××月××日 鏡界線
子供の想像力は本当に豊かだ。どんなモノでも、自分の冒険物語の一要素に加えられ、世界は無限大に広がっていく。
しかし、大人になるにつれ、世界は逆に狭まっていく。可能性の限界、常識という境界線が立ちはだかってしまう。
自分の無力さを自覚してしまう。もちろん、私もその一人だ。だからこそ、私は超常現象を調べている。境界線を越え、さらなる世界を想像するためだ。
鏡界線。
これは私が子供の頃に作った造語だ。
鏡を見ていると、まるで別の世界と通じている窓に思えたのが理由だっただろうか? まぁ、そんな事はどうでもいい。とにかく、鏡には何か特別な力が宿っていると、今でも信じている。
だからこそ、今回私はこの鏡に纏わる都市伝説を調べてみることにした。
◆
S県A市のある公園に、古びた公衆トイレが設置されている。
このトイレの手洗い場には、二つの鏡が備え付けられていた。
その内の一方には所々にヒビが入っている。そのヒビが入っている鏡に悪霊が取り憑いているらしいのだ。
その悪霊に魅入られた者は鏡の世界に引きずり込まれ、二度と出て来ることができないらしい。
私は今、その曰くつきの鏡の前に立っている。所々にヒビが入っている以外に他の鏡と異なる所は見つからない。
雲間から月が覗いているのだろう。鏡に窓の外からの月の光が差し込む。暗いトイレ内で、その鏡だけがスポットライトを受けているようであった。なぜなら、天井に着けられている電灯は壊れているのか、その役割を放棄している為であった。
私は鏡に写る私を見つめた。薄暗い手洗い場で、興奮に目を輝かせていた。
最近はいつもこうだ。この超常現象の調査が他の何よりも私を夢中にさせていた。
私は携帯で時間を確認した。今は23時58分。明日まで後2分だ。噂では0時ちょうどにこの鏡の前に立っている者が悪霊に取り憑かれるらしい。
0時というのは今日と明日の境界。この手のオカルト話では定番の時間帯であろう。
そんな事を考えている内に、携帯の時刻は0時へと変わっていた。
私は鏡の前で身を固くした。鏡には、顔を強ばらせている私の顔が写っている。特に何も変わった所はない。
しばらく鏡を見守っていたのだが、特に動きもない。鏡の中の私が相変わらずこちらを見返しているだけだ。
私はため息を吐いた。この話はどうやらガセだったようである。
鏡に背を向けてトイレから立ち去ろうとした時、私は違和感を覚えた。
慌てて鏡を振り返ると、鏡の中の私が微動だにせずこちらを見返していた。そう、鏡の中の私は全く動かない。まばたきすらしていない。ただ、こちらを見つめ返しているだけだ。
不意に鏡の中の私がニヤリと笑った。現実の私は放心したように鏡へと手を延ばしていた。だか、
「おい、あんた! ここで何してる?」
後ろから何者かに肩を掴まれた。
私がギョっとして振り返ると若い男が立っていた。20代半ばといったところだろう。険しい表情をしていた。
「い、いきなり何なんだ!?」
突然の邪魔者に怒りを隠せない。また、いつかのようにカツアゲ目的のヤンキーだろうか?
「おい、この鏡の前で何をしていたんだ?」
男はひび割れた鏡を指し示しながら言った。
この男は何を言っているのだろう? まさか、この男もオカルト話を聞きつけてやって来たのだろうか?
「少し落ち着け」
トイレの入り口から、声がした。そちらに視線を向けて見ると長身の細身な男が立っていた。こちらも20代半ばといったところだろう。メガネの奥から鋭い目つきで私の方を見ていた。
「あぁ、悪りぃ……」
最初の男が私の肩から手を離した。私はその一瞬の隙にズボンの後ろポケットに入れていた防犯ブザーを取出し、ストラップを引っ張った。
耳障りなブザー音があたりに鳴り響く。面喰らった男たちの横をスルリと走り抜けた。トイレの入り口に立っていた男には軽くぶつかってしまったが、気にする余裕は全くなかった。
私を後ろを振り返る事無く、走り続けた。
ある程度、走った所で、私は立ち止って背後を見た。誰も追ってくる気配はない。完全に逃げ切れたのだ。それにしても、防犯ブザーを携帯していて本当に良かった。ヤンキーに絡まれて以来、護身用に持ち歩く事にしていたのだ。
私は息を整えると、宿泊しているホテルへ向けて歩きだした。
◆
翌朝、私はホテルのベッドの上で目を覚ました。
昨日の男たちに絡まれた事、鏡の中の自分が勝手に動いていた事など、実は夢だったのではないかと思えた。
疲れが取れていない。ホテルにはもう一泊する予定であったから、今日はここでゆっくりしていようか?
とりあえず私は顔を洗いにユニットバスの洗面台へと向かった。
冷たい水が私の頭をハッキリさせていく。
夜まではここにいよう。そして、真夜中近くになったら、あのトイレに行くのだ。
私は顔を上げ、鏡を見た。
「おはよう」
鏡の中の私がニヤリと笑いながら言った。
昨日、男たちが乱入してくる前に見たにやけ顔だ。私の顔であって、私ではない存在……。
私の中の好奇心が疼きはじめた。
「君は……何なんだ?」
私は鏡の中の自分に問い掛けた。傍から見れば、頭のおかしい男としか思われないだろう。
「何って……僕の事を知っているからあの場所に来たんじゃないのかい?」
鏡の自分がそう言った。私が知っている? あのオカルト話の事だろうか?
「つまり君は……悪霊なのか?」
「その名称で呼ばれるのは、遺憾だなぁ」
鏡の自分が不満げに顔をしかめる。
「どういう意味だ?」
「僕はただ、あの鏡の中で平穏に暮らしているだけなのさ。それなのに君たち人間は僕の姿を見て、勝手に恐れて大声で叫び喚く。僕にはいい迷惑だよ」
彼はそう言って、大儀そうに手を振った。
「人間に悪さをしていない?」
「もちろんさ。それどころか僕は君たち人間の友人になりたいと考えているんだよ」
「友人に?……私たちと?」
「そう。特に君とはいい友人関係を築けそうだよ。あの鏡の前に君が来てくれて本当に良かった」
こいつは何を言っているのだろう?
「……なぜだ?」
私は訝しげに尋ねた。
「なぜとは? 君を僕が気に入った理由の事かな? それはね、君がコチラ側の世界に片足を踏み入れているからだよ。君を一目見ただけで僕にはわかった」
彼の言葉に私の中の好奇心がさらに膨れ上がった。
「コチラ側の世界とはなんだ? 鏡の中の世界の事か?」
「そうだね。僕が住む鏡も含めたあらゆる超常の世界の事さ。君はこれまでたくさんの現象を体験してきたようだね?」
「なぜわかる?」
「目だよ。君の目は現実ではなく超常の世界を追い求めている、そうだね?」
どんな目をしているのだろうか? とりあえず、相槌はしておく。
「あぁ、かもしれないな」
「それで、僕の友人になってくれるかい?」
「友人になって何をするんだ?」
「そうだな。君と僕、お互いの事を語り合おうじゃないか。今の僕には話す事しかできないからね」
何か裏があるのではないかと考えたが、やはり好奇心には勝てない。
「……わかった」
私は鏡の中の友人と、奇妙な語らいを開始した。
◆
「――僕はね。君たちの事が羨ましいんだ」
彼は静かにそう言った。
私は便座に腰を下ろして、彼の話を聞いていた。
「なぜ?」
「だって君たちは何だってできるじゃないか。色んな景色を見ることができるし、新しいモノを創り出す事もできる。走ったり、泳いだり、機械で空を飛ぶ事もできるのだろう? 僕は鏡の中で存在しているだけだ。本当に羨ましいよ」
何と純粋なる羨望だろうか。これではまるで子供と話しているようだな。
「それは君、良い面ばかりを見過ぎているよ。現実には貧困格差、犯罪、差別、くだらない人間関係、毎日毎日変わり映えしない仕事、そんな事に囲まれながら貴重な時間を浪費する日々だ。夢なんてない。あるのは息苦しい社会だけだ」
「君は今の生活に不満なのかい?」
彼は真顔で尋ねた。
「不満だね。今は超常現象を調べている時が一番の安らぎだよ。何ていうのかな、超常世界の事を知れば知る程に私の中の世界が広がって行くんだ」
これは私の本音だ。
「常識を超えた現象を目の当たりにしても君は恐れないどころか、ワクワクしているのかい?」
どこかからかいを含む物言いだった。
「まあね。子供の時に見た世界の輝きを感じる事ができる。私にはこの瞬間こそが意義ある時間だと思うな。くだらない人間社会にはうんざりだ」
「ふーん。君は中々特殊な考えの持ち主だね」
「そうかな? 私はただ、このまま無味乾燥な人生を送りたくないだけだよ」
「他の者からしたら君の生き方こそが無味乾燥かもしれないよ? 他の者たちは家族を抱き、仲間と談笑し、つらい事があっても、一生懸命に生きているんじゃないかい?」
良く聞く説教文句だな。
「なんだか、どこかのエセ教師のような事を言うね。私に言わせれば、そんなモノは滑稽でしかない。世界には人間の常識を超えたモノがたくさん存在する。それに比べれば人間の営みなど取るに足りないさ。私たち人間は所詮、常識という檻の中に閉じ込められた憐れな生物なんだよ」
「……そこまで言うのならさ、いっその事、僕の世界に招待してあげようか?」
さすがの私も今の発言には身を固くした。
「え? どう言う意味だ?」
「あの鏡の中に君も入ってみないかって事さ」
「そんな事ができるのか?」
「うん、できるよ」
怪しいな。
「でも、出る事ができないって事はないだろうね?」
「安心してよ。ちゃんと出る事はできるから」
「……」
ここで私は思案した。この提案を受け入れるのは、あまりにも危険ではないのか? いや、間違いなく危険だ。だが、膨れ上がった好奇心は、この提案に歓喜している。
美食家がご馳走を前に我慢できるだろうか? いや、できまいよ。
「じゃあ、行ってみようかな」
「そう言ってくれると思ったよ。ほら、ちょうど、日も暮れてきた。もう少し話してから、あの公園に行こう」
彼の言葉に戸惑った。私はユニットバスから顔を出し、部屋の窓から外を見てみた。
ついさっきまで朝だったはずなのに、いつの間にか夜になっている。そんな馬鹿な。朝から何も食べていないのに、空腹も感じていなかった。
「……わかった」
私たちは夜中近くになるまで、再び会話を始めた。
◆
昨日とほぼ同時刻、私は同じように例の鏡の前に立っていた。違いは、鏡の中の私が勝手に動いている事だけだろう。
私は不安げにあたりを見回した。昨日の男たちが再びやって来ないか心配だった。
「そんなに心配する必要はないよ。昨日の彼らなら、やって来ないさ」
「どうしてわかる?」
私は当然の質問をした。
「それは秘密だよ……そんな事はいいから、もうすぐだよ」
彼の言葉は気がかりであったが、私は時間を確認した。真夜中まで、あと1分か。
私は胸の高鳴りを感じた。
鏡の世界というのはどんなモノなのだろう? 他の誰もこんな体験をした事はあるまい。私だけだ。私だけが特別なのだ。
そんな事を考えているうちに時刻は0時となった。
変化は予期せぬ形で訪れた。
「……は?」
私は困惑した。自分の両手がまるで意思を持ったように勝手に動く。その両手は私の首元まで持ち上がると、一気に私の首に襲いかかった。
それはまるで2匹の獣のように私の首を絞めつける。何て力だ。私が出せる力ではないぞ。
「お、おい!? 手が勝手に!!」
私は必死に声を絞り出した。
「僕が動かしているんだよ。ほら抵抗しないで、僕に任せてよ!」
「な、何をするつもりなんだっ!?」
「何って、もちろん君を殺すんだよ? 死なないと鏡の世界に入る事はできないんだから。それと安心して。鏡の中なら世界中の鏡に移動する事ができるんだよ。ワクワクするだろ?」
な、何だと!?
私は氷水を浴びせられたように震えだした。
先程まで感じていた好奇心もどこかへ吹き飛んでいた。
「や、やめてくれ! 助けて!!」
「どうして嫌がるんだい? 僕たちは友達同士だろ? 鏡の中で僕とずっと一緒に居てくれよ。ずっと、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと――」
鏡の自分の後ろに黒い靄のようなモノが現れた。
ソレは鏡の私の背後で人型に変化し、その手にあたる部分で、私の手を操り人形のように動かしていた。
その黒い靄のちょうど顔にあたる部分には白い炎のような目と口があった。
ソレは私に視線を向けると、ニヤリと顔を歪めた。
吐き気がする程、邪悪な笑顔であった。
私は悲鳴を上げようとしたが、締め付けられていて声が出せない。
意識が遠のいて行くのがわかる。死が近づいている。
死……。
嫌だ、死にたくない。死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死死死死死死――
その時、どこかで爆音が轟き、私の身体を誰かが抱きすくめた。
「タケルっ!! 鏡だっ! その鏡を割るんだ!!」
私の身体を庇っている男が言った。
「わかってる!!……てめぇ、小賢しい結界なんか張りやがって!!」
もう1人の別の男が鏡の前に対峙していた。
彼の手には銀白色のメリケンサックが装着してあった。
「このクソ野郎がああああぁぁぁ!!」
男はそう叫ぶと、その拳を鏡に叩きつけた。
鏡が割れる音が聞こえる。それはまるで、獣の悲鳴のようであった。
それで終わりではなかった。鏡の中から、例の黒い靄が飛び出してきた。
しかし、タケルと呼ばれた男は怯む事なく、黒い靄に向けて拳を叩きつけた。
靄を殴ったって意味はないだろうと思ったが、不思議な事に彼の拳は黒い靄に効いているようだった。
黒い靄は絶叫を上げている。男は何度も何度もその拳を叩きつけていた。
「大丈夫ですか!? 僕の声が聞こえますか? 大丈――」
私を庇っていた男が呼びかけてきた。
だが、私の意識はしだいに遠のいていく。彼の輪郭がぼやけている。不思議と彼のメガネだけははっきりと認識する事ができた。
視界の隅が白色に染まって行く。
そして、私は気を失った。
◆
目が覚めると、そこは病院のベッドであった。
おそらく、あの二人組の男が運び込んでくれたのだろう。
幸いな事に、軽傷で済んでいたので、すぐに退院する事ができた。
病院の外に出てみると、もちろん知らない土地ではあるのだが、何だか未知の世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。
怖い。世界が怖い。
これまで、私は色々な超常現象に接してきた。その時は全く恐怖など感じていなかった、と言えば嘘になるが、その恐怖感は好奇心の前には小さなモノであった。
だが、今回の鏡の中の怪物との遭遇により、それは一転してしまった。
今までも命の危機を感じた事がある。だが、今回は明確な殺意を向けられていた。私を殺す為にあの怪物は動いていた。
私は知った。自分の命など、彼らにはいつでも奪い取る事ができるのだ。
いや、私自身、そんな事は知っていたし、奴との会話でもそれらしい話をしていたではないか……。
私は心のどこかで自分は大丈夫だと根拠の無い安心を作り出していたのかもしれない。
自分は特別な人間なのだと。そう簡単に死ぬ事はない。だって私はこの怪奇な物語の主人公なのだから、と……。
だが、実際は違う。私は特別でも何でもない。主役でもない。私はただの無力な人間なのだ。
特別な人間というのは私を救ってくれたあの2人組の事を言うのだろう。
あの2人組が何者なのか、私にはわからない。わかりたくもない。
ただ、確かな事は彼らは境界線の外の存在だという事だ。彼らはどこぞのヒーローの如く、超常世界の住人と戦っているのかもしれない。だが、もう彼らの事を考える事は止めだ。
彼らは私を救ってくれた。しかし、私は彼らに対して感謝の気持ちを感じるよりも、恐怖を感じていた。
怖い、ただそれだけだ。
もうこれ以上、私がこの体験記を書くことはないだろう。今回でお終いだ。
私の片足は境界線を越えていた。しかし、今の私の視線は境界線の外ではなく、内側の常識という安全地帯に向いている。
願わくば、この常識の外へと飛び出した片足を元に戻したい。
暗黒の世界よ、私の前から消えてくれ!!