屋に入れられたという事実に委縮していた当時の私には、まるで懲罰房のように見えていたのを覚えている。

 しばらく、その部屋で待たされていると、部屋の扉が開いて誰かが入ってきた。

 それは私の母親だった。

 沈痛な面持ちで、申し訳なさそうに部屋に入ってくる彼女を見た私は、子供ながらにこれから始まる事が決して良い事ではないという事を悟った。

 母親が私の隣に座り、教頭先生が向かいに座る。

 そうして始まった話は、案の定、私にとって晴天の霹靂だった。


 最近、私が小学生の身でありながら、街を遅くまでふらついている事。

 もしかしたら、何か良からぬ遊びをしているのではないかという疑惑。

 学校としては、教育的に宜しくない行いは指導しなくてならず、こうして親にも来てもらって、事情の確認と話し合いの場を設けて云々。


 この時、私は酷いショックを受けていたように思う。

 街の散策は、私にとって唯一気が休まる時だった。地獄のような日常から逃れられる唯一の経路。それを、急に梯子を外されたような気持ちになったのだ。

 やがて、母親と教頭は、私を厳しく糾弾しだした。

 

 どこで何をやっているのか?

 悪い友人と付き合ったりしていないか?

 犯罪行為に巻き込まれたりしていないか?


 そんな事を色々と聞かれたように思う。

 対して、私はずっとショックを受けて俯いていた。

 私はただ、姉から逃れたかっただけなのだ。

 親も、教師も、私を助けてくれたりしないから、仕方なく街を歩いていただけだったのに、それでどうしてここまで責められなければいけないのかと――




 そうだ。その前に一つ、書いておかねばなるまい。

 私にとっては理解の及ばない化け物のような姉だが、学校でも家でも、姉はまるでアイドルか何かの様に持て囃されていた。

 ――正義感が強く、明るく素直で活発な少女。

 そんな評判を幾度となく耳にしたものだ。

 当時の私は、そういった評価を口にする人間すべてが姉に洗脳でもされたかのように見えていたが、今の私ならば彼らの言葉の意味も分かる。

 彼らは何も間違った事を言っている訳ではなかった。

 

 姉は、自分の価値観が正しいと信じて疑わない人だった。

 自分が赤い服を好きなのだから、赤い服は青い服よりも事実として素晴らしいものなのだと信じて疑わないように――彼女にとっての正義を救い、彼女にとっての悪を責めた。

 そして、そんな姉の価値観というのは、世間が思う正しい在り方と、それほどズレている訳ではなかった。

 過激かつ苛烈ではあるが、姉の判断基準は概ねステレオタイプな社会正義に概ね沿ったものだったのだ。

 子犬の腹を裂いて打ち捨てておくという行為に、流石に社会正義があるとは思えないが、それも本を正せば、両親の苦手な生き物を勝手に飼っていた私の身勝手さに非があったとも言える。

 そもそも、私だって親に言えば叱られると思っていたから、内緒で一ヵ月も世話していたのだ。

 あの時の姉の行動は、直接的で暴力的ではあったが、両親の代弁だった、と言えなくもない。


 そして、姉は自分の考えをストレートに表現する人だった。

 彼女にとっては自分が正しいと感じたものは誰にとっても正しいものだ。それを口に出すのに、何の臆面があるのだろう。

 好きなものは良い。嫌いなものは悪い。そういった事をはっきりと口にする。

 善と悪の境界線がはっきりしており、自分が悪と断じたものには一切の躊躇が無かった。


 迷いが無く、自信に溢れ、過ちに厳しい。

 そんな彼女の姿は、世間的にはとても好意的に見えたようだ。

 行き過ぎた行いがあっても、彼女の自信と迷いの無さの前では、誰もがそれこそが正しい行いであるかのように錯覚していた。

「彼女にはリーダーの資質がある」なんて評価も、何度耳にしたか分からないくらいに聞いたものだ。

 これも私は、気でも狂ったのではないかと思いながら聞いていたものだが、今になって考えてみれば、本質がどうであれ、躊躇う事が無く、行動的な彼女をリーダー的だと評するのは間違っていないだろう。

 大衆がリーダーに求めるのは、正しい進路を見定める事では無く、人を引っ張っていく行動力だ。

 進む道がどのような物であれ、進む先がどんな場所であれ、ただ自信満々に先頭を行ってさえくれれば、人は安心して付き従えるのである。

 そうした意味では、確かに彼女ほど、リーダーに向いた人間もいないだろう。

 実際、彼女は学校にあっては皆のまとめ役で、教師にも信頼される優等生。家に帰れば一家のアイドルであり、最高意思決定権を持つ支配者だった。

 両親を始め、教師、クラスメイト。周りの人間すべてが彼女を、彼女の言葉を無条件に信頼し、後に続いていた。

 彼女の周りには常に人が集まり、まるで王か何かの様に君臨していた。


 対して、私は姉に対する不安に苛まれて過ごすうちに、いつしか「大人しい」性格から「根暗」と言って差し支えない有様になってしまっていた。

 学校でも仲の良い友達などはいない。せいぜい、姉の取り巻きのような人達が、姉のご機嫌取りでもしたいのか、思い出したように妹の私に声をかけてくるくらいだ。

 当然、そんな姉を介した関係など付き合いたくはないし、何より彼女達と付き合うという事は、姉とも付き合うという事になる。

 そんなのはどう考えても御免なので、休み時間も私は隠れ潜むように学校の各所を徘徊するようになってしまった。

 家に帰ったら帰ったで、両親も姉に構いっきりで私の居場所なんてなかった。

 テレビのチャンネル、夕飯の献立、休日の予定。些細な事から事細かく、我が家は姉の要望によって動いていた。


 今になって思えば、いくらかは被害妄想が入っているのかもしれない。

 私が勇気を出して、両親に要望を口にすれば、それを汲んでくれる事もあったかもしれない。

 しかし、それでも結局は姉の支配から脱する事はなかったろうと思う。

 私が高熱を出して寝込んでしまった時、母が姉のピアノの発表会を優先して、私を一人を残して家を空けた時の事を思い出すと、姉よりも私の都合を優先してくれる両親の姿というのは、まったくと言っていい程、思い浮かばないのだ。



 ――彼女は強く、正義感に溢れ、活動的で――そして、他者を省みない人だった。

 そして、周りはそんな彼女を、理想として持て囃したのだ。

 私の味方は――恐ろしい姉を、共に脅威と見なしてくれる仲間は、終ぞ現れなかった。



 結局、親と先生から酷く責められた私だったが、それでも街の徘徊は止めなかった。

 いや、止められなかったのだ。

 姉のいる家で大人しく過ごしていたら、きっと私の心は壊れていただろう。


 中学生になってもそれは変わらず、学校が終わると街に繰り出しては、ひたすらに練り歩いた。

 部活に打ち込むという逃げ道も無かったわけではないが、姉が陸上を始めて、陸上部期待のエースなどと持て囃され始めると、それも潰えた。

 構内のどこを歩いていても「エースの妹」などという、姉主体の呼び方をされるのが堪らなく嫌だったのだ。


 朝、学校へ行き、終われば街に行き、日が沈む頃に家に戻り、翌朝までじっと耐える。それが私の日常だった。

 いっそ、本当に非行に走れば楽になるのでは、なんて思った事も何度かあるのだが、生来の引っ込み思案のせいか、結局はそこまで思い切る事も出来なかった。


 そんなある日の事だ。


 学校が終わり、いつものように街へ行こうとする私を姉が呼び止めた。

 学校で声をかけられるのは本当に久しぶりだ。

 基本的に私が避けているし、姉も用が無い限りは私に関わろうとはしないからだ。

 そんな姉が私を呼び止めた。

 これから部活なのだろう。既に体操服に着替え、自分の制服を小脇に挟んだまま、彼女は口を開いた。


「アンタ、いつもいつも帰りが遅いけど、一体どこでなにやってるの? お父さんもお母さんも、皆心配してるのよ? そろそろいい加減にしときなよ」


 ――この時、私は何を言うべきなのか、本当に分からなかった。

 私が毎日、楽しくもない散策に出なければいけないのは、お前のせいだと怒鳴るべきか。

 こんな生活を送る様になって、既に三年が経つというのに、今更になってそんな事を言うのは何様だと呆れるべきか。

 あの両親が私を心配する事なんて有り得る訳が無い。せいぜい、娘が補導されるなんて外面が悪い、くらいの心配だろう、とあからさまな嘘を糾弾すべきか。

 結局、私は何も言えずに、ただ一言「……どうでもいいでしょ」とだけ返した。

 

 ――今にして思えば、どうでもいい訳がないのだ。

 親や教師にとっての頭痛の種でしかない私の行動は、姉にとっては純然たる悪。断罪すべき行いだった。


 案の定、姉は義憤の炎を漲らせながら、私を睨みつけた。


「ふん、アンタ、いつまでも好き勝手してるようだと、そのうち、『家に入れて貰えなく』なるよ」


 それだけ言い残して、踵を返すと、姉は立ち去って行った。

 そう言えば、これから部活の練習だったか。あっさりと退いてくれた事に安堵しつつ、予定が控えているのならば、私なんかに構わなきゃいいのに、と不貞腐れた。

 

 問題が起こったのは、日も沈んで、私が家に帰り着いたその日の夜だった。

 いつものように家に入ろうと、ドアノブに手を掛け回したのだが、開かないのだ。

 何度かガチャガチャと弄ってみるが、開かない。

 予想外の事に放心しかけた私だったが、流石に何が起こっているかくらいは分かった。

 

 鍵が掛かっている。

 

 もしかして、買い物にでも出かけたのか? 

 今の時間なら、家には母親と姉がいるはずだ。何かの事情で買い出しに行くのが遅れてしまい、姉はそれについて行って、そこに私が帰ってきた。

 いや、有り得ない話ではないが、考えにくい。

 そもそも私は姉と食卓を囲むのが嫌で、いつも食事が終わる時間を見計らって帰ってきているのだ。

 今になって買い出しに行っているとすれば、食卓を囲むのがいつもより二時間は遅れる事になってしまう。

 とすると、やむを得ない事情で外出しなければいけなくなったとか?

 姉が急な体調不良などで、病院に連れて行かなければならなかったとかなら有り得るかもしれない。

 携帯でも持っていれば連絡が来ているのかもしれないが、生憎、私は携帯を持っていなかった。

 家族もクラスメイトも、繋がりたいと思う相手が一人としていないから、持つ必要も感じた事がなかったのだ。

 

 事情も掴めず、何も分からない。確かな事は、扉が閉ざされている事。家に入る事が出来ないという事だけだ。

 あれほど疎ましかった家も、入る事が出来ないとなると急に心細くなってくる。

 まして、辺りは既に夜の帳に包まれているのだ。

 今更、また街へ繰り出していく事も出来ずに、私は途方に暮れていた。

 

 結局、私は扉の前で蹲って待ち続けた。何度か近所の人が通りかかって奇異の眼で見られた気もしたが、仕方ない。

 家の前で待ち続けていれば、どこかに出掛けていたとしてもいずれ帰ってくる。

 季節はそろそろ秋から冬に変わりかけていて、寒いし心細くはあったが、それが最良の方法だと信じて、ただじっと待ち続けたのだ。

 果たして、どれだけの時間が経ったのか。蹲る私に声をかける者がいた。


「……どうした?」


 顔を上げると、仕事から帰った父の姿があった。

 その時、不覚にも泣き出してしまいそうになった事を覚えている。

 私が事情を説明すると、父は首を傾げていた。

 母や姉が外出するという連絡は父も聞いていないらしい。

 とにかく、中に入ろうと、父は手持ちの鍵を差し込んで開錠して――


 そうして扉が開かれた所で、私は目を疑った。


 玄関には姉が立っていた。

 どこにも外出してなどいなかったのだ。

 私がドアを必死に開けようとした音も、何度もインターホンを鳴らして呼びかけていた音も、何もかも聞こえていたはずなのに、彼女は一切、意に介さなかっただけだったのだ。

 面食らったのは父も同じだったらしい。

 どういう事かと姉に事情を聞き始めた。

 温厚な父にしては、珍しく語気が強い口調だった。

 寒空の中、締め出されているのを明らかに知りながらも放置していたのだ。流石に父も姉を叱るだろう、いい気味だ、と思った。

 だが、そんな私に冷や水を浴びせたのは、こちらに向き直った父の言葉だった。


「……今日は外で過ごしなさい」


 その時、父の口から出てきた言葉が現実のものだとは思えなかった。

 初冬の寒空の下。夜に少女一人で外で過ごすようにと言われた。

 お金の持ち合わせも無い。服装だって、制服のままで特別厚着をしている訳でもない。

 そんな状態で出ていけと言われたのだ。

 唖然とする私だったが、父の行動は早かった。

 有無を言わさずに私を外に追い出すと、そのまま扉を閉めて鍵を掛けてしまったのだ。

 

 何が起こったのか分からなかった。

 何が起こったのか理解できなかった。


 ただ、確かな事は、状況が振り出しに戻った事。

 そして、待ち続けても、この状態が改善する事はないだろうという確信だけだった。



 その日、私は近くの公園で一夜を過ごす事にした。

 日頃の徘徊の成果か、この街の地理については知り過ぎる程に把握している。

 私が辿り着いたこの公園には、中に入れるドーム状の遊具があった。上等とまではいかないが、多少の雨風くらいは凌いでくれるだろう。

 遊具の中に入り、鞄を下ろして、膝を抱えて蹲った。


 一体、どうしてしまったのだろう?


 確かに私は家になるべく寄り付かないように生きてきた。

 日が暮れるまで帰らずに、極力、姉とも両親とも顔を合わせないように過ごしてきたのだ。

 もしかして、それが両親の堪忍袋の緒を切ってしまったのだろうか?

 きついお灸を据えてやろうと、今になってこのような仕打ちに出たとでも言うのだろうか?

 だが、それも少しおかしい気がする。

 確かに両親は私の行動に良い顔はしていなかったが、それでもここまでの強硬手段に出る兆候があっただろうか?

 どちらかと言えば、最早諦めの境地というか、言っても無駄だから放置しておこう、くらいの雰囲気だったはずだ。

 私の思い違いだったのか?

 両親は今でも私の徘徊を何とかしたくて、その為には寒空に外へ放り出すのも厭わない心持ちだった?

 困惑する私の脳裏に、ふと、玄関を開けた父を出迎えた姉の姿と――


 そのうち、『家に入れて貰えなく』――


 学校での、彼女の言葉が過ぎったのだ。


 姉が、親に何か吹き込んだ?

 それなら、この状況も合点がいく。

 両親は姉の奴隷も同然だ。その姉が「私の非行を直すために」などと提案すれば、私を外に放り出すくらい、簡単に決意するだろう。

 実際、家に帰ってきた父親も、姉と僅かに言葉を交わしただけで、私を外に放り出したではないか。

 そこに思い至ると、今の状態のすべてが理路整然と繋がって見えた。

 そして、同時に底知れない恐怖を覚えたのだ。


 今まで、私は姉に恐怖を覚えつつも、命の危険までは感じた事はなかった。

 視界に入れず、存在を認識しないように努めればいい。

 どれだけ彼女が恐ろしいといっても、食べる物は与えられるし、着る物に困る事も、寝る場所が奪われることも無い。

 生きる事自体を侵害される事はないと――高を括っていたのだ。

 

 だが、違った。


 食べ物も衣服も住居も。私が生きているのに必要な物のすべては親が与えてくれた物。

 そして、その親は姉の言いなりなのだ。

 つまり、姉がその気になれば、私をいつでも野垂れ死にさせる事が出来るという事なのだ。


 ――私の世界は、私の物ではない。

 ――私の世界は、姉を中心に回っているのだ。


 その時の恐怖は、子犬を刻んで笑っていた姉を見た時以来の衝撃だった。

 首元にナイフを突きつけられているようなものだ。

 自分の生殺与奪が、あの恐ろしい姉に握られていると思うと、私は胸を激しく締め付けられる思いだった。

 身体の震えが止まらない。それは決して、寒さのせいだけではなかったはずだ。

 夜の公園で、人知れず逃げ込んだ遊具の中で、私は一人嗚咽を漏らしたのだった。



 今にして思えば、随分と子供じみていたなと我ながら思う所はある。

 原因がどうであれ、私の徘徊が親の心配事になっていたのは事実なのだ。

 それを棚上げして完全に被害者面をしていたのは、今になって考えると赤面してしまうくらいに恥ずかしい。

 あの時、姉が本当に両親に何かを言ったのか、それは分からない。

 ただ、あの状況であれば、姉でなくとも誰かが両親に一言言えば、同じ行動に出ていたとしてもおかしくなかったと思う。

 中学生の女子を夜に外へ放り出すというのも酷い話だとは思うが、傍から見れば私の行動も同じくらい酷かった。

 当時は、そんな風に冷静に自分を客観視する事は出来なかったが、今になって落ち着いて振り返ると、そんな事を思うのだ。


 だから、これは単なる子供の我儘。まだ視野の狭かった子供の私が一人で拗ねていただけのお話――


 

 ――そして、ここからが本題である。



 

 あの日、外に追い出されてから、私は本格的に家族と距離を置き始めた。

 結局、朝方になってから家に入る事が許された私は、震える身体をお風呂で温め、砂の上に横たわって一夜を過ごしたせいで、砂塗れになった身体をしっかりと洗ってから自室に戻った。

 碌な睡眠を取れずに気怠い身体を何とか押して、用意された朝食を食べ、簡単に用意をしてから家を出て登校したのだが、その間、家族とは一言も口を利かなかった。

 徘徊をやめるようにという先の仕打ちも、むしろ私の徘徊を後押しする出来事になった。

 本格的に家族が不信となった私は、母親が持つ家の鍵を一本くすねて、いつでも家に入れるようにした。

 帰宅する時間も、遅い時には日付が変わってから帰宅する事すらあるようになった。

 今までは帰りが遅くとも用意されていた私の夕食も、気が付けば用意される事はなくなり、家族が寝静まった後に冷蔵庫を物色して、食べられる物を探すのが日課になった。


 そんな生活が延々と続き、季節は流れて、私は高校生になった。

 学校に何も良い思い出がない私としては、そのまま社会に出たいくらいの心持ちだったのだが、既に高校進学を前提に考えていた親に対して、「私、高校には行かずに働くから」と大見栄を切る度胸が私にはなかった。

 それでも、これで姉と別れた学校生活ができるという期待はあった。

 姉は私よりもずっと成績優秀であり、その気になれば大抵の進学校に進む事が出来たのだ。

 だからこそ、ある日、たまたま聞いてしまった、姉と母の進学先についての会話に、私は耳を疑ったのだ。


 私は、家に比較的近い公立校に進学する事になった。

 別に望んで決めた訳ではない。私の学力では、その学校が分相応だったというだけの話である。

 対して、姉の進学先も私と同じ学校だった。

 姉が言うには、家から近く、両親に負担を掛けないと思ったからだそうだ。

 

 その言葉を聞いた時、比喩ではなく、私は目の前が真っ暗になった。

 胸が締め付けられ、手足が震え、我慢できずにトイレに駆け込んで吐いたものだ。


 アイツは一体、何を考えているのだろう?

 姉は私と違って、どこへでも行けるのだ? なのに、何故わざわざ私の所に来るのだ?

 どれだけ、私の人生を蝕めば気が済むのか?


 自室に戻り、布団に潜って、身体を丸めた。

 涙が溢れて止まらなかった。

 僅かに浮かび上がった、淡い期待。

 それすらままならない自分の人生が酷く不憫に思えて仕方なかったのだ。

 暗い部屋で一人、嗚咽を漏らしながら、ただひたすらに我が身を呪い続けた。

 


 結局、高校に通うようになっても、私の世界は何も変わらなかった。

 姉は相変わらず人気者で、成績優秀で、高校でも続けた陸上部ではエースと持て囃されていた。

 対して、私はそんな姉の陰に隠れるように、ひっそりと今までと変わらない生活を送っていた。

 少し変わった事は、高校生になって、お小遣いが五百円から一気に五千円に上がった事か。

 両親としては、不良同然の私にお金を持たせたくはなかったようだが、高校生活を謳歌している姉には、ある程度のお金を持たせてあげたいし、そうなると我が子を差別する様な真似はしたくない、という事で、私にも姉と同額のお小遣いを渡す事にしたようだった。

 まぁ、私としては貰えるお金が増えて有り難いのだが、何だかこのお小遣いも姉のおまけで貰えているのだと思うと、素直には喜べなかった。

 とは言え、懐が豊かになった事で、ただ歩き回るだけだった私の徘徊も、喫茶店のような場所に入って過ごす事が多くなった。

 徒歩で行ける圏内は、ほとんど歩きつくしてしまった私にとって、散策以外の楽しみができたのは僥倖だ。

 数少ない、私の人生で幸福だったと思える出来事だろう。


 そんな、変わったのか変わっていないのか、あやふやな日々をを過ごしていた、ある日の事だ。


 その日は休日だった。

 家でも学校でも休まる暇がない私にとっては休日も何もないものだが、少なくとも学校と違い束縛される事はないのは有り難い。

 不規則な生活が続いて、昼前に目を覚ました私は、準備もそこそこに街へ繰り出そうと、一階へ降りていった。

 すると、裏手の庭の方から、小煩く何かを叩く音と、誰かの話し声が聞こえてきた。

 無視して外に行こうとしたが、ふと、そう言えば愛用のコートを居間に置きっぱなしにしていた事を思い出した。

 季節はまもなく春に変わろうとしているが、いまだに外は肌寒いし、特に日が落ちれば身震いする程になるだろう。

 以前の経験で寒空の辛さを知った私は、コートを着ていくべきだろうと居間に足を向けた。


 居間に入ると、窓の外で何か作業をしている父親の姿が目に入った。

 脚立に上って、家の側面を金槌か何かで叩いて、何かしているらしい。

 父親は昔からああいう日曜大工が好きで、休みの日には何かを作ったりする事が多かった。私の部屋でいまだに使っている本棚も、小学校に上がる前に父が手ずから作ってくれたものだ。

 また何事か始めたのだろうと興味を無くした私は、部屋に置いてあるはずの自分のコートを探した。

 無造作に椅子に掛けてあったコートを発見し、手に取って袖を通した所で――


「お父さん、危ないよ」


 姉の声が聞こえて、私は思わず身を竦めた。

 休日なのだから、姉が家にいる事は不思議ではないのだが、不意打ちで聞かされるとどうしても警戒してしまう。

 声の聞こえた方向、そして内容から、どうやら姉は父と一緒に外にいるらしい。

 ほっと息をついて警戒を解く。

 そう言えば、先程、金槌の音と共に会話も聞こえたのだったか。

 どうやら、父と姉の会話だったらしい。


「なぁに、これくらい、いつもやってる事だろう? 心配するな。お父さんの腕前は大工顔負けなんだぞ」


 調子の良い父の声が聞こえる。

 姉の前で良い恰好をしようとする父の姿は見飽きているが、日曜大工にかけては特に自信満々のように聞こえる。


「でも、危ないよ。そんな事ばっかりやってると、そのうち『落ちて怪我する』よ」

「ははは、心配性だなぁ。大丈夫だよ。お父さんがそんな失敗をする訳無いだろう」


 さらに窘める姉の声と、やたら自信満々でちょっとイラッとくる父の声。

 正直、本当に落ちて骨折してしまえと思わない事も無かったが、残念ながらそんな事もないだろうと私は思っていた。

 なにせ、他の事はともかく、日曜大工にかけては、父は本当に凄かったからだ。

 本気で鳶職になろうとも考えた事もあったらしく、簡単な建物の修繕くらいなら、本職に頼まなくても自分で済ませてしまったりする。

 子供の頃の私には、そんな父の姿がスーパーマンのように映っていた時期もあった。

 今では、そんな幻想もどこかに吹き飛んでしまったが。


 今度こそ本当に興味を無くした私は、コートを羽織って、財布を持った事を確認してから居間を出て行こうとした。


 ――その時だった。


 父の悲鳴。そして、何か重たい物が地面に落ちる音を聞いた。

 慌てて後ろを振り返る。

 窓の外に見えていた父の姿が消えていた。


 状況を頭が理解するより早く、私は庭に飛び出していった。

 すぐに目に入ったのは、背中から地面に落ちて呻いている父の姿と、駆け寄りもせず、すぐ傍でその姿をじっと見つめている姉の姿だった。


 私は父に駆け寄って助け起こした。

 痛みに顔をしかめている父を見て、少なくとも反応がある事に安堵する。

 だが、同時に背中を打っているらしい事に不安も覚えた。

 背中を強く打ちつけるのはまずいとどこかで聞いたような気がしたのだ。

 自分の拙い医学知識に辟易しながらも、とりあえずどうしようかと戸惑っていると、不意に頭の上から声が聞こえた。


「だから言ったでしょ、お父さん。危ないよって。『落ちて怪我する』って」


 顔を上げると姉と目が合った。

 とても澄んだ、漆黒の闇のような瞳が私を見つめている。

 すべてを見ているようで、何も見ていない、冷たく昏い目が――



 その後、出かけていた母に連絡を取り、父は病院に連れていかれた。

 幸いな事に大事には至らなかったようだが、検査をしてもらった所、腰の辺りを骨折していたらしい。

 安静にしなければいけないし、落ちた時に頭も軽く打っていた事もあり、大事を取って短期入院をする事になった。

 家族で見舞いに行くと、父はバツの悪そうな顔で姉に謝っていた。


「いやぁ、お前の言う通りだったよ。お父さんが軽率だった」


 恥ずかしそうに謝る父と、まったくその通りだと呆れる母。そして笑顔で応える姉。

 そんな光景を後ろから見ていた私は、どこか違和感を感じていた。


 私は、生まれてこの方、父がこういった作業で失敗した所を見たことが無かった。

 もっと危ない作業も鼻歌交じりにこなしていく父の姿も見ている。

 それが脚立程度から落ちて入院というのは、どうにもおかしい気がしたのだ。

 勿論、弘法も筆の誤りと言うし、ちょっとした気の緩みから事故に繋がったと考えても何も不思議はない。


 だが――


 呻く父親を見下ろしていた姉の姿を思い出す。

 あの時の姉の姿は、子犬を殺して笑っていた時の姿と重なって見えた。

 私が初めて姉に恐怖したあの時と。

 そして、あの言葉――


 ――だから言ったでしょ、お父さん。危ないよって。『落ちて怪我する』って。


 普通に考えれば、関係がある訳が無い。

 姉は単に見ていただけだし、父が勝手に足を滑らせて落ちただけ。

 そこに何らかの因果関係など、あるはずがない。どう考えても、私が気にし過ぎているだけである。

 しかし、同時に、こうも思ったのだ。


 果たして、あの姉は『普通』なのだろうか? と――



 その後、父は一週間程、入院してから無事に退院した。

 その後もしばらくは辛そうにしていたが、後遺症が残る様な事もないらしく、大事にならなかったのは不幸中の幸いだったと思う。

 だから、その件に関してはこれでお終いなのだが、生憎と姉に関しての疑念については、終わるどころかさらに深まっていく事となったのである。


 次は、確か父が怪我をしてから一ヵ月くらい経った頃の事か。


 私は、学校では孤立を極めていたのだが、そんな私にすらも届くくらいの噂が校内で広まっていた。


 ――曰く、陸上部のエースが足を切断する程の大怪我をしたという。


 その噂を聞いた私は、真っ先に姉の姿を思い浮かべたのだが、どうやら怪我をしたのは男性だったらしい。

 気になって、少し詳しく聞いてみたのだが、何でも姉と肩を並べる程に期待されていた人らしく、姉は女子陸上のエース、そしてその男性は男子陸上のエースと、それぞれに期待がかかっていたらしい。

 心のどこかで、怪我をしたのが姉だったらいいのに、などと思っている自分の性根に僅かに嫌気が差したりしたが、さらに噂を追っていくと、また気になる事を聞いた。


 ――何でも、その彼の足を切断するまでに痛めつけたのは、私の姉なのだそうだ。


 その噂を聞いた私は、何と言うべきなのか分からなかった。

「まさか」という気持ちも、「やはり」という気持ちもあった。

 いや、やはり、というか、あの姉ならやりかねないという確信めいた予感だったのかもしれないが。

 ともあれ、この話を聞いて、私はますます情報の収集に打ち込んだ。

 普段、視線も合わせないように気を付けているクラスメイト達にも、その噂について話しているのを見かけたら積極的に声をかけて話を聞いた。

 姉とは極力、関わらないように生きてきた私だが、今回だけはどうしても知らなければいけないと思ったのだ。


 ――もしかしたら、私が感じている姉への得体の知れない不安に答えが出るかもしれない。


 その答えが出た時、どういう事になるかをまったく考えもしないまま、私は期待に浮かされて、情報集めに奔走したのだった。



 色々と話を集めていくうちに、段々と大筋が見えてきた。

 まず、姉がその彼の足を痛めつけたというのは、言ってしまえばデマの類だった。

 正確に言えば、状況からの推察というべきかもしれない。


 その彼が足を失う前日の話だ。

 姉は彼と口論をしていたらしい。

 正確には、その彼と姉を含めた陸上部女子数人だったらしいが、実際にほとんど言い合っていたのは、彼と姉の二人だったと目撃者は証言している。

 何でも、女子がトラックを使って練習する番になっても、その彼が個人練習でトラックを使用していて、一向に譲らなかったというのが諍いの発端だったらしい。

 最初はちょっとした言い合い程度だったらしいのだが、売り言葉に買い言葉が続くうちに、いつしか陸上部の全員が注目する程の大喧嘩へと発展していったそうだ。

 前述のデマは、つまり、この喧嘩の事で姉が彼を恨み犯行に及んだ、という流れで発生したらしい。

 正直、これだけだと随分と飛躍した話だなと感じるだけだが、このデマがまるで真実であるかのように飛び交う原因になったのは、その争いの最後に姉が放った一言が原因だったようだ。


「アンタなんて、『二度と走れなくなればいい』!」


 放課後のグラウンドに響き渡るくらいに叫ばれた捨て台詞だったそうだ。

 実際に、陸上部の面々は勿論、同じくグラウンドを使っている野球部などもこの言葉を聞いたと証言している。


 彼は、大怪我をして足を失った。もう二度と走る事など出来はしまい。

 そして、その前日に姉は彼に、そうなればいい、と叫んだのだ。

 

 勿論、こんなのは唯の偶然、唯の噂である。

 少しでも冷静に物事を見れる人間なら、そんな事で姉を実行犯だと決めつけるような馬鹿げた考えは持たないだろう。

 だが、私の頭の中では、そんな馬鹿げた考えが確固たる形を持ち始めていた。


『落ちて怪我する』――

『二度と走れなくなればいい』――


 姉の言葉が、まるで予言の様に現実の物となる。そんな出来事を以前にも見た。

 果たして、これは偶然なのだろうか?


 常識的に考えれば、偶然と思うべきだ。

 たかだか二回、予言じみた出来事が起こったくらいで姉との因果関係など立証できまい。

 ただの偶然。思い過ごし。そう考えるのが普通のはずだ。


 だが、あの姉は――

 あの姉は――



 結局、その日一日、校内を駆けずり回る事になった。

 あれほど人に声をかけて回ったのは、この学校に入学して以来初めてだろう。

 もしかしたら、入学してから今まで人と会話した量よりも、今日一日で交わした言葉の方が多いかもしれない。


 いつにない疲労感と、僅かに妙な充実感を感じながら、いつものように街の方へと向かおうとすると、知らない男子に声をかけられた。

 真っ当な学校生活を送っている女子ならば、愛の告白かもしれない、なんて、甘酸っぱい期待に胸躍らせたりする場面かもしれないが、生憎、私にそんな考えは最初から頭に無かった。

 まず、私は人に好かれるような人間ではない。内面でも、外面でもだ。

 常に人を遠ざけるように生きてきた私を好きになる様な人間など、どこにいると言うのか。

 次に、相手は見知らぬ男子生徒だ。他人に関わらないように生きている私だが、それでも人の顔くらいは覚えている。全員をはっきりと覚えている訳ではないが、少なくとも目の前の彼は一度も顔を見た事が無いと断言出来た。

 制服の意匠を見ると、私より一つ上の学年、上級生のようだ。ますます私とは接点が無い。

 それに何より――その彼が、まるで親の仇か何かの様に私を睨んでいるのだから、これで愛の告白だと勘違いできる女がいるのなら、そいつはもう少し人の心情を読む事に頭を使うべきだと思う。

 戸惑う私に、彼は付いてくるように告げると、先に立って歩き出した。

 行くべきかどうか迷った私だったが、結局は大人しく付いていく事にした。

 このまま無視して、後々に付け狙われる事になったりしては堪らない。

 それに何より、今日一日、噂を調べに色々と首を突っ込んだことが尾を引いているのかもしれない。

 彼が何の用で私を呼び止めたのか。

 それが気になって、話を聞かずにはいられなかったのだ。



 その男子生徒が私を連れ込んだのは、校舎の裏手。滅多に人の来ない死角になっている場所だった。

 それこそ、告白でもなければ、イジメの現場にしか使われないような場所だ。まして、相手の男は明らかに私に敵意を持っている。

 女子一人で、こんな場所までホイホイと付いてくるなんて迂闊だったかと、遅まきながら後悔した。

 だが、そんな私の心配を他所に、先を歩いていた男子生徒は振り返ると、絞り出すような声で私に問うた。


「なぁ? お前の姉ちゃんがアイツの足を切り落としたって、本当なのか?」


 思考が止まった。

 今、まさに私が知りたかった事を質問されているという事。

 それを何故、知りたいのかという疑問。

 そして、それを何故、私に聞くのかという疑問。

 様々な事が頭を過ぎり、何を言えばいいか。何から応えるべきかが分からず、私は立ち尽くしてしまった。

 そんな唖然とする私に彼は詰め寄り、胸元を掴み上げて凄んだ。


「皆、言ってんだよ。お前の姉ちゃんがやったって! アイツを……アイツの足を……!」


 沸き上がる激情を必死に押さえ込んでいるような声。目元にも涙が溜まり、当たり構わず喚き散らしたいのを何とか我慢している風だった。

 呆気に取られたままの私に構わず、なおも男子生徒は言葉を続けた。


「アイツはなっ! 次の大会に賭けてたんだ! お袋さんが病気だからって……もしかしたら、もう長くないかもしれないって……。だから……だからっ! 最後にっ! せめて、自分が優勝した姿を見せて、喜ばせてやりたいって……! それなのに……それなのに……」


 つっかえ、嗚咽塗れになりながらの告白。最後の方はもはや言葉にすらなっていなかった。

 成程。おそらく、彼は足を失った男子生徒の友人か何かだったのだろう。

 親友のあまりの惨状を見て、涙混じりに顔を歪ませながら、私に向かって溢れんばかりの慟哭を向けているのだ。

 

 対して、私の心は際限なく冷え切っていた。

 事故で足を失った男子には気の毒だと思う。

 目の前で友を想って涙を流している彼の悲しみも本物だろう。

 だが、私はまるで出来の悪いお涙頂戴の三文芝居を見せられている気分だった。

 足を失った不幸も、友を想う悲しみも、私に何の関係があるというのか。

 私が何かをしたせいで、その友人は足を失い、目の前の彼は怒っているのか?

 こんな所に呼び出されて、睨みつけられたり怒鳴られたりするような落ち度があったのか?

 いや、それより何より――


「だから、何?」


 胸元を掴み上げていた男子生徒の手を払い除けながら、そう返した。

 手を払われた本人が、先程までぐしゃぐしゃに歪めていた顔が真顔に戻るくらいに呆気に取られていたのは面白かったが、その程度で冷え切った私の心は揺るがない。

 

 大抵の罵詈雑言や言いがかり程度、無視して聞き流す事に何の抵抗もない。

 だが、あの姉の事で、私に当たり散らすような真似だけは、絶対に許容できなかった。


「そんなのは全部、姉に言いなさいよ。お前がやったのかって聞いて、そうだって言われたら、お返しに姉の足を切り落としでもすればいいじゃない。何で私に言うの? 怖かった? お友達の足を切り落としたサイコパスかもしれない女を糾弾するのが。それとも、姉が人気者だから? そんな相手に正面から食って掛かったら、自分が悪者扱いされるんじゃないかって思ったんじゃないの? どっちにしろ、アンタのお友達への想いなんて、その程度って事よね」


 口が勝手に動いて、次々と言葉が飛び出してくる。

 その言葉の響きが、自分の口から出たものだとは到底受け入れられない程に冷え切っていた。

 かつて、姉に感じた恐ろしさと同質の物を、私は自分の声に感じ取った。

 なおもスラスラと罵倒を吐き続ける自分の口とは裏腹に、私はただ考え続けていた。


 私は、こんな言葉を言うような人間だっただろうか?

 私は、こんな声を出せるような人間だっただろうか?


 いつから、私はこんな人間になってしまったのだろう?

 いつから、私の世界はこんな事になってしまったのだろう?


 顔を真っ赤にした男子生徒が、私に向かって拳を振り上げるのを見ても、ただずっと考え続けていたのだ。


 

 結局、彼の的外れな復讐劇は、駆けつけた教師に取り押さえられた事で未遂に終わった。

 人気の無い校舎裏に男女が連れ立って行ったのだ。目撃者がいれば怪しむのも無理はないだろう。

 別にやましい事をしていた訳でもないし、普段ならば出しゃばってきた教師に舌打ちの一つでもしたくなる所だが、今回だけはそのお節介に感謝した。

 何があったのかと、なおも暴れる男子生徒を抑えながら聞かれたが、私は何でもないとだけ答えて、さっさと校舎裏から立ち去る事にした。


 何もかもが煩わしかった。

 何もかもが馬鹿らしかった。


 私は、叶うのなら、あの姉とまったく関わりの無い赤の他人として人生を送りたかった。

 あんな生き物の存在を知る事なく、何も怯える必要もなく、真っ当に生きたかったのだ。

 それがどうだ?

 どこに行っても姉の影がちらつく。

 挙句、馬鹿げた姉の噂のせいで見ず知らずの男子生徒に絡まれ、突っぱねたら殴られそうになって、既の所で難を逃れた。

 

 私の何が悪かったというのか?

 私が何か悪かったというのか?

 

 私はどこで間違えたというのか?

 私のどこが間違っていたというのか?


 どれだけ考えても、答えは出なかった。

 姉への疑念を解決するよりも、それはずっとずっと難しい問いに思えたのだ。




 人の噂も七十五日。生徒一人が足を切断し、それを他の生徒が行ったというスプラッタな物であっても、時間による風化の例外とはならなかったらしい。

 七十五日どころか、一ヵ月も経つ頃には、その噂自体もまったく聞かなくなっていた。

 あんな噂が立ったにも関わらず、姉は相変わらずの人気者で、クラスの、いや、学校の中心に居続けていた。

 

 だが、何もかもが元通りになった訳ではない。

 いや、もしかしたら元からそうであった事に、私が今更ながら気が付いただけなのかもしれないが。


 姉の言った通りの事が起こる。


 あの時、単なる偶然だと言い聞かせて、心の奥底に仕舞い込んだ疑念が、時が経つにつれて、徐々に明確な形を帯びてきていた。

 あの一件以来、学校でも、家でも、そんな光景を見る事が次第に増えていったのだ。

 


 些細な事から父と母が喧嘩した時、頭に血が昇って手を上げた父を見て、姉は「女性に上げるような手は『腫れてしまえばいい』」と言った。

 翌日、父の手は、まるで野球のミットの様に腫れ上がっていた。


 掃除当番をサボった男子生徒に姉が注意していた。

 言い合いになり「お前みたいな奴は『学校に来なくていい』!」と姉が言った。

 翌日から、その生徒は学校に来なくなった。

 教師の話では、急病で入院したそうだ。


 ある時、ウチの学校で教師と生徒の不純異性交遊の噂が立ち上がった。

 結構、大きな騒ぎになり、学校側も色々と調査をしたようだが、特に確たる証拠が出てくる事もなく、事態は「悪質なデマだった」として収束しようとしていた。

 だが、姉は「そんな教師に『教師である資格は無い』」と言った。

 後日、その教師は確たる証拠も無いままに解雇された。


 学校の生徒が万引きで捕まるという事件があった。

 それを聞いた姉は「犯罪者には『相応の報いがあるべき』」と言った。

 後日、その生徒は車に轢かれて意識不明となった。

 後々、学校側が詳しく調べた所、前述の万引き行為は、彼を虐めていたクラスメイト達のグループに強制されて行ったという事が判明した。



 一つ一つは単なる偶然に過ぎない。

 姉との因果関係は見受けられる訳でもないし、急激に事態が変化したように見えるのも、私の知らない事情が動いただけだったのかもしれない。

 だが、そんな偶然も何十何百と積み重なっていけば、もはや必然だ。

 二年生に上がる頃には、偶然などという言葉では到底片付けられないくらいに多くの事例を目にしていた。


 ――もはや疑いようもなく。私の疑念は、明確な確信へと変わっていた。


 姉が口にした事は現実になる。

 予言などではない。彼女の言葉には、世界を捻じ曲げる力があるのだ、と。



 この頃になると、私以外にも彼女の言葉の特異性に気づいた者が現れ始めた。

 当然だ。なにせ、事例が多すぎる。

 姉は別に人目を憚って発現していた訳ではないし、発言を聞いて、それが現実になる様を多くの人間が目にしてきた。

 私は、この時、姉が気味悪がられて遠ざけられるのではないかと思った。

 今まで人気者であり、常に皆の中心にいた姉に対して、得体の知れない不気味さを感じてくれる同志が現れるのではないかと期待したのだ。


 だが、そうはならなかった。

 私の様に、彼女が現実を歪めているなどと考えるような者はいなかった。


 彼女の言葉通りに物事が進むのは、彼女がどこまでも正しいから。

 正しく、聡明な彼女だから、先を見通す事が出来るのだと、周りの人はそう思っていたようだ。


 気味悪がられるどころか、彼女の周りには、さらに多くの人が集まるようになった。

 彼女を崇め、その言葉がもたらす未来を、確かな正義として信仰していた。

 これではまるで宗教だ。

 彼女を教祖とする、一種の新興宗教。その有り様に、私はどうしようもない寒気を覚えた。

 もはや彼女に従わぬ者はいなかった。

 学校でも、家でも、すべての人間が姉の下僕だった。

 まるで絶対の真理かの様に、姉の言葉にただ従っていた。

 いずれは私が拠り所にしていた街も、この国も、果ては世界すら姉の支配下に置かれるかもしれない。

 そんな妄想も、私には笑い飛ばす余裕はなくなっていた。


 私は今まで、姉は私の世界を支配する『王』だと思っていた。

 周りの人々を従え、自分の我を通す暴君だと。


 だが、違ったのだ。


 姉は『神』だった。

 人々を従えるどころではない。彼女は現実の事象すら支配している。

 彼女の意思は世界を変え、すべては彼女の意のままに動く。

 道理も、理屈も、彼女の前では何の意味も持たない。


 その気になれば、彼女は言葉一つで世界を滅ぼしてしまえるのだと、この時の私は本気で信じるようになっていた。




 高校生活も半分を過ぎ、二年生の冬頃の事だった。

 世の中の学生は、そろそろ大学進学に向けて具体的に方針を決めなければいけないと忙しくし出す時期ではあるが、私にとってはそれどころではなかった。


 姉が怖い。姉が恐ろしい。


 私の頭にあったのは、ただそれだけだ。

 学校にも行かなくなり、街への徘徊もなくなった代わりに、一日中自室にこもって布団の中に蹲るようになった。

 今までは、姉と極力距離を置きたい程度だったのが、もはや姉と顔を合わせる事に耐えられない程に悪化していた。

 姉が私を見るその視線が怖い。姉が口を開いて何を言うかが怖い。姉が何を考え、何を思ってるのかが怖くて堪らなかった。

 家族が寝静まってから食料を漁りに冷蔵庫に近付くのと、家族の目を盗んでトイレに行く時だけが、私が部屋から出る瞬間だった。

 部屋にこもり、扉を閉め、布団を頭から被って、闇の中に自分を置く。

 何も見ないようにして、ただじっと時を過ごす事だけが、私が姉から自分の身を守る唯一の方法だと思ったのだ。

 だが、それすらも幻想だったのだと思い知らされた。

 トイレに立った私が用を済ませて扉を開けると、すぐ目の前に姉が立っていた。

 いつかのように、その瞳には義憤の炎が燃えている。

 疑う余地など微塵も無く、正義は我に有りとばかりに、どこまでも純粋に激しく燃える、すべてを焼き尽くす義憤の炎が。


「アンタさ。いい加減にしときなよ」


 苛立たし気に、姉は口を開いた。


「ずっと部屋にこもりっ放しで。何が気に入らないのか知らないけど、お父さんもお母さんも迷惑してるんだよ? 私だって、アンタがそんなんだと、外で恥ずかしいんだから」


 何やら説教を始めたが、今の私にそれを殊勝に受け止める余裕はなかった。

 姉の視線が怖い。姉が口を開くのが怖いのだ。

 逃げるように脇を抜けようとした私の腕を、姉が掴んで止めた。


「アンタね! ふざけんじゃないわよ! 皆に迷惑かけるだけかけて、自分一人だけ好き勝手やって!」


 ふざけるな。好き勝手やっていたのは――私の人生を土足で踏み荒らしていったのはお前だろう。


「アンタなんか――」


 姉の言葉に寒気を覚える。

 すぐ後ろでナイフを振り上げられて、今まさに振り下ろされようとしているような、そんな得も言われぬ悪寒を感じた。


「死んじゃえばいいんだ!」


 ――ああ、言った。

 いつか言われると思っていたが、ついに言われた。

 

 この瞬間、私は冷静だっただろうか。それとも取り乱していただろうか。よく覚えていない。

 ただ、漫然と、「ああ、もうすぐ私は死ぬのか」と。

 それだけは避けようのない未来になったのだと、認識していた覚えはある。


 姉に腕を掴まれたまま、睨み合う。

 こんなにも姉と視線を交わしたのはいつ以来だろう。

 間近で見た姉の顔は、思い浮かぶ姿のものと大分違っていた。

 女子高生らしく、身なりにも気を遣っているのだろう。私と違って整えられている姉の顔を見て、不覚にも綺麗だなんて思ってしまった。

 そして同時に、日頃何度か姉の姿を目にしながらも、私がどれだけ姉を見ていなかったのかという事実を、今更ながら認識して――


 ――そして、私は発狂した。


 姉の手を払い除け、全力で居間に向けて走り出した。

 理解が及び、思考を取り戻し、そして私は抑えきれない程の恐怖に飲み込まれた。

 

 死ぬ。死ぬ。姉が私に死ねと言った。

 だから、死ぬ。何をどうやっても死ぬ。もうすぐ私は、完膚なきまでに無残な姿を晒して死ぬのだ。


 居間を駆け抜け、そこにいた両親が唖然と私を見るのを無視して、私は台所に駆け込んだ。

 夕食を済ませた所だったのだろう。調理に使われた包丁がまな板の上に置きっぱなしになっていた。

 私はそれを手に取った。

 この時の私は、自分が何をやっているのか、よく分かっていなかった。

 ただ「死にたくなければ、姉を排除するしかない」と、藁にも縋る思いで、そんな事を繰り返し考えていた気がする。


 包丁を握りしめ、元の場所に舞い戻る。

 姉はいなくなっていたが、すぐ近くの部屋の扉が開いていた。

 私の部屋だ。反射的に駆け出して、開けっ放しの扉から部屋に飛び込んだ。

 そこに姉がいた。刃物を持って半狂乱で飛び込んできた私を見ても顔色一つ変えた様子はない。

 ただじっと、昆虫を観察でもしているかのような目で私を見つめている。

 先程の怒りに燃えていた人物と同じだとは到底思えない。どこまでも冷たく私を見る瞳に、私はまた言いようのない恐怖を覚え、そしてそれが私の背中を押した。


 言葉にならない叫び声を上げながら、私は姉に飛び掛かった。

 これほどの力が私のどこにあったのかと自分でも不思議に思ってしまうくらい、俊敏かつ的確に、私は姉を押し倒した。

 姉を組み伏せ、手に持っていた包丁を振り上げ、躊躇いもせずにそれを、腹部目掛けて振り下ろした。

 肉を貫く嫌な手応えを感じたが、気が狂っていた私は、そんなもので止まる事はない。

 再度、包丁を振り上げて、振り下ろす。

 服が真っ赤に染め上げられても構う事はない。何度も何度も振り下ろした。

 呼吸を荒くし、目を血走らせ、私が凶行に及ぶ間も、姉は決して表情を変えなかった。

 痛みに顔を歪める事もなく、口から血を吐き出しながらも、ただじっと冷たい目で私を見ていたのだ。

 その目がさらに私を凶行に駆り立てる。その目をやめろ、と。その目で私を見るな、と、何度も包丁を振り下ろす。

 ざくり、ざくり、と。

 これ以上、振り下ろす場所がないんじゃないかと思うくらいに振り下ろす。

 何度も何度も何度も何度も、振り上げ、振り下ろし、振り上げて。

 そして、もう一度振り下ろそうとした時――


 ――――。――――――――――。


 血で溢れて、喋る事もままならない姉が、それでも、確かに口を開いた。

 聞き取る事など到底出来ないような、声とすら言い難い、そんな音だったが、何故か私には、それがはっきりと聞き取れた。


 狂ったように動き続けていた、私の腕が止まる。

 包丁を取り落とし、呆然と、たった今、私が殺した人の顔を見る。

 彼女も私を見ていた。先程までと同じ、冷たい目で。いつものように。

 ただ、最後に、いつもと違う笑みを浮かべて――



 そして、彼女は息を引き取った。




 その後、物音に気付いた両親に取り押さえられた私は、そのまま逮捕された。

 人を一人殺したのだ。このまま一生牢に閉じ込められるか、あるいは死刑にされるのだろうと漠然と思っていたのだが、不思議な事にそうはならなかった。


 私は姉に追い詰められ、心身喪失状態で事に及んだという判断になった。


 確かに、私は姉を酷く恐れていて、半狂乱で彼女を刺したのは事実だ。

 しかし、周りにそうだと言われる事には違和感しか覚えなかった。

 あまりにも不思議に思ったので、後に警察の人に尋ねた所、事情聴取に呼ばれた両親が、姉がおかしかった事、その姉に私が怯えていた事、そんな私を救えなかった自分達の無力さなどを涙ながらに力説したのだと教えてくれた。


 この事に、私は一層の違和感を覚えた。

 両親と言えば、姉を最も崇拝していた人間ではないだろうか。

 こんな子供を持てて幸せだと、あなたは私達の誇りだと、何度も姉に向かって言っていた両親が、姉の事を悪く言って、私をかばうだろうか。


 また、事件後に私は精神病院に移されたのだが、そこでも顔しか知らないクラスメイトや、担任の教師が何度か面会に来たりした。

 その誰もが姉のせいで大変だったと、私を労わる風な事を言っていくのだ。

 彼らとて、姉の信者同然だったではないか。その彼らが日陰者の私をわざわざ労わりにきて、崇拝していた姉を貶めていくだろうか。


 私は酷く混乱していた。そして、同時に姉に感じていたのとはまた違った気持ち悪さを感じていた。


 少し前まで、誰も彼もが姉に対して、蝶よ花よと接していたはずだ。

 なのに、姉が亡くなった瞬間、姉の事を貶め、その姉を殺した私に同情する。

 そのあまりの変わり身に吐き気すら覚える程だった。

 姉を刺した時に、私はまったく異なる世界に紛れ込んでしまったのではないかと思ったくらいだ。

 それとも、姉がいなくなった事で、皆が姉の洗脳から解かれでもしたのだろうか。

 世界を変革する姉の魔法じみた力が、姉がいなくなった事で消失したのか。

 そんな事を考えていた私の脳裏に、ふと、姉の最後の言葉が過ぎった。

 馬乗りになって、姉を滅多刺しにした私を見上げて、血で溢れた口を静かに動かし、そして最後に笑って残した言葉を――



 そっか。『悪者は私』だったんだ――




 その後、両親も何度か見舞いに来てくれたし、訪れるよく知らないクラスメイトの数も日に日に増えていった。


 大変だったな。アイツのせいで。

 アイツとずっと暮らしてるとか、そりゃ嫌になるよな。

 大丈夫? ずっとアイツに虐められてて――


 その誰もが口にしていく、薄っぺらい同情の言葉に、私は酷い苛立ちを覚えていた。

 姉を悪く言われる事が我慢ならなかった。

 ずっと姉を疎んできたのに。

 姉がおらず、皆が姉の歪さを共有してくれる世界を望んでいたのに。

 ようやく訪れたそのあまりにも居心地の悪い世界に、私は一人、涙を流す事しか出来なった。



 今になって分かった。

 世界は彼女の支配から逃れた訳ではない。

 死ぬその瞬間、彼女は最後の魔法をかけたのだ。

 自分が悪者だと、世界を歪めた。

 それが意図しない行いだったのか、単なる気紛れかは分からない。

 私のためを想って、などというのは、彼女を手にかけておいて、虫が良すぎるとは思うが、それも結局は彼女が本心では私をどう思っていたか分からないので何とも言えない。

 今になっても、私が死なずに生き続けている事に何らかの答えがあるような気もしたが、それだって推察の域を出ない話だ。


 ただ、彼女の最後の言葉を聞いて、ふと、思った。



 そっか。『悪者は私』だったんだ――



 私は彼女をどこまでも強く、そして他人を省みない人だと思っていた。

 人の痛みも分からないし、分かろうともしないエゴイストの極地のような人間だと。

 だが、今際の際に気が付いたような言葉を聞いて、思ったのだ。



 彼女が、仮に私が思う通りの人間だったとして、そうなる事を彼女は望んで生まれてきたのだろうか。


 人の痛みが分からない。どこまでも真っ直ぐに自分を貫いている。そんな風に彼女を見ていた。

 だが、それは本当に彼女が望んだ生き方だっただろうか?

 本当は人の痛みを知り、人に寄り添いたかったのではないか、と。


 そんな風に思ったのだ。


 事切れる寸前の彼女の笑顔を思い出す。

 最期の最期に、笑顔で逝った彼女。

 その笑顔に、すべての答えが詰まっているような気がした。

 その答えを知りたいと思うと同時に、私には分からない、いや、分かってはいけないのではないかという想いもある。


 私は、彼女を手に掛けた。

 そんな私に、彼女の心に踏み入る様な真似をする資格は無い。そう思えて仕方がないのだ。




 今、私は病室でこの手記を書いている。

 あの時、踏み止まって、彼女と向き合う事が出来たのなら、もしかしたら分かり合える可能性もあったのではないか。なのに、それを私が一方的に摘み取ってしまったのではないか。

 そんな思いが頭を過ぎらない日はないが、悔やんだところで亡くなった人は還らないし、私の罪も消える事はないだろう。


 ここを出たら、彼女の墓前に花を供えに行こうと思う。

 私は今、それだけの想いを支えに、穏やかで、そして色褪せた日々を淡々と過ごしている

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― 新着の感想 ―
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