2.タイムリミット
日々が過ぎてゆく。早く感じるとか、遅く感じるとかは無い。
常に誰かが顔を合わせ、他愛のない会話で盛り上がる。全員が集まればミライが率先して三枚目役を引き受け、笑いを誘う。
無理に笑っている人はいない。時間の流れと共に荒廃してゆく世界を眺めながらも、笑顔が絶えることはない。
でもその日の晩御飯だけは、少しだけ雰囲気が違ったかもしれない。話題が途切れることはなく、笑い声が消えることもない。けど、皆、心のどこかで自分なりの覚悟を整えていた。
「船はもう、完成したのかな」
未悠が何気なく呟いた一言に、朝匕が迷いを見せる。
「どうだろうね。けど、霧島さんたちが必死に造ってたから……」
「乗ってるかな? 皆」
「未悠ちゃんも乗りたかった?」
「ううん。私はいいの。お兄ちゃんやお姉ちゃんたちがいるから。けど、マユちゃんは独りだから」
「マユちゃん?」
朝匕が視線をミライへ送ると、ミライは気まずそうに答えた。
「こいつと同室の……友達みたいで」
「つまり“平民”かぁ……」
「っすね」
平民の末路は決まっている。朝匕とミライが互いに顔を見合わせて返答に困っていたとき、悠匕が出し抜けに口を開いた。
「友達は全員助けてくれるって、ソンショウおじさんが言ってたよ!」
「そーなの?」
未悠の表情はパッと華やぐが、悠匕は根拠もなく言っているわけではない。
「うん。僕が奏お兄ちゃんと一緒に外に出たとき、お兄ちゃんと同じ服を着た人たちが約束してくれたんだ」
そんなこともあったね。話を聞いていた奏は、ぼそりと私に耳打ちをした。
大所帯となった逃亡生活が成功し、且つ今日まで追跡されることなく平穏に暮らせているのは処刑人たちのお陰なのだ。
あれから彼らと会ってはいないから予測でしかないけども――怒りに任せて正室たちを追跡するよりも、ノアの方舟を1日でも早く完成させたほうが身のためであると、おそらくそう説き伏せたんじゃないかなと奏は言っていた。
終末を乗り越えることこそがエデン教の目的であり、課せられた使命。そのため反論した者は存在しないはず。私たちを逃がすために処刑人たちは、刀を振るう労力を惜しまないことで納得させたのだろう。
「ま、それに処刑人も、助けたい家族がいるんだろうしさ――特にソンショウさんは」
エデンの園を去る前、ソンショウさんは光代さんから手紙を預かった。返事は出せない。けども、光代さんは満足したようだった。彼は、手紙を胸に生き残るから。
「感謝、ですよね。私たちが今ここにこうして生きていられるのは、処刑人の皆さんと、お世話をしてくださった平民の皆さんと、そして、尾張族長のお陰なんですもんね。皮肉ですけど」
「まーね。およそ半年間の衣食住を保障してくれたし、その分の僕らの寿命が延びたのは確かだから」
朝匕の感謝の言葉に対し、奏は嫌味混じりに同調する。尾張に関することは、なかなか素直になれないようだ。
やがてお開きとなる晩餐。だが誰も席を立とうとせず、名残惜しいのかその場にとどまりたがる。
最初に離れたのは奏だ。私は迷うことなくその背中を追い、共に部屋へ戻った。
「奏……もう、いいの?」
「なにが?」
「その、お別れの……言葉とか」
「らしくないことは、あまりしたくないなぁ」
「ふふ、あんたは最後の最後まで、素っ気ないやつなんだから」
先にベッドへあがる弟を追いかけるように私も潜りこむ。手には黒い本。ロウソクの僅かな灯りを頼りに、パラパラとめくる。
「その予言書だけどさ、一体誰が記したものなんだろうね」
黒い本に手が触れないよう、奏は注意を払いながら覗き込む。
「巻末にさ、著者名とか書いてない? ほら、サインみたいなやつ」
「ええ……そんなもの、どこにも……って、あった」
黒い本を裏表紙からめくったすぐのところに、模様のような文字が確かに記されている。だが当然のごとく解読は不可能で、結局誰が書いたものなのかはわからなかった。
「まぁ一つ言えることは、平安時代以降……ってところかな」
「古ーい! 千年前?!」
「その時代に超人的な預言者がいたってことだよね」
「誰?!」
「だからわからないって。まぁ適当に答えるとなると、陰陽師とか。やつらは星の流れを読んで未来を占ったっていうし。千年先の未来まで視えてたかどうかは知らないけど」
「そっかぁ~。言われてみるとねぇ、この本、長ーい紙を折り集めて綴じたような痕跡があるのよね。元は横に長い紙だったのよ!」
「それを帖装本と言ってね、横に長くつなぎ合わせた紙を一定の幅で折り畳み、前後に表紙をつけたもの。経典や習字手本などに多く用いられるんだよ」
「……出た。うんちく奏」
「その言い方なんだか嫌」
予言書に夢中になり、ふと時計を見ると午後10時を回っている。帰還してからの一色家では、午後9時就寝の午前5時起床を定めている。だから私は少し夜更かししてしまったことになるわけだが、今日に限っては眠る気になれなかった。
「あと2時間で、7月31日ね」
「うん」
「でも31日は24時間あるわよね。どのタイミングで……その、始まるのかな」
「知らない。早ければ2時間後でアウトだよね」
「……なによう、淡々と言うのね」
怖いという感情はもう無くなった。ただ少し、寂しいと感じる。私は帰宅して21日間を過ごした空間を見渡し、隣りに寄り添う弟の顔で止めた。
「ねぇ、奏……」
「なに」
「私ねぇ、奏の姉で本当に良かったよ」
「そうかい」
「奏は? 私が姉で良かった?」
「今更聞くな」
「もー……反応が素っ気ない。やっとさぁ、私、決めたのに~」
「うるさいな。なにをだよ」
「え、なにって……言わなくてもわかるでしょう。お察しでしょう」
「わからないな。はっきりと言葉にしてくれないと伝わらないこともあるから」
奏は私と目を合わせようとせず、いそいそと寝る準備を整える。
ここで気がついた。私、弟に意地悪をされている。
「……ひっどい。仕返しのつもり? はいはい、わかりましたよ。じゃあもういいんだから。私は都嵩の本と一緒に死にますから、お前は孤独死でもしてろ」
黒い本を抱えてベッドから降り、扉を開けようとしていた私の身体をすくいあげ、首筋に顔をうずめながら弟は喉を奮わせる。
「――ごめん。言い訳が、見つからなかったんだ」
言い訳。
「世界が滅びるから……じゃ、ダメだったの?」
「無理だよ。僕の中では、世界は滅びないことになってるんだから」
「あ、そうだった。でもさ」
予言書が床に落ちる。
私は両手をのばし、俯く奏の顔を覆い、唇を重ねた。
「私に触れるのに、言い訳なんて要らないのよ」
たとえ実の姉弟であろうが、愛し合うことに免罪符など必要ない。たまたま好きになった相手が姉だった、弟だった。ただそれだけのこと。
「タイムリミットは2時間か」
戻ったベッドの上で、奏は時計を睨みつけながら唸る。
「あら、充分じゃないの?」
弟とはいえ、男性の前で裸体を晒すことが初めてである私は、シーツで身体の半分を隠す。その努力を呆気なく崩してくれた奏は、私の呑気な考えに訂正を求める。
「全っ然足りない。花街で働いてたときに、そう感じなかったの?」
「! え?! なにか勘違いしてない? わ、私、誰ともっ……」
「知ってるって。その点に関して、尾張に感謝してるんだから。僕の姉さんを肉欲に飢えた汚い男たちから護ってくれたことをね。同時に――」
月明かりに浮かぶ身体は青白く、汚れを知らない。
「綺麗な身体のまま僕に返してくれたことを……感謝してる」
硝子細工に触れるように、財宝に触れるように、弟はこの身体を優しく扱う。でも容赦が無いときもあって、堪えているものを我慢できなくなる。
――ああ、足りない。
彼と触れ合った瞬間に、同意してしまったこと。
もっと時間がほしい。あと2時間なんて少なすぎる。
「奏……私たち、またどこかで会える? こうやって愛し合えるかな?」
訊ねる声に涙が滲む。
「会えるに決まってるじゃん。どうせ僕はまた律の弟になってるよ」
「本当?」
「本当。でも次はさ、もっと早くに僕のものになってね」
「約束?」
「……約束」
どうなるかわからない世界。どう進むかわからない未来。でも、今だけは信じよう。また出会える奇跡を約束しよう。神様もきっと鬼じゃない。有資格者でも、一つくらい望み通りの予言を与えてくれるはず。
「律。僕の手を放さないでね。そうしたらきっと、望みは叶う」
固く結んだ手と手は、陽が昇り切るそのときまで放されることはなかった。
月は沈み、灼熱の太陽が己の存在を主張する。
眠ったまま静かに死ぬ予定だった私は、窓から差し込む陽の光を全身に浴び、その意味を理解する。隣りで眠るのは、昨晩ついに結ばれてしまった一つ年下の弟だ。その寝顔が穏やかで、眺めていると無性に虫の居所が悪くなった。
「なによ! まだ滅びてないじゃん!!」
そう声を張り上げ、彼の頭を殴りつけた。
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明日の更新はお休みします。




