2.富士原家の人々
車は高速道路を抜け、山道へと入る。ここを越えれば、沙京己まで後少しだ。あれだけ道路を転がっていた遺体の数が減り、随分と進みやすくなった。元より行き交う車の少ない道であるために寂しい山道で、私ちの口数も自然と減り、ガタガタと揺れるタイヤの音だけが車内に響いていた。
中腹に差し掛かったとき、奏が声をあげる。
「この道で本当に合ってんのかな」
今さら何を言ってくれるのか、奏は車内にあった地図で現在地を確認している。
「迷うもなにも、ずっと一本道だったじゃないのよ」
「そうなんだけど、進めば進むほど森が深くなっている気がして。一応の確認」
一応とは表現する奏だが、眉間に刻まれた皺は深い。私は不安を振り払うように車窓から景色を眺めた。
「……人だわ」
そのとき偶然にも発見した。
「腐乱具合はどの段階っすかー?」
ブラックジョークが当たり前となった状況下で、しかしミライに対してなんの反応も返せず私はある一点を見つめたまま。奏も同じ方向を見る。木々をかきわけた向こうに立派とは言い難い日本家屋がある。その庭先で井戸水を汲み上げている少女は、黒いおさげ髪に、萌黄色の着物という様相だ。そこだけ時代が違うような、昔の日本を連想させる空間だった。
「ちょうどいい。あの人に道を尋ねてみよう」
「でも襲ってきたりしないかしら」
「はっ、ゾンビじゃあるまいし」
車を降りる奏のあとを私は追う。付いてこなくていいと言われたけれど、心配だからそういうわけにはいかない。
家へ近づくと少女が私たちの存在に気づき、怪訝そうな顔つきで会釈をした。私と奏も会釈を返し、本題を切り出す前にまず互いの生存を悦ぶ言葉を並べた。
「急な訪問を申し訳ございません。僕は一色奏、こっちは姉の律です。この通り僕らは偶然が重なり、運良く五体満足の状態で生き延びています。初めてお会いする貴女ですが、無事で良かったと心から思っています」
これで相手も似たような言葉を返してくれれば本題に入れるのだが――私たちの当然且つ安易な予想は裏切られる。
「あの……ごめんなさい。貴方たち、なにをおっしゃってるの? 変な新興宗教への勧誘ならお断りします」
えっ、と口をぱっくりと開けたまま固まっている私を置き去り、勘が良い奏は矢継ぎ早に質間を繰り出した。
「勧誘なんかしてません。ただ道をお聞きしたいだけです」
「ああ……そうですか。でも、初対面の私に対して生への悦びを説くのは怪しいですよ」
「すみません。こんなご時世ですから、命があることは奇跡にも等しいことなので、つい……」
「またも妙なことをおっしゃるのね。世界が滅亡することでも予見してるの?」
馬鹿馬鹿しい、と少女は背を向け、玄関の扉を開く。奏は目を細め、少しだけ間を置いて少女に現実を突きつけた。
「世界は、すでに滅亡しているので――」
少女の足が止まる。奏は続ける。
「――生存している日本人たちによる楽園が沙京己につくられていると知りました。僕らはそこへ向かっています。この道を進めば沙京己へ辿り着けますか?」
家の中へ入ろうとしない少女は、動揺と疑心の狭間で揺れ動きながらゆっくりと答えた。
「ええ……そうですよ」
「感謝します」
再度会釈した奏は、もう用は済んだとばかりに私の手を掴んで車へ戻った。少女はこちらを見据えたままだ。
「奏……」
「あれはヤバい。聞いた? 律。どうやらあの女の頭はすでに楽園にあるみたいだ」
「そんな言い方ないでしょう。でも……言いたいことはわかるわ」
なにがあったのかと興味津々たる視線を送るミライへ簡単に説明をする。
「世界が滅亡したことを知らない女の子がいたの。あの様子じゃあ、10年前にNASAが発表した世界滅亡の絶望的ニュースも把握してないわね。うらやましいわ。だからこそ生存していたのかもしれないけど……」
「へー。こんな人里離れた山奥で暮らしていたら、世間どころか世界からも仲間外れにされるんすねー。でも、一ヶ月前から電気ガス水道は止まってるし食料も供給されないし、あのコ、これまでどうやって生きてきたんすかね?」
ミライの疑問を、日本家屋と女の子の様相が解答していると奏は言う。
「あの家には元から電気もガスも通ってないし、生活用水は井戸水、食料は自家栽培のものだろう。裏手に畑が見えたから」
「なーるほどー。電波も届かないから、絶望ニュースに触れる機会がなく、またこんな山奥に近づく人もいない……か。あの一瞬でよくそこまで見えましたねー。さすが兄貴」
「まさに昭和初期のような生活スタイルでさ、あれはあれでたくましく生きていけそうだ」
なにも心配なんかいらないだろ。奏は冷たく言い放ち、アクセルを踏んだ。
「でも奏、あの子に真実を教えたじゃない」
「そうだっけ? でもどうせ信じないさ」
のろのろと走り出した車に速度が加わるころ、前方に黒い影が飛び出した。急ブレーキがかかり、シートベルトをしていない私の身体は前のめりになる。
「危な……あいつなに考えてんだ!」
フロントガラスに頭をぶつけそうになる直前で奏の左腕が私の上半身を支えていた。飛び出した黒い影の正体は私たちを怪しんでいた少女で、急停止した車のボンネットに両手を叩きつけて必死なる形相でこう訴えた。
「あっ、あの! その楽園へ私たちも連れていってください!!」
視線をぐるりと動かすと、あの日本家屋から老婆と7歳くらいの少年が顔を出していた。
「なに~? 心変わり早すぎっちゅーか、判断が早すぎっちゅーか、理解が早すぎ?」
開けた窓から顔を突き出したミライが、訳を話すようにと少女へ促す。
「私は富士原朝匕と言います。この九十九山のあの家で祖母と弟の三人で暮らしています。その……世界が滅びたというのは本当なんですよね?」
「そうだけど~……もう信じちゃうの~?」
少女――朝匕は、両手の中に握りしめていたしわくちゃの茶封筒を差し出す。受け取ったミライはそれを見て首を傾けた。
「宛先は雫石市の垣村正好、差出人は……富士原光代。えーと? これは? 朝匕ちゃん家から出す手紙だよな?」
朝匕は頷く。
「祖母が毎月、垣村というおじいさん宛に出している手紙なんです。ご覧の通り電話もインターネットも繋がっていない家ですから、連絡を取る手段は手紙しかなく。こんな山奥でも、5キロメートル先にあるポストから出したら、ちゃんと届けてくださるのです。でも、垣村さんからは必ず返事の手紙が来るのに今月はまだ来なくて……おかしいなと思っても調べる手段が無くて。それで、たまたまポストの前を通る用事があったので投入口から中を覗いてみたんです。そしたら、1ヶ月前に投函したはずの手紙が回収されないまま、まだ残ってて」
しわくちゃの茶封筒を受け取った朝匕は、喉を震わせる。
「この手紙は、祖母が今月出そうとしたためたものです。でも、あのポストへ投函してまた届けてもらえなかったら困るので、私が預かったままで」
玄関先から心配そうにこちらの様子をうかがっている老婆と少年は、互いに手を取り合っている。
「垣村さんから返事の手紙が来ない、ポストに残ったままの手紙。これまで狭い世界でしか生きてこなかった私ですが、異変には気づいていました。世界は……」
「もしかしたら、そのおじいさんも沙京己へ避難してるかもしれない。手紙は、そのとき渡したら?」
助手席から降りた私は、朝匕とその家族を誘った。――“エデンの園”へ。
山を過ぎ、沙京己へ繋がる高速道路を走る。その道中にあったサービスエリアで休憩をしていたときのことだ。長時間の運転を任せっきりにしてしまった奏の身体を労ろうと、彼の両肩に手を置いた。
「律って、いつからそんなお人よしになった?」
奏は、無人となったサービスエリアの中を駆け回る朝匕の弟――富士原悠匕と祖母の光代、共に戯れる果月ミライを遠目に眺めながら不満そうに呟いた。私と二人だけのはずの旅が一気に大所帯となり、気が滅入っているようだった。
「お人好し?」
「垣村ってジジイが“エデンの園”にいるわけねーだろ。雫石市に住んでたなら、あの運命の日にどうせ自殺したか誰かに殺されてる」
滅入っていることを言い訳にでもするつもりなのか、口調が悪くなっている。私は荒れ気味の弟を宥める。
「んー……なんだろ。周りでさぁ、次々とヒトが死んでいって、私と奏だけが取り残されたのを経験したからか……命のあるヒトがとても大切に思えちゃって。失わせたくないって……これ、偽善かなぁ?」
ヘラヘラと笑う私の顔を流し見て、奏は口をつぐむ。
「なによ、なにか言いたいことあるなら吐き出しなさいよ。どうぞ偽善者だって罵ってくれてもいーのよ?」
「そんなんじゃない。僕が聞きたいのは、律は僕と二人だけじゃ不満なのかってこと」
「なにそれ?」
私は肩を揉む手を止めず、笑いながら問い返した。
「富士原家の生活ぶりを見て、それもアリだなと思ったんだ。文明最先端の生活に慣れた僕らには厳しいかもしれないけど、頑張ればなんとかなる。ねぇ、あの4人を“エデンの園”へ送り届けたら、僕らは富士原の家を借りて住まない?」
「は……はぁー? マジで言ってんの? なんのために沙京己目指してんのよ」
「悪いけど大真面目。沙京己を目指したのは生きるため。でも富士原家でなら完全自給自足生活が可能だ。事実、世界崩壊を知らなかった朝匕たちが約1ヶ月の間をあそこで生きた実績がある」
「や、だから、生存者たちの輪から外れて、私と奏だけで暮らさなきゃいけない理由が一体どこに……」
「――あるだろ?」
いつの間にか停止していた肩揉みの手を掴まれ、奏は私の瞳をまっすぐに見る。彼が何を言わんとしているのか、また望んでいるのか――わからなくて。
「ない……よ」
そう答えると、掴む弟の手に力が加わった。
「律。引き返すなら今だよ。あの4人のことも“エデンの園”のことも忘れて、僕と二人だけで――」
「おねーちゃん!!」
奏の訴えは、純真無垢な声にかき消された。時間と好奇心を持て余した悠匕が私の足に絡みつき、遊んでくれとせがむ。このメンバーの中で唯一事態を理解していない彼は、無邪気な存在だ。奏はわかりやすく溜め息を吐き――
「あのなぁ、お前の姉貴はあっちの和服おさげだろ。こっちのは僕のお姉ちゃんだから二度と間違えんなガキ」
そう低く言い放ち、悠匕を威圧した。
「こら、奏!」
大人げない行動を叱責し、私は悠匕を朝匕の元へ戻らせた。
「奏ぇ。もう、この数時間のうちに変になりすぎ。世界はもう滅亡したんだから、色々諦めなさい、こだわりは捨てなさい」
奏は3つのピアスが連なる耳たぶを引っ張り、また一つ溜め息を吐く。
「律は……一つだけ勘違いしている」
なにを? 私は腕組みをして問い返す。
「僕は、世界が滅びて良かったと思っている」
しかし返ってきた答えを飲み込むことはついぞ出来ぬまま、私は“エデンの園”への門を叩くこととなる。