5.それぞれの道
少年が足を踏み入れた場所は、刑務所内で最も暗くて陰湿なフロアだ。天井から滴り落ちる水が音も無く床を滑る。
どんよりと濁った空気は、何年も換気をしていないから。呼吸すら困難で、錆びた臭いが鼻から吸い込まれ、全身を巡った。
少年の背後に女性が現れる。
「約束の1億円。ええ、確かに頂きました」
紙袋いっぱいに詰まった札束を受け取り、女性は契約が成立したことを少年に告げる。少年は張り詰めていた表情をホッと緩ませ、しかし最後まで気は抜くまいと暗闇の向こうを見据える。
奥から、覚束ない足取りの少女が監視人に支えられながら姿を現す。顔色が悪く、痩せ細っているのはきっと、少女の階級が第6であるからゆえだ。支配人から“穀潰し”と判定された者の末路は、家畜以下の扱いを受ける。
よろよろと左右に揺れながら歩く少女を、少年は力いっぱいに抱きとめた。
「ごめん! ごめんな、未悠……長く待たせちゃった……」
少女の名前を呼び、少年は涙を流す。
「これからはお兄ちゃんと同じ第5階級だからな! 男女は別々に住まないといけないからまた離れ離れだけど、同じ部屋のおばさんが未悠の面倒みてくれるって言ってるらしいから!」
第6階級“穀潰し”へと堕ちた妹を1億円で身請けした兄は、しかし清々しい気分にはなれていない。
「お兄ちゃん……疲れた顔、してるね」
妹――未悠の力の無い笑顔が、それまで虚勢を張り続けてきた兄の精神を崩していった。
*
エデンの園――30階建ビルの24階は、いつも血の臭いで充満している。腹から出た内容物と体液、そして血は拭いても拭いても消えずに床に染み込み続ける。いつしか赤黒く変色したフロアは無念のまま死んでいった亡者たちの怨念で満たされていた。すぐ上の25階は色街であるというのに、たった1枚の天井を隔ててまるで天国と地獄である。
いや、女郎にとってはどちらも地獄かもしれないが。
エデンの園は、民を処刑したがっている。だから、通常では考えられない理由で簡単に命を奪い取る。民を減らしたいわけでも、処刑を楽しんでいるわけでもない。この“処刑行為”は、エデン教にとって絶対的必要不可欠なのである――。
西暦にして2016年4月20日。凍てつく冬が過ぎて春が顔を覗かせつつある日、また1人の処刑決定者が24階へ現れる。男性だ。年齢は20代後半くらい。食事を過剰に摂取しているせいか体型は立派なメタボリックで、伸ばしっぱなしの髪と合わせて鼻がもげるような悪臭を放つ。
「そこで、ひざまずけ」
のしのしと重そうな身体を引っ張っていた男性へ、その場で待ち構えていた別の男性が指示を飛ばす。声を発した男性は全身が黒づくめで顔が見えにくい服装をしている。だからまだ20歳未満の少年であることは誰にもわからないが、肥満体型の男性は少年が誰であるかすら瞬時に把握し、ニヤリとうす薄気味悪く笑った。
少年の片手に握られているのは、己の存在を誇示するようによく磨かれた日本刀――これが処刑人のスタイルである。
命令通り両足を折った男性の眼前には、短刀が用意されている。男性は声をあげて笑う。耳障りな音であった。
「これで自分の腹をかっ捌けだぁ? この俺がやると思うか? あ? 俺サマがやるのはなぁ、運命だなんてクソみたいなもんに一矢報いてやることだぜ!」
男性は短刀を取ると、すばやく身を翻して背後にいる処刑人の首を狙った。その体型からは想像し難い瞬発力であったが、
「おやおや、作法を間違えていますよ。必要のないことまで教えてくれたあなたが、まさか割腹の方法を知らないとは」
技術と余裕を兼ね備えた処刑人に敢えなく両腕を捕らえられ、僅かな身動きすらロープに奪われる。
「切腹はね、まずその名の通り腹を割く必要があるんです。――こう」
処刑人は男性の手から短刀を素早く奪い取り、でっぷりと張った腹にぶすりと刺しこみ、横へするりと引く。
「ぎぃやっ」
腹に力の入らぬ悲鳴。処刑人は構わず続ける。
「苦しいでしょう。しかし僕の出番はまだなんです。この短刀を一度抜き、次に鳩尾から心臓を貫き、下に向け直し下腹に向け押し下げる」
普段は観衆が押し寄せる処刑場は今日は静かで、肉をかき分ける音だけがせっせと響く。
男性は手足に力が入らず、激痛の中意識が朦朧とし始める。白く濁った視界には、十字に引き裂かれた己の腹から内容物が漏れ出ている様が微かに映る。耳元で囁かれるのは、よく知る少年の悪魔のような笑い声。
「――最後に刀を抜き喉を突く。はい、ここでやっと僕の出番なわけですよ」
処刑人は手にしていた刃物を日本刀へとすり替える。
「あなたからは本当に色々教わりました。感謝しています。だから、もう、用済みなんです」
――すぱん。軽快な音とともに切り口鮮やかに分離した重たいものが床へと転がる。噴出する血と、悪臭。しかしこれを異臭と思わなくなればお前は立派な処刑人であると上司は言っていた。
「死んでからも相変わらず臭っせぇなぁ、このデブ。出てる臭いは悪臭とか異臭とか、そんな定義づけられるものじゃなくて――ただの、胸くそ悪い人生の終焉」
飛び出た舌をブーツのヒールで踏み潰し、処刑人の少年は吐き捨てた。