復讐者
「…僕と、結婚してくれないか…?」
怯えと期待を込めて彼女を見た。
手の中にはダイヤのリングが入った箱。
彼女、咲は信じられないといった顔でこちらを見た。
そうして、少し、目を閉じて。
「…嬉しいわ、悠君…」
いつもの、無邪気な彼女の笑みとは違う、歪んだ笑みを浮かべた。
自分で見ているモノが信じられなくて、思わず彼女の名前を呼んだ。
「さ、き…?」
「咲?誰よそれ?」
「え…?」
「私は咲なんかじゃないわ。葵。天道葵っていうのよ、芝浦君」
「てん、ど…?」
「覚えてる?覚えてるわけないわよねぇ、貴方、私が目障りだったんだものねぇ」
「なにを…」
「子豚ちゃん、だっけ?自意識過剰なブス…ストーカー予備軍とも言ってたわよね。失礼しちゃうわ」
「何を言ってるんだっ!咲!!」
悲鳴のように大声を上げる。
だが、そんな僕に咲…いや、天道は冷たい目を向けてきた。
「何って、貴方が私に言ったことよ」
「そんなことを言った覚えはないっ!!」
「ないでしょうねぇ、そりゃ。十年も前のことですもの」
「じゅう、ねん…?」
「ええ、十年…長かったわ、ここまで…うふふ……やっと…やっと、解放される…」
遠い目をしてうわ言のように繰り返す。
そこに、自分の好きだった『咲』は欠片として存在していない。
「どういうことだ」
「私ね…小学校の時、今よりも太めだったの。所謂ぽっちゃりってやつ。そこまで太ってはいなかったわ?今写真を見たってそう思う…ほら、見て、これ」
一枚の写真を取り出した。
そこに映っている少女は確かにやや太めで、ぽっちゃりという印象だ。別に太りすぎているようには見えない。
今のすっきりとした童顔の小動物のような彼女とはあまり似ていない。
見覚えもない。第一、小学校の時の思い出などほとんどないのだ。そういえばいたかもとさえ思えない。
「十年前ね、クラスに王子様みたいな男の子がいたの…そりゃ、憧れるし、好きになるわよね?私も、好きになった一人だった…初恋、でね。告白しに行ったのよ」
恥ずかしそうに笑った顔は『咲』に重なった。
名前を呼びそうになったが、その前に彼女が口を開く。
「もちろん、うまくいくなんて考えちゃいなかったわ。ただ、気持ちを伝えたかったの。自己満足ってやつ…彼は来てくれたわ。だから、私言ったの。『好きです。いつも素敵だって思ってました』って。勇気を振り絞って、ちょっとどもりながら。でも、精一杯に心を込めたの…そしたら、その王子様、なんて言ったと思う…?」
「……………」
「『はぁ?なにそれ、迷惑なんだけど』」
無表情に彼女はつらつらと述べる。
淡々と言っているからか、それが疑いもない事実だとわかる。
「『悪いけど、自意識過剰なブスには興味ないんだよね。なんか勘違いさせるようなことしたっけ?僕、華奢な子が好きだから、君みたいなのに声とかかけてないはずなんだけど。っていうか、まさか付け回してたりしないよね。ストーカー予備軍になってないよね?なってるなら即座にやめてね。本当に鬱陶しいから。じゃあね。二度と僕に話しかけないでね』…一言一句、細かい所までずっと覚えてるわ。忘れたことなんてない……忘れられるわけないじゃない?おかげで一時期人間不信になって引きこもってたわ」
「それは…多分、機嫌が悪くて…」
「機嫌が悪かったとかそういうのは関係ないのよ。私にとってわかってるのはそういうことを言ったっていう事実だけ。あの日から、私、復讐をすることにしたのよ。すっごくいい女になって、惚れさせて、捨ててやろうって思ったの」
腕を広げ、彼女は微笑んだ。
その笑みは歪んでいて、でも、どこか綺麗でスッキリしていて。
硬い意志が感じられる瞳に、僕は呑まれた。
「イイ女になったでしょ、私…語学力もあるし、知識も学歴も、貴方好みの髪型、メイク、体型、服装、性格…全て手に入れた」
そうだ、僕は彼女の外見にも惚れたが、その中身にも惚れたんだったとなぜか思い出した。
これだけ手に入れるのにどれだけの時間を僕に使ったんだろう。どれだけ僕を観察し、理解したんだろう。
身体が熱くなると同時にその根底にはそれだけ激しい憎しみがあることがわかって薄ら寒くなる。
それだけ自分は彼女を傷つけたのだと。これは、報いなのだろうか。
「部署が違ったからどう接触しようか迷ったわぁ。ま、なんとかなったけどね。本当に…本当に長かった…でも、もう終わり。私の復讐はやり遂げられたわ…さよなら、芝浦君」
「…え」
「何を驚いた顔してるの?貴方に用はないもの…そうそう、安心して。もう顔も見ないことになると思うわ。会社には辞表を出すつもりなの。他の会社に行くつもり。ああ、早くこの鬱陶しい髪切りたいわ。貴方が長い髪が好きだから伸ばしてたけど、ホント、手入れも手間も時間もかかるし。明日すぐに美容院行こっかな」
楽しそうに鼻歌混じりに出ていこうとする彼女に思わず手を伸ばした。
「好きといったのは…」
「嘘に決まってるでしょ?ああ、あながち嘘とは言えないかもね。好きだったから。今はもうどうでもいいけど」
パシッと音をたてて手が振り払われる。
「それにね、私、好きな人がいるの…いいえ、愛してるわ」
「あい…?」
「ええ。私と同じ…復讐をしている人。私の方が思ったよりも早く終わったから、手伝えるかしら。お互いの復讐が終わったら、どこか田舎に引っ越して、二人で幸せに過ごすの」
幸せそうな顔。自分は見たことのない顔。
上辺だけしか見ていなかったと骨の髄まで思い知らされる。
「じゃあね。さようなら、芝浦君…絶望を抱えながら、生きていくといいわ」
最後に呪いを吐いて彼女は出て行った。
鮮やかに、軽やかに、振り返ることもなく。
しばらく呆然としてから。
不意に、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
自嘲の笑い。歪な笑い声が一人の部屋に響き渡る。
愚かだ。無様だ。
女に振られる男を馬鹿にし、女に溺れる男を見下し、女を得られない男を嘲笑してきた。
なのに、なんだこのざまは!?
一人の女に溺れて、振られて、手に入らなかった。得られなかった。
こんな経験初めてだ。
天道、葵。
その名前が僕の中で何度も何度も繰り返される。
「天道…確かに、君の復讐は、完璧だったよ…」
人生で初めて欲した女。復讐のためとはいえ、その並外れた努力と能力は天性のモノだ。
優れた頭脳で考えだされた手段は、必ず求めていた結末へと導いただろう。
だけど、天道。君の計画には一つだけ、穴がある。
君は一つ勘違いしている。いや、考え違いか…?
「僕が、君を、諦めると思うのかい…?」
自分がこんなにも執着する人間だとわかったのはいつだったか。
少なくとも『咲』に会ってから、心を奪われてからだろう。
憎まれててもいい。むしろ、愛なんて不確かなモノよりも、憎しみという重く大きな感情の方がいいかもしれない。
「天道…いや、葵…愛しているよ。こんなにも狂おしいほど…そして、憎たらしい。誰よりも何よりも、心の底から、君が憎いよ、葵…」
僕は窓から眼下を見下ろした。
この街のどこかに葵はまだいるのだろう。
上機嫌に歩いているのだろうか?祝にとどこかで飲んでいるのだろうか?それとも…好いた男と会っているのだろうか?
握りしめた拳から、血が滴るのを感じた。
「葵、復讐完了おめでとう…次は、僕の番だ…」
あんなに幸せそうに語っていた葵。
もし、もしも。
僕がそれを君の目の前で壊したら。
一体君はどんな顔をしてくれるのだろう。
そして、また復讐にやってきた時には。
心も身体も僕への憎悪に染まっていて。
とても美しいに違いない。
青年は、無意識に彼女と同じ笑みを浮かべた。
だが、他に見ている人はおらず。指摘する人間もいなかった。
そうして、彼は動き出す。
愛し、憎んだ人に復讐するために。
復讐者達の戦いは、まだ始まったばかり…。