前編
人類の善悪判断を学習した高度な人工知能――《アリス》によって、人間の行動がリアルタイムで評価される現代。町中に設置されたカメラや個人の所有している携帯端末を通じて、《アリス》は常に僕たちを監視しており、その行動を評価している。
ポイント制社会とも呼ばれる現代の社会システムでは、《アリス》による評価によってポイントが振り分けられ、所持している累計ポイントによって様々な恩恵を得られる、という仕組みを取り入れていた。ポイントは、《アリス》によって善い行いと判断された場合は加算され、逆に、悪い行いと判断された場合には減点される。
例えば、いま目の前で起きようとしている交通事故。
突然子供が車道に飛び出し、今にも自動車に引かれそうになっている。
もし、子供を事故から救うような行動をとれば、町中に設置された監視カメラから《アリス》が即時に判断を下し、ポイントを得ることが出来るだろう。反対に、突然車道に飛び出した子供にはペナルティとしてポイントが減点される、そういう仕組みだ。公道を走る全ての自動車には人工知能による完全自動運転を導入されているため、運転手は責任を問われないはずである。
一昔前までは、何か問題が起これば長い時間をかけて人間が調査を行い、最終的に人間が裁くという方法を取っていた。それに比べたら、人工知能による客観的な判断によって統治されたこの社会は格段に良くなったと言える。
社会を監視している《アリス》によって犯罪が隠蔽されることはなく、事故や犯罪件数は減少の一途を辿っており、代わりに、福祉や環境保全などのボランティア活動が盛んに行われるようになっていった。システム導入当時は監視社会に対するヘイトが高まりを見せたが、ある都市が試験的に《アリス》を導入した結果、犯罪件数が減少したという実績もあり、現在では誰もが《アリス》による統治を受け入れていた。
子供が突然飛び出して来たのにも関わらず、人間のように慌てることなく自動車は的確にブレーキをかけ、タイヤとアスファルトが擦れて甲高い音を響かせている。しかし、ブレーキが間に合う保証はどこにもなかった。
《アリス》によって善行が正しく評価されるようになり、ポイントを得るために積極的に人助けをする人間が増えた。しかし、眼前で子供が自動車に引かれそうになっていて、とっさに動ける人間はごく少数だ。
僕自身も、自分が怪我を負うかもしれない恐怖と、もしかしたらブレーキが間に合うかもしれないという根拠のない期待で動くことは出来ない。
だが――
頬に風を感じた。
何者かが僕の横を物凄いスピードで駆け抜けて、そして、恐怖で身体が固まってしまっている子供に向かって、車道をまたいで突進していく。
それでも、間に合わない――そう思った。
がつん、と大きな音が響く。
僕の目に写ったのは、ブレーキが間に合ってきちんと停止した自動車と、歩道脇に備え付けられた白いガードレールに背中から突撃した青年、そして、その青年に抱きかかえられた子供だった。
僕は慌てて白い柵に寄りかかってぐったりとしている二人に駆け寄った。
「意識はあるか? そこのあなた、今すぐ救急車を呼んでください!」
「わかった」
僕は近くいた眼鏡の男性に電話で救急車を呼ぶように指示して、二人の容態をうかがう。町中に設置された監視カメラから、こちらの状況もただちに伝わっているはずだが、詳しい情報を伝えるために念を入れて電話させておいたのだ。
幸い二人には目立った外傷はなく、青年の背中に少し打撲の跡がある程度であった。
「俺は大丈夫だ、なんともない。坊主は!? 大丈夫か?」
「うん……うん」
抱きかかえられた子供は何が起こったのか理解出来ていないのか、どこか放心した様子であった。
結果として、車は少年の手前で止まり、青年が助けに入らなくても大事には至らなかったことに――僕が助けに入らなくても問題なかったことを確認して安心する。だが、機械が絶対でない以上、青年のやったことは褒められる行為なのだと思う。
しばらくして、救急車と治安部隊がやってきて、青年と子供の二人は病院に連れていかれた。僕は治安部隊に状況説明を依頼されたが、駆け付けた治安部隊は《アリス》から連絡を受けていたようで、事実確認をしたらすぐに開放された。
《アリス》による監視体制が完成する二十年前、現代社会と比べると大きく異なる点がいくつもあったらしい。その一つが治安部隊の存在である。
人工知能による監視体制によって、犯罪の摘発率が百パーセントを記録し、犯罪や事故件数が著しく減少した結果、警察組織は運営方針を変えざるを得なくなった。そうして生まれたのが、何か問題が発生した際にその武力でもって治安維持に努める治安部隊である。《アリス》はあくまでも社会を監視し、その善悪を判断するだけの機能しか持っていないため、実際に問題解決に動くには人間の力が必要不可欠であった。
僕は携帯端末を取り出してポイントを確認する。画面には、『事故対応に尽力する:+1ポイント』と書かれており、累計ポイントが109853ポイントとなっていた。
昔と比べて大きく変わったもう一つに、このポイントがある。
ポイントはこの社会で生きていく上で、命の次に大切であると言っても過言ではない。一定以上のポイントがないと入学出来ない学校や、将来の職業に影響を与えることまである。ポイントとは言わば、その人間の信用度だ。より多くのポイントを所持している人の方がそれだけ善行を積んでおり、信用出来るということから就活する際に重要視する企業も多く存在する。
さらに、累計ポイントが百万ポイントを超えた者は《ミリオン》と呼ばれ、様々な特権が与えられている。かく言う僕の両親も数少ない《ミリオン》の一員である。
百万ポイントを貯めるためには、つまり百万回の善行が必要であり、それには町一つを丸々救うレベルの偉業を成し遂げる必要があると言われている。一日一善を心がけても《ミリオン》になるためには数千年単位の時間がかかる計算となり、その特異性が分かると思う。
《ミリオン》である両親から僕は将来を期待されており、積極的にポイントを増やす作業に没頭していた。僕の累計ポイントであれば、国中でもトップクラスの一流高校に入学出来たが、そのようなポイントの高い連中が集まる場所においては善意の押し売り、ひいてはポイントの奪い合いが発生すると考え、あえて底辺の高校に通うという徹底ぶりであった。
救急車で運ばれていった青年のことを思い出す。
おそらく、今日出会った青年もポイントのために危険を犯してまで子供を助けに入ったのだ。正直、バカな奴だと思う。
ポイントを貯める効率の良い方法は、弱者を捜すことだ。弱者を見つけて助けてあげること。それなのに、もし自分が事故に巻き込まれて怪我をしたら、元も子もない。弱者に成り下がった途端、ポイントに目が眩んだ僕のような輩に親切の押し売りをされるのだ。そして、その好意を無下にすることは許されない。
なぜなら、恩を仇で返す行為は悪であるのだから。
事故があった次の日――僕は子供を助けた青年と運命的な再開を果たすこととなった。
「はじめまして。今日からこの学校に転入して来ました木島大河と言います。卒業まで五ヵ月と残り少ない期間ですが、仲良くしてくれると嬉しいです」
180センチを超える長身、短く切りそろえられた髪、鋭い眼光。昨日出会った時は大学生くらいに思っていたが、まさか同じ高校三年生だったとは。
教卓の目の前に座る僕は、驚きのあまり木島の顔を凝視していた。
僕の視線に気が付いたのか、彼のギラついた瞳が僕の顔を捉えて不思議そうな顔をしている。昨日の事故で僕と会っているはずなのだが、事故の当事者である彼は周りを気にしている余裕はなかったのだろうか、どうやら僕のことを覚えていないようだった。
「田崎。放課後にでも木島に校内を案内してやってくれ」
担任が転入生の案内を僕に依頼してくる。ポイントを稼ぐために学級委員になり、率先して手伝いを申し出ていたこともあって、転入生の世話を押し付けられたようだ。
「分かりました。よろしく、木島くん」
「おう。よろしく頼む」
鋭い眼光を真っ直ぐ向けられてギクリとしてしまうが、握手を求められたのでそれに応える。たぶん、悪い奴ではないのだろう。
放課後。僕は広げていたノートと携帯端末をカバンに仕舞い、教室の後ろで質問攻めに遭っている木島に声をかける。
木島は話していたクラスメートに一言かけると、僕の方にやってきた。身長差から僕は彼を見上げる形となる。
「それじゃあ案内するよ」
「あぁ」
僕と木島の二人で一通り校内を見回る。
他のクラスメートもついて来るかと思ったが、底辺高校とは言え全員が進学希望であり、受験まで時間もないので遠慮をしたようだった。
「委員長。そう言えば名前を聞いていなかったな。教えてくれないか?」
なんとか沈黙を避けようと無難な質問を投げかけては会話を繋いでいたのだが、突然、木島の方から僕に話を振って来た。
「そうだったね。僕は田崎一。一と書いてはじめだ。改めて、よろしく木島大河くん。実は僕、昨日君が子供を助けた時に一度会っているのだけど、覚えてないかな?」
「……見ていたのか。悪い、色々と気が動転していて。なんか恥ずいな」
「いや、とっさに助けに動けるなんて、尊敬するよ」
優等生として、当たり障りのない返答を心がける。現代のポイント制社会において大きく分けて二種類の人間が存在すると僕は考えている。それはポイントを積極的に貯めて将来に備える人間と、必要最低限のポイントだけを貯めて自分のために生きる人間だ。僕はもちろん前者であるが、累計ポイントに関係なく誰でも入学することが出来るこの学校には、圧倒的に後者の割合の方が多かった。
一方、木島はどちら側の人間だろうか。躊躇なく事故から子供を助けに入る姿勢からポイントを貯めていることは間違いなく、けれども、底辺高校に転入してきたことから、もしかしたら僕と同類ではないかと疑う。
そうなったら、ポイントの奪い合いが起きて少し面倒なことになるかもな――と心の中でぼやく。
「木島くんはさ、累計ポイントいくらなの?」
気になったので、直接聞いてみることにした。
もしポイントが高ければ、彼と今後一緒に行動しない方が良いであろう。そうでなくても、昨日の事故で木島には行動力の高さで負けているのだ。
「ポイント? そう言えば確認したことなかったな」
「は?」
返って来た言葉に理解が追い付かず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
累計ポイントを確認しないのは、はっきり言って異常である。ポイントを貯めるために善い行いをすることは大変な苦労が伴うが、ポイントを減らすのは簡単だ。
悪い事をすればポイントが減点される。ポイントは信用度であり、信用の高い人物が一度悪事に身を染めたら、今まで積み上げて来た信用を一気に失うことになる。人を理由もなく殴ったり、ゴミをポイ捨てしたり、それだけで何千何万というポイントが引かれることになるのだ。
そして、ポイントがゼロになった者は強制的に厚生施設に隔離されて、余程のことがない限り出て来られないと言われている。だから、ポイントを確認しない人がいるとは想像の埒外であった。ポイントを確認せずに、気が付かない内に厚生施設送りになっていたなど笑い話にもならない。
一瞬、ポイントを隠すために嘘を言っているのではと疑ったが、ポイントを集めているとしたら嘘をつくという悪行をするはずがない。それに、嘘をつくとしてももっとマシな嘘があるのではないか。
「今すぐにでも確認した方が身のためだぞ?」
「大丈夫さ。ポイントが減らされるような悪い事をするつもりはない」
ちょうど校内の案内を終え、教室に戻って来た僕にあっけらかんとした態度で答える。すでに教室には誰も残っている生徒は一人もおらず、僕と木島の机の上にカバンがぽつんと置いてあるだけであった。
木島大河。
僕がこれまで会ったことのない人種である。
自分の危険を顧みず子供を助けたり、ポイントに興味を持っていない素振りを見せたり、捉えどころがない。
途切れた会話から逃げ出すように、木島はカバンを持って教室の扉に手をかける。
「じゃあな。明日からよろしく」
「お、おう……」
僕は気のない返事をすることしか出来なかった。
木島が帰った後もしばらく図書室で勉強をしていたが、彼の行動と言動に頭を掻き乱され集中出来なかった。
気が付けば辺りはすっかり暗くなっており、僕は慌てて帰路に就く。
帰宅すると両親が既に帰ってきているようだった。どうやら夕食の仕度をして僕を待っていたようで、急いで準備して席に着く。
今日は少し遅くなってしまったとは言え、両親がこんなに早い時間に帰宅して夕食の仕度をしていることは滅多になかった。
僕の両親は累計ポイントが百万を超えている《ミリオン》と呼ばれる存在である。《ミリオン》になると、人工知能が正しい判断を下しているかを調査したり、国の政治に関わったりなど、様々な役目が与えられる。そのため、《ミリオン》である両親は非常に多忙であり、家に帰って来られない日も珍しくはない。
夕食の席に着いた僕に、母が世間話を始めてしばらく経った頃。それまで黙って箸を動かしていた父が、不意に口を開いた。
「はじめ。今日、お前のクラスに転入生がやってきただろう?」
「ん? そうだけど……なんでお父さんが知ってるの?」
《ミリオン》である父は、たいていの情報を閲覧出来る権限を持っているのだが、たかだか底辺高校の転入生の情報をどうして知っているのだろうか。
僕は木島の鋭い目と突拍子もない言動を思い出し、もしかして相当にヤバい奴だったのではないかと不安に駆られる。
そんな僕の内情を知ってか知らずか、父は重い腰を上げるように言い放った。
「――彼には関わるな」
僕は、明日からの学校生活に不安しか抱けなくなっていた。