1.黒い本
名残惜しげに弟から離れた姉の律は、自分が浮き足立っていることに気づいていなかった。乗ったエレベーターの扉が30階で開き、外で待っていた支配人と目が合うまで――律は身体に残る愛する人の感触に浸り続けていたのだ。
「律様。死刑執行の舞台裏は如何でしたかしら?」
浮かべた笑顔をそのまま張り付け、律は答える。
「あら、驚き。知っていらしたのですね」
「もちろんです。危ないところを処刑人に救われ、その後、造船作業と死刑執行を見学なされていたこともすでに監視人より報告を受けていますから」
「そ、そう。すごく、勉強になったわ。私の知らないことだらけで」
「そうでしょうとも。原田がどうせ、ペラペラと喋ったのでしょう?」
「……その、原田さんは」
言葉を詰まらせると、支配人の女性は片手をヒラヒラとさせて「違うの」と言う。
「ふふ、あのオッサンやっと死んだわと思ってね。笑いが抑えられなくて」
「……はい?」
支配人はファイルの中から取り出した一枚の書類に赤ペンでチェックを付けていく。それは名簿のようだった。
律は支配人の反応を不審に思い、喉の奥にざらりとした感触を覚える。
「原田さんは……同じエデン教徒じゃないんですか。世界崩壊前からの仲間なんじゃ……」
「そうねー。でも、あいつが入信した理由は、割と不純なのよ」
「? どういう……」
「原田はね」
チェックを付け終えた支配人が、赤い眼鏡の奥で光る眼を誤魔化し――
「尾張がまだ高校生だったころ、通っていた学校の校長だったのよ」
なんてことのない昔話を語り始めた。
*
「なんだかご機嫌だ」
日本における人類最後の砦“エデンの園”の頂点に君臨する白い聖人――尾張都嵩は、約半年前に妻へと迎えた少女を見てそう呟いた。
「え、そう?」
少女――尾張律は、少しばかりドキリとしつつ笑顔で夫を迎え入れた。ここは、尾張族長の正室、律の部屋である。
「うん。初めて出会ったときも婚姻を結んだときも、貴女はずっと悲しそうに目を伏せたままでした。昨日の沙京己旧市街地探索で、なにか面白いことでもあったのかな?」
「無いわよ。あるわけないじゃない。私、死刑囚たちに殺されかけたんだよ?」
「そうでしたね。すごく心配でしたよ、俺。確か処刑人の方々の宿舎で休養をとっていたとか。なかなか帰ってこないので、気が気ではなかったですよ」
「ごめんなさい。あらかじめ伝えておくべきだったわ。でも、昨日はそんな余裕がなかったの」
尾張は律の顔から目を逸らさず、真っ直ぐに見据え続けている。こちらが顔を背けたくなるほど、真摯な眼差しで。
「……律」
窓辺に佇む律へ擦り寄り、尾張は悲しげに微笑む。
「では、今日は気丈に振る舞ってくださっていたのですね。気を使わせてしまって申し訳ありません」
「い、いいのよ。別……に」
唇に落とされる誓い。遠慮がちに、不安そうに。
流れる視線は律の首筋に咲く赤い花へと注がれる。
「律……これは」
あっ、と律は思った。しかし想定外ではない。
「死刑囚にね、やられたの。あいつ、私を殺す前に自分用っていう印を付けたかったらしくて」
多少心臓を奮わせつつ、律はなるべく平静に嘘を並べた。
「そうだったのですか。可哀相に」
「平気よ。だって、やつらはもういないから」
「……いいえ、可哀相なのは、実は俺に対してで」
「え?」
尾張のしなやかな手が首筋の痣に触れた。律は、ビクリと震えそうになる身体を最小限に抑える。
「残酷な印ですよ、これは。俺から貴女を横取りし、我が物顔で鎮座するこれは、俺を苦しめます」
「……」
律はいつものように適当に口調を合わせることができず、唇を一文字に結んだままだ。
「印がある限り、たとえ所有者が死んでも権利は有効のままだ。律、その印が消えるのはいつ頃になるでしょうか」
「さ、さぁ。経験無いから……わからないや」
「そうですね。俺もわかりません。だから、俺も印を付けさせて頂いてもよろしいですか?」
「え……? どうして?」
窓を背に尾張と挟まれた状態で逃げ場がなく、律は白々しく首を傾けた。
「どうして? だって、貴女は俺のものです。所有物を奪い返すのは、主人として当然の行為だと思いませんか――?」
とてつもなく大きなものに押し潰され、身動きが取れなくなった気がした。律は頷くしかなく、新たに押された刻印が所有権を強く主張していた。
「……律」
首筋から離れた唇が、律の耳元へと吸い寄る。
「はっ、はい」
「もしかして、他に心を寄せる男性がいます?」
ドクンと心臓が跳ね上がる。呼吸の方法を忘れたかのように、律は硬直した。
「どう、して?」
声を腹底から絞り出し、問う。
「ほら、奪うように律を正室にしたから、心配で。あのときの律に選択の余地が無いことをいいことに」
「……都嵩にはたくさん助けてもらった。本当に感謝しているのよ」
「うん、それはわかっています。けど俺は、律からのお礼の言葉じゃなくて愛の言葉が欲しいんです」
「……」
「こんな恥ずかしい願い、ごめんなさい。俺は律が本当に好きなんです。でも律は聞いてくれないね? どうして俺が花街で貴女を見初めたのかを」
毛頭、抱くつもりのなかった疑問は尾張を疑心暗鬼へと陥らせていた。このままでは危険かもしれない。――自分も、大好きな人も。
律は笑顔を作ることすら忘れ、ただ必死に免れる道を模索した。
「――……どうして都嵩は、私のことを愛してくれたの?」
訊ねると、尾張はニコリと微笑んだ。
「貴女を、死なせたくないと思ったからです」
回答は理解が難しく、律は眉を下げた。
「それって、私を処刑の恐怖から救ってくれたってことよ……ね?」
尾張は首を振る。
「処刑は、来たるべき死を早めているに過ぎないのですよ」
「? 命あるものは、いずれ死ぬわ」
「ふふふ」
何も知らない律の頭を愛おしげに撫で、尾張は告げた。
「そろそろ、律にも明かさねばならぬときが来たようです。ずっと不思議だったと思います。どうして俺なんかが、ごく普通のアルビノの青年なんかが、エデンの園たる大規模な組織の頂点に君臨しているのかを――」
唾を飲み込む。律は待っていたのだ、このときを。エデンの園最大の謎にして、そして造船の目的を知るときが。
しかし。
「でもそのためには、俺のことをもっとよく知ってもらってから」
一度自室へ引き上げた尾張が戻ってきたとき、手には一冊の古い書物が握られていた。真っ黒いカバーで覆われ、手擦れのためか所々が破れている。表紙に文字は無いようだ。虫食いも激しく、一見するとボロ雑巾のようなそれを大切そうに抱えている様は異様で、しかし妙に納得のいく光景であった。
「これを貴女に預けます。俺が幼少の頃より大切にしている――友」
「友……?」
「友が教えてくれること、そしてエデン教徒たちが語る言葉に耳を傾けてください。――それが“俺”です」




