2月9日 絵画
今回は、ある画家の絵画に関する噂を確かめてみるつもりだ。
その画家はまだ20代でありながら、謎の死を遂げた。
彼女は幼少の頃から絵を描くことに夢中だったらしい。そして、10代半ばにしてその才能を開花させ、彼女は神童と呼ばれた。元々、彼女の家系は芸術家を多く輩出していたが、彼女の才能は特出していた。
業界関係者の誰もが、彼女がこれから描く作品に期待していた。
しかし、事件は突然起きた。彼女は自室にて、大量の血を流し、死んでいた。彼女の周りにはキャンパスが散乱しており、そのすべてが彼女の血で真っ赤に染まっていたらしい。目立った外傷もなく、他殺か自殺かもわからない。とにかく、すべてが謎に満ちた死だった。
彼女の死後、遺体が発見された家を改築して、個展美術館が作られた。私には悪趣味に思えるが、謎めいた彼女の死に興味を持った人々がたくさん訪れているようた。
この美術館に飾られた絵の中の1つに曰く付きの噂が立っていた。これを調べないわけにはいくまいと思い、早速訪れてみることにした。
あまり人がいない時がよかったので、私は平日の昼間に訪ねた。
受付をすませ、中に入ると、思った通り人は少なかった。
ひとまず、一通りの作品を眺めていくことにした。そんなに数は多くないので、10分もあればすべて見て回れる。言っておくが、私は芸術というものに疎い。しかし、彼女の作品を見ると背筋がゾッとするものばかりだった。
彼女の作品は、そのほとんどが悪夢をそのまま絵にしたようなものばかりだった。燃え盛る風車の下に佇む翼を生やした異形の怪物、村人に斬りかかる騎士たち、死体の山を背景にして手を繋ぐ幼い姉妹、そして、闇の中を手提げランプ1つで彷徨い歩く老婆。
中にはまともな絵もあったが、だいたいは気味の悪い絵だ。
出口付近のあたりで、ようやくお目当ての絵を見つけた。その絵は若い女の肖像画だ。モデルが誰かはわかっていない。目鼻立ちのはっきりした女性で、黒髪を肩まで伸ばしている。不気味さなど微塵も感じない。
噂によると、この絵の女から血の涙が流れるらしいのだが、特別変わった所はない。
ふと肖像画の横を見ると、額縁に入った真っ白なキャンパスがある。ちょっと気になったので、そのキャンパスの前まで移動してみた。
未完成品だろうか? いや、まったく何も手を付けられていないようだ。芸術家の考えることはよくわからない。
私はぼけっーと眺めていたのが、視界に違和感を感じた。目の焦点がキャンパスから外せない。キャンパス以外のあらゆるものがぼやけている。目の錯覚だろうか、真っ白なキャンパスがどんどん大きくなっていくように感じる。いや、これはむしろ私自身が吸い込まれていくようだ。周りが白色に浸蝕されていく。私の意識はしだいに遠のいていった。
頬に熱気を感じ、目を開けると、夜の闇の中、燃え盛る風車が見えた。羽根は激しい炎に包まれながらも回り続けている。
「……は?」
なんだこれは、いったいどうなっている!!
さすがの私もこの状況には参った。美術館にいたはずなのだが、意識を失っている間に、知らない土地に来てしまっている。混乱しないわけがない。
周りを見回すが、建物らしき物は燃える風車以外何もない。ここは小高い丘の上だろうか? 足下には草が生い茂り、下の方には鬱蒼とした森が広がっていた。
再び燃える風車の方に目を向けた。この光景は先程見たばかりじゃないか、美術館で見た絵そのままだ。絵の中の悪夢に私は迷い込んでしまったのだろうか?
こんな不思議な現象は初めてだ。幽霊や怪物には何度も出会ってきた。しかし、絵の中に入り込むのは文字通り次元が違う。
出口とかあるのだろうか?
私はもう一度、あたりを見回した。先程は気づかなかったが、丘を下ったあたりに奇妙なものを発見した。それは額縁だった。ただし、空中に浮遊していた。微かに上下に揺れている。ここからだと、どんな絵が入っているのか見えない。
この状況を打開するヒントがあるかもしれない。私は丘を下りだした。
バサッ……バサッ……。
上から異様な、羽ばたきする音が聞こえた。
嫌な予感がする。私は燃える風車の絵を思い浮かべてみた。風車だけだっただろうか? いや、違う。炎を背にした忌まわしい怪物……。
私が恐る恐る見上げると、悪夢の獣がこちらを見下ろしていた。体は大型犬くらいの大きさで、黒い体毛で覆われている。手と言うべきか前足と言うべきか、その部分が異様に長く、爪がナイフのように鋭い。そして、体の何倍もある黒い大きな羽をバタつかせ、その醜い顔で私を睨みつけている。
私がじりじりと後退っていくと、羽の生えた魔物は逃がすものかと吠え始めた。
それを合図に私は丘の下の森に向かって走り出した。
魔物は醜い叫びを上げながら、私目掛けて襲いかかって来た。
私は死にもの狂いで丘を駆け下りた、と言うより転がり落ちた。飛んだり跳ねたり、変則的な動きをしていたおかげで、魔物の鋭い爪は何度も空を切ることになった。
森まであともう少しだ。振り向くと、魔物はほんの何秒か前まで私がいた地面に爪をめり込ませていた。
安堵した。これで森まで逃げ込める。森にさえ入れば、空から襲われることはないのだ。私は森まで一気に駆け抜けようと前を振り向いた。
「うっ!」
頭を何か固いものにぶつけてしまった。突然の不意打ちに驚き、立ちはだかった障害物を見てみると、それは例の額縁だった。さっきまでこの額縁を調べようと思っていたのに、魔物の襲撃によりすっかり忘れていた。
唸り声が聞こえる。振り向くと、魔物が私の目と鼻の先にいた。醜い顔を勝ち誇ったように歪めている。
意識が朦朧としてきた。美術館のときと同じ感覚だ。視界が白色に浸蝕される。
魔物が吠えながら、飛び掛かってきた。鋭い爪が私の体に食い込もうとした時、私は完全に意識を失った。
眩しい……。
照りつける太陽が私の肌を焼く。
はっと目を覚まし、身構えた。ところが魔物はどこにもいなかった。いや、魔物どころか場所もまるで違う。私は今、地面に寝転がっていた。起き上がり周りを見回すと、石造りの家が何軒か立っている。道を行き交う人々はみな白人で、映画や絵画で見るような昔の服装をしていた。中世ヨーロッパ風の村のようだ。
空を見上げると、太陽が真上まで昇っていた。もうお昼時のようだ。
道に座り込んでいる私を村人たちは不審な目で見ていた。一定の距離を置かれている。
これからどうするにしても、まずは情報を集めなければならないだろう。
私はゆっくりと立ち上がり、近くで私を覗き込んでいた年配の女性に話しかけた。
「すみません、ここはどこですか? あ、ちょっと待って!」
年配の女性は恐怖に引きつった顔をして離れていく。
そんな警戒しなくてもいいのに。まぁ、普通はそうだな。あ、日本語が通じないのか!
「あー、エクスキューズミ―」今度は太った男性に話しかけようとしたとき、突然が悲鳴が上がった。それと同時に馬に乗った騎士たち数十名がこちらに駆けてきた。鎖帷子で身を覆い、その上に紋章が入った外套を身に着けている。片手は手綱を持ち、もう一方には鈍く光る剣を手にしていた。そして、その剣は容赦なく村人の身体に振るわれた。
一瞬にして、血と悲鳴で村は満たされた。男は殺され、若い女は捕えられる。あまりの光景に私はただ茫然としていた。そんな私を騎士の1人が乱暴に地面に押さえつけた。
それから数分後、村人たちは皆殺しにされた。あとに残ったのは、無残な死体と騎士たちの下品な笑い声だった。死体から血が流れ続け、地面に吸われることはなく広がり続けている。やけにドス黒い色をしていた。
騎士たちは私を立たせ、珍しげに眺め回している。私の服を引っ張ったり、頭を掴んだりし、なにやらお互いに話し合っていた。
1人の騎士が私に顔を寄せ、なにやら話しかけてきたが、まるでわからない。話が通じていないと見るや、騎士はイラついたように私を打った。私は再び地面に倒れ伏した。それを見て、他の騎士たちはゲラゲラと笑った。
私は地面に這いつくばったまま、騎士たちの足の隙間の先にあるものを見て凍りついた。
村人の死体から流れ出た血が一か所に集まりだしていた。遠くに離れていた死体からも血が蛇のような動きで集まってくる。血は寄り集まって、直径80cmくらいの丸い球体となり、騎士たちの背後に浮かび上がった。
私以外誰も気づいていない。私は動くことも声を出すこともできなかった。
球体から1本の細長い血の触手が伸びてきた。それは1人の騎士に狙いをつけ、矢のように飛び立った。血の矢は騎士の鎖帷子を貫通し、彼の心臓を刺し貫いた。鮮血が彼の胸から迸る。周りの者は唖然として、攻撃者の方を振り返り、みな驚愕した。
球体はさらに多くの触手を伸ばしている。騎士たちの中には、攻撃しようとする者、逃げようとする者、腰を抜かす者がいたが、みな血の矢の餌食となった。
こうして第2の殺戮ショーが終わると、村には私と球体だけが残っていた。
球体は私に何の関心も示さず、村から飛び去って行った。
私は立ち上がり、死体を踏まぬように歩き出した。こんなことが現実であるはずがない。ここは絵の中の世界だ、間違いない。これも美術館で見た絵とそっくりの光景なのだ。いや、もっと悲惨な状態だが……。
とにかく、額縁を探さなければならない、あれが元の現実に戻るための鍵だ。
額縁は、ある家の戸口にポツンと置かれていた。間近で見ても、ぼやけていて何の絵かわからない。すると、例の白色に視界が飲まれ始め、意識が遠のいた。
今度は現実世界に連れ帰ってくれよ……。
目を覚ますと、頬にヒヤリと冷たいものを感じた。私は今、石畳みの上に寝転がっていた。
また夜になっている。ちょうど雲がかかっていて真っ暗だ。
先程の村とは違って、より近代的な建物で出来た街のようだ。しかし、街灯や建物のどこにも明かりが点いている様子はない。
ここも現実の世界ではない。私は額縁を探すため、街を探索し始めた。しかし、どこにも人の気配がない、まるでゴーストタウンのようだ。
比較的大きな通りを歩いていると、きれいな歌声が聞こえた。誰かいるのだろうか? 歌声の主を探して耳を澄ましていると、少し先の路地から聞こえていることがわかった。
恐る恐る路地を覗き見ると、まだほんの10、11くらいの少女たちが手を握り合いながら歌っていた。彼女たちの背後は暗くて見えない。
私は安堵し、彼女たちに近寄った。少女たちは私を気にすることなく歌い続けている。歌のことはあまりわからないが、この世のものとは思えない美しさだ。あまりの美しさに背筋がゾッとしさえした……。
なんだろう? 嫌な予感がする。この世界の絵はどんなだったけ?
雲が途切れ、月明かりが差し始めた。彼女たちの背後がだんだん照らされていく……。
「……!?」
彼女たちの背後に、うず高く積まれた死体の山が見えた。肉の山から湧き出る血の小川は麓まで流れ、石畳みを血の海に変えていた。
狼狽える私を見て、彼女たちは鈴のような笑い声を上げた。彼女たちの笑い声は耳どころか体の芯にまで響き、私を震え上がらせた。
私は踵を返して、路地から逃げ出した。彼女たちから逃れる一心で大通りを走った。しかし、彼女たちの歌声と笑い声はどこまでも私を追ってきた。
幸い、目当ての額縁は数m先の真正面に浮かんでいた。
焦るように額縁を掴むと、視界が白色に包まれる。意識を完全に失う最後まで、少女たちの歌声は耳に響いていた。
意識を取り戻すと、目を開けているはずなのだが、真っ暗闇のままだ。目が見えていないのかと焦ったが、離れたところにポツリと1つの明かりが灯っていた。ゆらゆらと揺れている、どうやら動いているようだ。
私はこの世界が何の絵のものかすぐにわかった。手提げランプを持って闇の中を彷徨い歩いている老婆の絵だ。
先程の少女たちのこともあり、近づくことを躊躇った。しかし、この闇の中ではそう言ってはいられない。多少の危険は承知で、私は老婆の元へ向かった。
足場がちゃんとあるか、慎重に歩いていたが、老婆にはすぐに追いついた。
かなり高齢のようだ、腰が曲がっている。フード付きの外套を身にまとい、右手にランプを持っていた。
「すみません、ご婦人」 私は遠慮がちに話しかけてみた。
老婆はゆっくりとこちらを振り向いた。顔はフードを目深に被っており、見ることができない。
「私は額縁を探しているのです。宙に浮いていたり、絵がぼやけていたりする不思議な額縁です。どこか心当たりはありませんでしょうか?」
老婆は空いている左手で前方を指差した。
この先にあると言うことだろうか? しかし、先は暗闇で何も見えない。
老婆は手招きし、再び歩き始めた。付いてこいと言っているようだ。私は老婆のあとを歩き始めた。
「あの、ここがどこか教えてくれませんか?」私は老婆の背中に問い掛けた。
「……」
話すつもりはないらしい。もしかしたら話すことができないのかもしれない。時間の感覚に自信はないが、これこれ10分は歩いているように思う。この老婆は本当に額縁の場所を知っているのだろうか?
もしかしたら、私は騙されているのかもしれない。だが、だからと言って、他にどうしようもない。今はこの老婆を信じて歩くしかない。
それからさらに5分くらい経ったとき、老婆が足を止めた。老婆が前方を指差す。その先を目で追うと、中が光り輝いている額縁が宙に浮いていた。
額縁だ! あったぞ! だけど、これだけ光を放っていたのになんで気づかなかったのだろうか?
そんな疑問は後回しすることにして、私は老婆に感謝を述べた。老婆は気にすることなく、額縁の横に立った。
私は額縁に近寄った。すると、額縁の輝きがさらに増した。あたりの暗闇を照らしている。眩しさに手で庇っていると、
「楽しんで頂けたかしら?」横から若い女の声が聞こえた。
そこには老婆がいたはずだが、いつの間にか若い女に代わっていた。服装は同じ外套で、フードを目深に被り、顔は見えない。
「……なに?」私が狼狽しているのを見ると、女は笑った。
「本当は帰すつもりはなかったのよ? だけど、あなたにはあんまり興味が持てなかったわ。だから今回は帰してあげる……」
どういうことか問いただそうとしたのだが、ふと背後に只ならぬ気配を感じた。
「振り返らないほうがいいわよ」女が言った。
だが、好奇心が強い私は振り向かずにはいられなかった。そして私は見た――
このあと見たであろうモノを私がいくら思い出そうとしてもできなかった。だが、それがどのような性質のモノだったのかはなんとなくわかる。
ソレはとてつもない悪意の塊だったのだと思う。世界の裏側に潜む、巨大で尋常ならざる狂気の集合体だ。どんな者であろうと絶望の淵に叩き落されるに違いない。
私はそのモノを忘れてしまったことこそが、人生の中で一番の幸福だったと確信している。
そして私は再び白色に視界を浸蝕された。最後に、例の女が手を振っていたことだけは覚えている。
目覚めたとき、私は美術館の床に倒れていた。近くにいた老夫婦が心配そうに近寄ってきたが、手で制し、心配ないと告げた。
真っ白なキャンパスが置いてあったはずの場所には、別の風景画が置かれていた。そしてその隣には変わらず肖像画が飾られていた。だが、彼女の頬には微かに赤い涙が伝っていた。
あのフードの女が誰だったのか、わかった気がする。
若くして悲劇的な死を遂げた天才画家、
……カミト……ミラ……。