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彷徨

作者: 竹内謙作

 ふと、旅に出たいと思った。

 特に理由はない。人生に思い詰めたとか、絶望したとか、そういうお洒落な動機はどこにもない。日常は淡々と一定のリズムのまま進み、僕はそれを当然だと思っているから、人生が退屈な現象の繰り返しであることに何の不満もない。むしろ僕の胸には無限の安心感が広がり、心には満ち足りた感情しかなくなってしまって、考えることが消失したような気がする。全然自分の中に心の波が感じられないのである。

 僕は本当に人間なのだろうか。他人を見れば、皆あらゆることに一喜一憂し、喜怒哀楽豊かに人生を刺激まみれで生活している。体は生きる躍動感で一杯で、よりよい人間、偉い人間になるために誰もが努力し、日々邁進している。誰かに尊敬される人、誰かのために生きる人になろうと躍起になっている。目標があれば、そこに到達するために様々な苦悩や障壁を感じることがあるだろう。しかしそういう意識は自分の中に一つも感じられはしないのだ。

 明鏡止水、行雲流水。すべての物事、すべての現象は僕の目の前から音もなく消えていく。僕は壮大な劇の只中にいながら、自分がどんな役で、一体これからどんな台詞を言い、どうなるのか。何になり、時間の濁流に流されてどこに行き着くのかさえ知らされていない。ふらふらとあてもない道をさまよいつづけている。しかももっとも重要なことは、そんな現状に何の不安も感じないどころか、とてつもない安心を胸に「もうどうなってもいいんだ」と自分を納得させて満足している、という事実である。

 まだ若いのに、まるで隠居した老人のように僕は自らの人生の傍観者だ。何を五感で感じても、一時も興味を引かれないどころか、自分と同じ無感情、無関心をその中に見つけ出すだけである。ああ、お前も偶然に操られてここまでやってきたか、僕も同じだよ。僕はすべてに優しげな目を向ける。しかし自分にも、自分の周りを絶えず動いていく波瀾万丈のドラマにも生きる魂を見出だすことはできないでいる。

 透明になっていく体。意味を失っていく自我。僕の中身はなにもない。生きることは一切の無だ。しかし死んでみたところで、無であることに変わりはないのだ。僕の身体を消滅へと無理やり導いても、精神には少しも変化は生まれない。外面的な変化は何の意味もない。何か内的な変化が必要なのだ。

 現実、その無限の繰り返しに何も感情を持たないからといって、自分の想像の世界に閉じ籠っても結局は同じことだし、いやむしろますます自分の存在の否定に向かうばかりだ。ただでさえ、どうしたって自分の頭でしかこの世界を見ることはできず、自分の意識でしかこの世界を認識できないのに、唯一自分以外であるこの世界を否定して自分しか真実には存在しないと割りきってしまえば、そこに見えてくる不確かさ、混沌、絶え間ない堂々巡りに自らを眠らせるだろう。この世界には何もないと、すべてが幻だと思い、自己だけを絶対的なものと信じ、その思考に溺れれば、堕ちるのは人でなし、精神の死の世界なのだ。

 この世界は僕の鏡だ。僕の考えることはすべて周りの世界に反映する。僕の思いがそのまま風景となって眼前に広がっていく。この世のありとあらゆるものすべてに自分が潜んでいる。切っても切り離せないこの外界に自我を求めるしか、他人の中に自分を認めるしかないというのに、僕の内から涌き出てくるこの寂漠の思いはなんだろう?どうしようもない無感情の僕は何だろう?

 そういえば僕は人間が好きだった。誰一人として同じ考えを持たない、そして否が応でも互いに影響しあわずにはいられない人間が好きだった。電車の中にいる人々のいくつもの人生を想像するのが好きだった。旅で会う無数の人々の話し声や仕草に勝手なストーリーをつくるのが好きだった。目には見えないけれど、それぞれがそれぞれの人生を抱え、この世界と一定の繋がりをもって誰かの愛のために生きる人間が好きだった。旅に出れば、もう一度人間に帰ることができるかもしれない。僕はふと思った。どうでもよく思っているこの世に何かの意味を僕自身が見つけることができるかもしれない。

 僕は死んでいる。僕は眠っている。しかしまた新しい意志をもってよみがえるのだ。生きている限りは、たくさんの自分の死を体験するとしても何度でも生きることはできる。心の生と死を繰り返し、精神はいくつも生まれ変わって誰もが発展していく。ここに止まっているのは僕だけのようだ。今こそ風景に宿している哀れな自分を取り戻さなければならない。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなった。いまだかつて感じたことのない興奮に僕の体は燃え盛った。まだ知らないどこかの人と話したい、ふれあいたい、愛したい。久しぶりの内なる感情の起伏を感じて、僕は心底安心した。ようやく人心地がしてきた。行き先はどこでも良かった。歩き出せばそれですむ話だ。僕はまっすぐにどこへ行くという訳でもなく、歩き始めた。





 一体旅に出て自分の何が変わるというのか。僕の前を誰もが歩いて通りすぎていくというだけの話だ。風景が変わるからと言って、僕自身が生まれ変わるなんてことはこれっぽっちもあるはずがない。どんなに人にふれあい、話したとしても他者に心をうばわれるだけで自分を磨くことなどできはしないのだ。

 僕は放浪していた。虚ろな目で、何が現実で何が幻かもわからないまま、何が真実で何が虚構かもわからないまま、何の思考もなくそうして歩いていた。僕が動くことで世界が動く。僕が左目をつぶることで左目の世界はなくなってしまうだろう。しかしそれがなんだっていうのだ。僕が何をやったところで、左目の世界はちゃんとある。僕が死んだところで、死後もこの世界は僕がいないそれとして生き続けるに違いない。無力。あまりに無力。僕は僕自身に縛り付けられているから、純粋なこの世界を知ることは決してできないだろう。

 僕が変われば世界が変わるなんてことは、僕からこの世界を見ている以上至極当たり前のことなのだ。しかし真実はどこにある?誰のものでもない現実として僕らは誰もこの世界を見ることはできないじゃないか。客観性の欠片もないじゃないか。他者に興味を持つのは、自分が好かれたいからだろう。この世界に興味を持つのは、自分による変化を見たいだけであろう。結局は誰もが自分、自分、自分だ。自分が良ければそれでいいのじゃないか。自分が幸福であればそれですべて万事解決なのだ。

 しかし僕自身の幸福なんてものに何の意味があろう。結局は滅んでいく僕自身が、何を幸せだと思い、何を不幸せだと思ったところで、この人生の無意味さに何のヒントも救いも与えてはくれない。他者のために尽くしたところで、この僕が、僕自身が他人が幸せだと思って-その実勘違いもいっぱいあることだろう-そしてその中に幸福を感じるというだけだ。すべてが、この眼中に広がっているすべての現実世界が、僕の意識の乗り物だ。僕の意識が作り上げたでっちあげられた世界。何もかもが感触をもってはいない。

 外界の世界がすべて僕の意識のたまものだって?そんなわけないじゃないか。僕の意識に関係なく、道端には石ころが転がっているし、アフリカでは内戦が起きているし、二人の男女が大いなる愛を育んでいるじゃないか?もう一人の僕が、僕自身を問い詰める。しかしそういった想像をするのはいったい誰だ?まぎれもなく僕そのものなのである。

 自分を捨て去るべきか?しかしそういう気休めでは本当に生きていることにはならないのだ。自分をかなぐり捨てよう、どこかに放り投げようとしても、結局そういう意識をもっている僕がいる限り、他者へ無償の奉仕をしているということにはならないに決まっている。

 実際、こんなことは考えるだけ損な話にはちがいない。もうこれ以上思考を止め、僕の幸福へと堕ちていく方がよほど楽なのかもしれない。しかし何も感情を感じなかったこの僕を今とらえている自己の不安の波は一体なんなのだろう?微塵も生きる希望を感じず、死人のように街路を徘徊しているこの僕の内に燦々と光り輝いている確固たる意志はなんだろう?やっぱり僕は生きたいのだ。それは動物としての欲望では決してない。理性に目覚めたこの僕へ向ける世界の要求だ。世界が僕に渡した宿題、なぜ僕は存在している?なぜ僕は生存している?それをいま解くために歩き続けているのだ。

 幾日の昼と夜を繰り返したのか、幾年の歳月を経たのか、僕はいくつ年をとったのか皆目見当がつかなかった。気が付くと僕は海辺にいた。透明なさざ波が僕の足元をかすめていく。繰り返される周期的な波のささやきに魅せられて、僕もそのささやきの一部になったかのように、海水を手で優しく触っていた。ふと生きる意味がこのさざ波の音色にある気がしていた。確かに生きる魂をその中に感じて、何かわかったような気がしていた。

 近くでその一定のリズムをかき消すバシャバシャという邪険な音が聞こえた。僕が音の方に目をやると、そこには白いワンピースを着た色白の少女が立っていた。そのきれいな裸足が海水に浸かって、海の動きに合わせてゆらゆらと揺れているように見える。彼女はいつからここにいたのだろうか。僕は一瞬疑ったが、別に気に留めることでもないようだ。彼女の存在は僕の生命と同じ不可思議さによってできている。今更考えてもどうしようもないことだ。

 何の根拠もないことだが、いま初めてここで出会った彼女とずっと以前から僕は一緒にいたような気持ちがしていた。目に見える、見えないは事の問題ではないのだな。僕はひとり納得していた。現に僕は自身の想像を本当にありありと思い浮かぶことができるし、存在していると皆が信じて疑わない他者を心もとない幻としてみることもできるのだ。僕は自分の感覚も他者の感覚も信用していないのだから、あらゆるものが亡霊のような実のないものであるともいえるし、そしてそれらがこの現実なのだということもできる。見えないから存在していないということは誰もいえないし、逆に見えるからと言って存在しているともいえない。すべては存在しているともいえるし、また存在していないということもできる。魂が感じられれば、それで十分なのだ。

 僕は何かを言わなければならない。そして彼女の魂に触れなければならない。生きることの確かさはすべて魂の内にある。存在は何も示さない。成熟した魂だけに真実が宿るのだ。

「あなたは、誰なのですか。」

僕は言葉を発してから、はっとした。しまったと思った。そんなどうでもいいことは質問しなくてもよいのだ。答えは決まっている。所詮僕はまだ自分から抜け出せていないのだ。

「わたしは、あなたともいえるし、このさざ波だともいえるし、あの緑の山々だともいえるし、いま沈みがかっている太陽ともいえるわ。」

彼女はそういうバカげた質問をする僕が大層おかしくてしようがないように笑っていた。実際それが真実に違いない。魂をもつ何もかもが、すべてがつながっているのだ。そこに区別はない。僕は他者であり、他者は僕である。感じるものすべてが、僕自身だ。そこに疑う余地はひとつもありはしない。

 彼女はあるときは透明になって、さざ波にその姿を隠した。そしてまたあるときは、僕の前にその美しい姿をまざまざと見せつける。もしかしたら。僕は思った。彼女はもう、自分の肉体を持ってはいないのかもしれない。そして精神だけが僕をとらえているのだ。それは幽霊でもなければ、またよみがえったわけでもなく、人の跡があるということだ。僕は幽霊もよみがえりも信じてはいないが、しかしこの世界に人間が生きる跡があるということだけは、はっきりと感じることができる。跡は、人そのものでもない。生きているか、死んでいるかも問題ではない。自己と他者がぐちゃぐちゃになってもう何もかもが一体となったそれなのだ。ほら、感じるじゃないか。この空気に。この音色に。この浜辺の一つ一つの石ころに。透明の彼女に。そして自分に。もう自分という牢獄を破って自由に溶け合っていく愛がみえるじゃないか。ここにいるすべてが、どうして自分の幸福なんてものを考えることがあろう。自分はもういないし、だからましてや幸福を感じることなどできるわけがないのだ。

 僕は無意識に人の愛の跡を探していた。そしておそらくこの人生は、愛を勝ち取るための魂の彷徨に他ならないだろう。しかし人間は、生きている限りにおいては真の愛に到達することはない。人は死んだとき本当に生きるのだ。精神が肉体という殻から脱して、万物に溶け込むとき人は生きる讃歌となる。人はなんにでもなれるのだ。人間は言葉を得て、己を知った。そして再び言葉を失って外界の世界へと帰ってゆく。しかし魂はそこかしこに残っているのだ。僕は自らが死んで、僕の血液がこの美しい海と永遠に混ざり続けるのを感じて、心地よく思っていた。そして肉体をもたない彼女をうらやましく思った。

 僕はいつ、死ぬのだろうか。そして死ぬことが魂が本当に息づくということであれば、生きることに何の意味があるのだろうか。僕は訳がわからなくなった。生きることはやはりお遊びだ。こんなもの、嘘なのだ。早く僕は彼女になりたかった。

「僕は、いつ死んで君になれるのかい。」

僕は今死のうとでもいうように、彼女を悲しみの目で見つめていた。早く自然に帰らなければ。もう僕の魂は空っぽなのだ。

「それは、死ぬべきときに死ぬのですよ。」

彼女は微笑んで言った。僕は、死ぬべきときに死ぬ。死ぬべきときとは、いつなのか。それは、僕の魂が成熟し肉体から解放されたときなのだ。それまでは、辛抱しなければならない。我慢しなければならない。苦痛の連続である僕の人生は、もう一度外界に完全に溶け込むための修行の日々なのだ。

 死んだら、何も残らないだろう。僕の中の水分はすべて蒸発し、肉体は干からび、誰も魂をお世辞にも感じとることができないのだ。しかし、僕は生きている。むしろ生前の人生が死んでいると言いたいくらいだ。僕のなかのあるものは風になる。あるものは水になる。あるものは木になる。僕は無限の生命だ。この大いなる循環を誰も止めることはできないのだ。

 人間は空間と時間に縛られながら成熟していく。外見の老いていく姿などは何も言ってはいないのだ。僕たちは二十の女性の方が六十のお婆さんよりも好きだ。しかしそれは、魂の叫びから来る美しさではないのだ。全く動物的な美しさに他ならない。理性の欠片など、微塵も感じないのだ。

 年老いていく肉体と引き換えに、魂はその内にある光をいっそう強く照らしている。そしてあるとき、僕たちはあまりに光が眩しくて魂を見失ってしまうというだけの話だ。僕自身もいつかは光の中に入り込んでいく。光に包まれて僕も君も感じなくなるくらい光の世界の中へ。なんと幸福だろう。それは僕が感じる幸せではない。真実の幸せは風景にあるのだ。僕の幸せなどちっぽけなものだ。風が、光が、水が、この宇宙が幸せを握りしめるのだ。

 いつしか泣いている僕がいた。僕の涙が、海にぽつぽつと落ちていく。僕はこれからどう生きていこうか。恐らくは、自らの魂を風景に出来るだけ捧げる他にはないのだ。すべてに愛を。すべて自分だ。いたわりの目で、愛のある暖かさで風景を見つめるしか法はない。しかしやはり僕は不安なのだ。

「あなたを、愛してもいいですか。」

僕は彼女にまだなれないが、しかし彼女と少しでも繋がっていたかった。直に僕は彼女と同じになる。そのときまでは、この不安を彼女の光で照らし出して欲しかった。

「いいよ。」

僕は彼女にキスをした。しかし本当に彼女だったのか。もしかしたら、空気であったのかもしれないし、また音か風景であったのかもしれない。光の魂で世界は輝いていた。ああ、生きているのだ。僕が生きる尊厳は、この想像力だ。それ以外には、何もない。

 感謝という感情だけが、僕のすべてである。この世界が大好きなのだ。みんな僕のものだ。新しい涙がとめどもなく流れてくる。僕は何度でも言おう、ありがとう、ありがとう。

 僕は何度でも言おう、

 ありがとう、ありがとう

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